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返報 13-5 [返報]

13-5




 家の中を隈なく探したが、菊池夫妻は娘を見つけることができなかった。

 パニックに陥った妻の清子は度重なる疲労で倒れ、信弘は妻のために救急車を呼ぶとすぐ警察に電話して娘の捜索を求めた。一刻も早く娘を探したかったが、彼は救急車が到着するまで妻の手を握って娘の無事を祈った。

 息子や近所の人々に助けを求めることもできたかもしれないが、信弘も妻の貧血と娘の失踪でパニックに陥っていたので、そこまで考えることができなかった。

 “どうしてこんなことに…”

 10分後に2人の救急隊員がやってきて妻の清子を救急車に乗せ、救急隊員の一人が信弘に同乗を促した。すると、2人の制服警察官が狼狽している初老の大学教授に近づいてきた。

 「菊池信弘さんですか?」背の低い制服警察官が尋ねた。

 「はい。」信弘が二人組の警察官の方を向く。

 「娘さんの件で確認して欲しいことがあるので、ご同行願いますか?」

 菊池信弘は一度救急隊員の方へ向き直り、「すみませんが、後で合流します」と言った。

 すると、救急隊員は搬送先の病院名を告げて病院へ急ぎ、菊池は2人の警察官と共に警察署に向かった。









 

 冷水を顔に浴びせられて三浦が目を覚ました。

 彼に冷水を浴びせた守谷は空になったプラスチックのバケツを床に放り投げ、横たわる三浦の顔を覗き込んだ。SAT隊員は湿気の多い薄暗い部屋で両手を後ろ手に縛られており、腕を動かしてみたがビクともしなかった。
 
 「起きたかい、大ちゃん?」薄ら笑いを浮かべて守谷が言った。三浦の肘打ちによって生じた額の切り傷の出血はもう止まっており、傷は小さな赤い一筋の線になっていた。
 
 「恭子は何所だ?」三浦は恋人の安否が気がかりであった。

 「お前の後ろにいる。」

 SAT隊員が後ろを向こうと動くなり、守谷が彼の髪を掴んで手前に引っ張った。

 「まだ話しは終わってないぞ。お前は何者だ?」

 「俺はただの―」

 「そうじゃない。」守谷が三浦の話しを遮った。「知りたいのはお前の“正体”だ…」

 「だから、俺は―」

 三浦が再び喋り始めると、額に真新しい切り傷を持つ守谷が上着のポケットから黒い二つ折りの財布に似た物を取り出した。そして、男はそれを開いて拘束されているSAT隊員に見せた。それは高橋恭子の警察手帳であった。

 「あの女に俺たちを探るように唆されたか?お前なら簡単にあの女の誘惑に負けるだろうな…ところで、あの女、高橋恭子はヤってる時にどんな声を出すんだ?それとも御褒美はまだだったかな?」

 守谷の発言に三浦は苛立ち、額に青筋を浮かべた。

 「それ以上言ってみろ…後悔することになるぞ…」

 「そうかな?」守谷が三浦の髪から手を離す。「俺はこう見えてもやさしいんだ…」額に切り傷を持つ男は右足でSAT隊員を押して高橋恭子の方を向かせた。

 高橋は彼から2メートル程離れた場所で三浦と同じように両手を後ろ手で縛られた状態で横たわっていた。彼女は気を失っており、乱暴された痕跡は見当たらなかった。

 三浦が交際相手の状態を確認して安心していると、守谷は部屋の隅にあった机から灰色の工具箱を持って来てそれをSAT隊員の前に置いた。

 「お楽しみの時間だ。」そう言って、守谷が工具箱から金槌、マイナスドライバー、パイプレンチ、ポケットナイフを取り出して床に並べた。「ちなみに金槌とドライバーはセットになってるから、どっちか一つっていうのは無理だ。」

 「彼女は無関係だ!殺るなら俺だけにしろッ!!」三浦が怒鳴った。

 「それはダメだ。」守谷はあっさりと三浦の訴えを拒否した。「三須はお前たちを消したがってる。それにお前が死んだら、彼女が悲しむだろ?でも、二人とも死ねば…共に楽だろ?」不気味な笑みを浮かべながら、守谷は床に広げた道具を等間隔に離して並べ直す。

 「恭子は無関係だ。彼女は俺の潜入捜査を知らないんだッ!!」

 「どうだかねぇ~」と守谷。

 「信じろとは言わない。だが、もうすぐ仲間がここにやってくるぞ。」三浦はこの場を切り抜けるために嘘をついた。「お前たちの携帯はもうハッキング済みだから、すぐにここを突き止めて突入して来るぞ!」


 これを聞くと額に浅い切り傷を負った守谷は笑みを消し、三浦から視線を逸らして道具箱を置いていた机の方を見る。

 「お前ら…」

 守谷が呼ぶまで三浦は他者の存在に気付けなかった。三浦を囲むように三人の男たちが暗闇の中に隠れており、彼らは鋭い目つきで三浦と高橋を見つめていた。

 「武田は上の連中に荷物をまとめるように言え。後の2人はこの大ちゃんを別の場所に運んでもらう。」指示を下すと守谷は道具箱を置いていた机から赤黒く汚れたタオルを取って三浦の前で立ち止まった。

 「ちょっと失礼…」そう言うと、彼は三浦の腹部を蹴り飛ばし、これが引き金となって激痛と呼吸困難がSAT隊員を襲った。そして、その際に三浦の口が大きく開き、間を置かずに守谷は潜入捜査官の口にタオルを深く押し込み、吐き出されないようにジーンズのポケットに収めていた短いパラシュート・コードで固定した。

 「女はどうするつもりです?」武田が尋ねた。

 「彼女はここに残る。」守谷が床に置いていたポケットナイフを取り上げて言った。

 三浦は必死に体を動かして、目の前にいる男がしようとしていることを止めようとした。

 「分かってるって…」そう言って、守谷は気を失っている高橋恭子の髪を掴んで持ち上げた。頭皮に走った激痛で高橋が目を覚まし、数メートル前で縛られている恋人を見て驚愕した。

 三浦は何度も体を動かして起き上がろうとした。それを不快に思った武田がSAT隊員の頭に右膝を乗せて床に押し付け、三浦の動きを抑えた。

 「だ、大ちゃん…?」

 それが彼女の最後の言葉になった。

 守谷は深くナイフの刃を高橋の首に差し込み、三浦の前でゆっくりと水平に移動させた。刃が移動する際におびただしい量の血が飛び散り、それは三浦と武田にも届いた。

 高橋恭子は想像を絶する痛みに震え、助けを求めて声を出そうとするも、出るのは息を吐く音だけであった。彼女が死ぬ前には見た物は首から飛び出る血と声にならない絶叫を上げて暴れ回る三浦、彼を抑える男であった。彼女の血は気管に進入し、それは肺を満たそうとしていた。呼吸ができない苦しみが込み上げ、その苦しみが癒える前に彼女は息絶えた。

 SAT隊員は涙を流しながら叫んでいた。しかし、彼の声はタオルによって塞がれている。

 高橋の死を確認すると守谷は彼女の髪から手を離し、ナイフを床に放り投げた。

 「三須に電話だな…」

 何事も無かったかのように守谷と武田は仲間二人を残してその場を後にし、三浦は咽び泣きながら恋人の亡骸を見ることしかできなかった。









 ステンレスの台に横たわっていたのは明らかに菊地夫妻の娘であった。娘の詩織は眠っている様に見えたが、肌の色は青白くなっていて生気が見られない。

 顔を覆っていた白い布が捲られて愛する娘の顔が見えると、信弘は込み上げてくる感情を抑えることができなかった。涙が両目に溜まって視界がかすみ、呼吸が乱れて唇が震え、両脚で立つのもやっとの状況だった。

 菊池信弘から連絡を受けた警察は、通報の12分前に起きた交通事故の被害者と菊地の娘の特徴が似ていたので信弘に同行を求めたのだ。

 娘の詩織は母がうたた寝している間に家を抜け出し、適当な建物の屋上から飛び降りようとしていた。彼女は自分が両親に迷惑をかけていることに胸を痛めており、いずれ自分が両親を死に追いやってしまうと思って自殺を決意したのだ。

 “私がいなくなれば…”

 しかし、菊池詩織はその道中で脇見運転をしていた男性の車に轢かれ、その際に頭部を強打して死亡してしまった。

 娘の訃報を受けた妻の清子は泣き崩れ、息子の優介は言葉を失った。それでも家族の死を受け入れられない二人は死体が安置されている警察署へ行き、そこで蝉の抜け殻のようになっていた菊地信弘を見つけた。残された家族は亡くなった詩織の死体と向き合い、そして、締め付けられるような痛みが胸を襲った。

 この悲しみが癒え始めたのは、事件から3年後のことであった。その間、菊池夫妻は生気を失ったようだった。何をしていても娘のことを思い出し、その度に泣き出してしまった。両親を気遣う息子の優介はできるだけ実家に顔を出すようにしていたが、あまり助けになっていなかった。

 娘の喪失から菊池信弘は事件を起こしたグループを恨み、彼らに関する報道を追い続けた。しかし、彼らの報道は年々減少し、世間から忘れられようとしていた。

 前代未聞の化学兵器によるテロ攻撃を受けて小田完治が対テロ機関の草案を作っていた頃、菊池信弘の怒りは政府へと向けられた。

 “娘を死に追いやった奴らはまだ生きてる…なのに、何で政府は何もしない!!”

 信弘は娘の死を無駄にしたくなかった。彼は政府と警察に『正義の執行』を求めた。しかし、当時の議会は「もう二度と同じことは起らない」と高を括って、今までと変わらない日常に戻ろうとしていた。

 “もっと大きな攻撃が起きれば、人々の目が覚めるかもしれない…そうすれば、もう二度と私たち家族と同じ悲しみ持つ人々は生まれない…”

 この危険な考えが菊池信弘の思考を支配し、結果的に彼自身がテロリストとなって国を変えようという考えに辿り着いた。そして、菊池の計画はもう準備を終えており、後は実行するだけの状態にあった。









 三浦を運ぶよう指示された2人の中に剛田がいた。守谷はこのような事態を引き起こした彼にSAT隊員を始末させる役割を与えた。

 咽び泣いている三浦の横に歩み寄ると、剛田は憎悪を抱きながら、仲間だと信じていた男の左腕を引いて起き上がらせた。恋人の死で焦燥し切っている三浦は腕を引かれても、高橋恭子の亡骸から目が離せなかった。

 「お前のせいで俺まで裏切り者扱いだ…」剛田が悪態ついた。

 しかし、三浦はまだ恋人の死体を見つめている。彼女の恐怖と激痛によって引きつる顔が痛ましくて形容し難い苦しみがSAT隊員の胸を襲った。

 「何とか言ったらどうだ?」絶望の淵にいる三浦の顔を覗きこんで剛田が言った。「って言っても、この状態じゃ無理か…」

 「おい!早くしろよ。」ドアの付近で待機していたもう一人の男が急かした。

 「ちょっと待てくれよ。」そう言うと、剛田はSAT隊員の口を塞いでいた縄とタオルを取った。「少しだけ話させてくれ。」

 「早くしろよ…」仲間のわがままに呆れながら男は言った。

 剛田が再び三浦の顔を覗き込む。「お前のせいだ。お前のせいで―」

 いくら目の前で喋られても、その言葉は三浦の耳には届いていなかった。しかし、自分の視界に入って来た男の顔は認識できていた。そして、その顔を見続けていると、恋人を失った悲しみが守谷たちに対する憎悪へ変化した。

 「あのクソ女がそんなに大事だったのか?どうせだったら、あの女を犯せばよか―」

 挑発の言葉を言い終える直前に三浦は剛田の喉にかぶりつき、大きく頭を振って相手の喉から顔を離した。突然のことに剛田は固まり、そして、喉の辺りから痛みが広まり、混乱して喉を両手で抑える。

 間を置かずに三浦はかじり取った肉片をパニックに陥っている剛田の顔面に吹きかけ、畳みかけるように剛田の鼻に頭突きを喰らわせた。喉から飛び出る血とそれが引き起こす呼吸困難、そして、想像を絶する激痛で剛田の意識は朦朧し、両手を喉で抑えながら地面に崩れ落ち、絶命した。

 剛田が死ぬ30秒前、ドア付近で待機していた仲間の一人が三浦に蹴りかかった。彼は剛田が噛みつかれるところを目撃して急いで駆け寄ったが、SAT隊員との距離を詰める間に彼の仲間は肉片を顔面に吹きかけられて頭突きを受けていた。

 「この野郎ッ!」男が立ちあがろうとしていた三浦の右横腹にローキックを入れた。

 口元が血で真っ赤に染まっていたSAT隊員は左肩から床に転び、その直後に背中を蹴られた。しかし、彼は痛みを感じていなかった。大量のアドレナリンによって感覚が鈍っているのだ。

 男が再び蹴りを入れようとした時、三浦が左肩を軸に左右の足で床を交互に蹴り飛ばして後方へ回転した。そして、その弾みを利用してSAT隊員は踵落としをするために右足を上げていた敵の左脚を蹴り飛ばして転ばせた。

 突然のことに受け身が取れず、男は後方に転んで後頭部を強打した。男が激痛に呻く。

 相手の隙を見逃すほど三浦は甘くなかった。彼は慎重に立ち上がると、後頭部の痛みに苦しんでいる男の股間に右踵を落した。そして、男が悲鳴を上げようとした時、SAT隊員は死ぬまで男の顔面を右踵で何度も踏みつけた。

 男の死を確認すると三浦は再び血の海に横たわる高橋恭子を見た。彼の目から再び涙が溢れ出し、呼吸が乱れ始めた。SAT隊員は彼女の亡骸の近くにあったナイフを手探りで取り上げると、両手の自由を奪っていた縄を切った。苦悶の表情を浮かべる恋人の死体を抱きしめて三浦は咽び泣いた。

 「剛田、倉田!早く手伝えよ!!」

 ドアの向こう側から声が聞こえてきた。声は上から来ているように思え、三浦は自分が地下室にいると推測した。

 「ちょっと行ってくる…」そう言うと、三浦は高橋の瞼を閉じさせ、血の海から別の場所に彼女の死体を移動させた。

 SAT隊員は床に転がっていた工具から金槌を拾い上げると、それをベルトバックルの辺りに斜めにして差し込んだ。そして、次にマイナスドライバーを手に取った。ドアの前まで移動すると三浦は再び高橋恭子の亡骸を見た。

 「すぐ戻るよ…」












 「久しぶりだな。」そう言いながら小田完治が椅子に腰かけた。

 「3年振りくらいかな?」丸縁眼鏡をかけた菊池信弘が応えた。「それより少し痩せたんじゃないか?」

 「これでも6キロは太ったんだぞ。それよりお前から連絡してくるなんて珍しいな。」小田がウェイトレスからメニューを受け取る。

 「忙しいところ申し訳ないね。」

 「忙しいのはお互い様だろう。それで、何があったんだ?」現職議員はメニューに書かれていたウィスキーをウェイトレスに見えるよう指差し、ウェイトレスはメモを取ると静かに立ち去った。

 「まぁ、ちょっとな…」菊池が言葉を濁した。

 すると、小田は思い出したように目を見開いて笑い出した。これには菊地も驚いた。

 「お前もあの法案に反対なのか?」

 「あの法案?」

 「メディアの言う共謀罪さ。」

 大学教授はその法案についてある程度の知識は持っていた。もし、この法案が正式なものとなれば、菊池たちは処罰の対象になる。

 「実際はどうなんだ?危険なのか?」と菊地。

 「あれは形式的なものだ。破防法でもやる気になれば、テロリスト予備軍を捕まえることはできる。それに別件逮捕で芋づる式に組織犯罪を取り締まることだってできるんだ。やる気になれば、政府はなんでもできる。ただ、やらないだけさ。今のところ、何の利益にもならないからな…」

 ウェイトレスが小田のウィスキーを持ってきた。一礼をしてウェイトレスが去ると菊地が表情を強張らせた。小田は友人が何か深刻なことを話す気だと思い、テーブルに両肘をついて男の話しを聞く体勢に入った。

 「相談があるんだ。」菊地が声のトーンを落とす。「この国を変えようと思う…」

 小田は友人が冗談を言ったと思って笑い出した。「学生の頃から何にも変わってないな!」

 大学教授は表情を変えずに小田の顔を見つめ続けた。

 「お、おい。本気なのか?」

 「冗談だと思うか?この国は腐敗している。助けを求める人を助けず、私腹を肥やす人間ばかりだ。」

 「中には良い人もいるぞ。」小田が付け足した。

 「しかし、下衆が目立つ。人々は目覚めなければならない。未来のために…」

 「しかしだな…そんなことを言っても…」

 「だが、私にそんな力はない。だからお前の力を貸して欲しいんだ。」

 小田はウィスキーの入ったグラスを持ち上げると、無言のまま茶色い液体を見つめた。

 “娘を失ってから狂ったと聞いていたが…本当だったのか…”

 「どうなんだ?協力してくれるのか?」菊池信弘が小田から返事を引き出そうと尋ねた。

 「どのように協力すればいいんだ?」小田が一気にウィスキーを飲み干した。

 「ありがとう。頼れるのはお前だけなんだ…計画はもうできている。まずは―」

 小田は友人の話しに耳を傾けながら、これから自分がすべきことを考えていた。そして、大学教授が喋り終えた頃、小田完治も自分の考えをまとめた。











 携帯電話の着信音で西野は目を覚ました。彼は菊池信弘の著書『岐路に立つ』を読んでいる最中に眠りに落ちてしまったのだ。

 潜入捜査官はゆっくりと起き上がって、テーブル上で振動しながら機械音を鳴り響かせる携帯電話を取った。電話は西野の連絡係からだった。

 「どうしましたか?」欠伸を堪えながら西野が言う。

 「もう一人の潜入捜査官に会ったよな?」連絡係である『大原』の声には鬼気迫るものがあった。「あの後にもう一度会ったか?」

 「い、いいえ…」電話越しに感じる大原の迫力に西野は押されていた。

 「アイツから何か聞いてないか?何でもいいんだ。どんな些細な事でも構わない。」

 「と言っても、あれ以降、彼とは会ってませんし…その時も特に変な様子はなかったです。」三浦との会話を思い返しながら潜入捜査官が答えた。

 「本当か!?」


 「は、はい…」

 「そうか…」大原の声には落胆の響きが含まれていた。
 
 「何かあったんですか?」西野は三浦に何かが起きたと思い、気になって尋ねた。

 「連絡が取れなくなった。もしかすると、捕まったかもしれない…」

 これを聞いて西野は眼球を押し潰されたパオロのことを思い出した。

 “彼もあの外人みたいに…”










 ドアを開けると三浦は階段を2段飛ばしで駆け上がった。

 あと2歩で階段を上がり切ろうとした時、踊り場のドアが開いて顎髭を生やした男が現れた。男はマイナスドライバーを片手に持つ血だらけの三浦を見ると、危機感を抱いて咄嗟に右押し蹴りを放った。

 三浦は首を左に傾けて蹴りを回避すると、前進しながら男の右脚の下を潜り抜けるようにしてマイナスドライバーを持った右手を突き出した。工具の先端が男の股間に突き刺さり、男が悲鳴を上げる。構わずにSAT隊員は右肩で男の脚を押し上げながら前進し、顎髭男をドアに叩きつけ、間髪入れずに左肘を相手の右側頭部に入れ、そして、マイナスドライバーで男の喉を突いた。遅い仲間の様子を見に来ただけの男は床に滑り落ち、悶え苦しんだ末に息絶えた。

 SAT隊員がドア枠を通り抜けると、仲間の死を目撃して唖然とする童顔の男が見えた。この男に戦う意思はなかったが、三浦にとって相手の気持ちはどうでも良かった。

 恐怖に震える童顔の男が助けを呼ぼうと口を開くと、その口を塞ぐように三浦は男の口に向けてドライバーを突き出した。口蓋垂(注:のどちんこ)にマイナスドライバーが刺さり、童顔の男は思うように声を上げることができなかった。

 素早く三浦はドライバーを抜き取り、左手を相手の右側頭部に添えて壁に叩きつける。それは一度では終わらず、男が床に崩れ落ちようとしているにも関わらず三浦はそれを追うように相手の頭を壁に勢い良く叩きつけた。

 2人目の相手を無力化の完了後、左側にあったからドアから男が飛び出してきてSAT隊員にタックルした。タックルの後に男はドライバーを持つ三浦の右腕を掴んで壁に押し付ける。彼はマイナスドライバーが一番の脅威だと認識し、それを抑えるのが最優先だと判断した。

 しかし、三浦は道具にばかり頼るような人間ではなかった。彼はタックルしてきた男の股間を左膝で蹴り上げ、相手が怯むと前進しながら左拳を男の顔面に三度叩き込み、ドライバーを相手の右胸に刺した。刺された男は呻き、SAT隊員から離れようと三浦を両手で突き飛ばす。

 後ろに押された三浦はその弾みでドライバーから手を離してしまった。3人も連続で刺し続け、その時に付着した血で手が滑ったのだ。再び距離を詰めようと彼が動くと、右側から別の男が現れて三浦を左へ突き飛ばした。虚を突かれたSAT隊員は転び、急いで体勢を立て直そうと動く。

 彼を突き飛ばした赤縁眼鏡が特徴的な男は、これを好機と見てマウントポジションを取ろうと倒れた三浦に飛び掛かった。

 しかし、その時にはもう三浦の体勢は整っていた。SAT隊員は飛び掛かってくる男の股間に右足を叩き込み、男は激痛に顔を歪めながら三浦の上に落ちてきた。両手で突き飛ばすように三浦は男を左側へ押し退けると、ダウンした状態で相手を追うように両脚を左側へ回し、赤縁メガネをかけた男の顔面を2度踏みつけた。

 一度の蹴りによってプラスチック製のレンズ割れて男の目に刺さり、二度目の蹴りで鼻の骨が折れると同時に後頭部を背後にあった壁に強打した。断続的に訪れる激痛に男は悲鳴を上げた。 

 三浦は相手の息の根を止めようと再び蹴りを入れようと脚を持ち上げる。すると、SAT隊員の右横腹に衝撃が訪れた。彼にドライバーで胸を刺された男が仲間を助けるために三浦に蹴りを入れたのだ。再び男が蹴りを入れようとした時、急いで三浦は倒れた状態で左へ回転して立ち上がろうとする。

 マイナスドライバーがまだ胸に刺さっている男は逃げたSAT隊員を追いかけ、四つん這いになって立ち上がろうとする彼の腹部を蹴り上げた。

 「死ね!死ね!」三浦の腹部を蹴り上げながら男が叫んだ。

 疲労のため、三浦は三度も蹴りを受けていた。しかし、彼はすぐに呼吸を整えて4度目の蹴りが腹部を襲う直前にそれを左腕で防いで押し返した。防御を終えると、SAT隊員は素早く片膝をついて上体を起こしながらベルトに挟めていた金槌を右手で取った。

 男が再び右蹴りを放とうとした時、三浦は相手の左足首を金槌で殴り、殴られた男は激痛に悲鳴を上げて足首を庇おうと身を屈めた。そして、その瞬間に三浦は先ほど放った一振りの勢いを利用して金槌を左から右へ水平に振った。意図した訳ではなかったが、男は金槌の釘抜き部分で側頭部を殴られ、先端が深く頭に突き刺さった。

 耳朶を震わせる男の悲鳴が廊下に響いたが、三浦は表情一つ変えずに男と一緒に金槌を手前に引き寄せ、相手の首筋へ拳を振り落した。衝撃の強さで金槌が男の頭から離れ、肉の塊となった男の体は静かに床へ落ちて行った。

 三浦が視線を上げて次の獲物を探した。廊下の先には鉄パイプや金属バットを持った男5人が震えながら血だらけのSAT隊員を見つめている。

 「お前らは下がってろ。」男たちを掻き分けて武田衛が前に出てきた。「誰も手を出すなよ…」

 そう言うと、武田が金槌を持つ三浦の動きに警戒しながら前進し、それに応じるようにSAT隊員も歩き出した。

 距離を詰めながら武田は上着の下に隠していた特殊警棒を取り出し、振り下ろして展開させた。











 震えるほどの怒りを堪えながら、三須は守谷からの報告に耳を傾けていた。

 「警察は俺たちのことを調べていたのか?」冷静な声を装って三須が問い掛けた。

 「高橋って野郎はそう言ってた。」守谷は敢えて三浦が暴れ回っていることを仲間に伝えなかった。「どうする?」

 「計画を早める。」

 意外な返答に守谷は驚いた。

 「先生と話したのか?」

 「これから話す。先生は例の議員とお話し中だ…」今後のことを考えながら三須が言った。「ソイツを…高橋という男を“屠殺場”に連れて来い。」

 「分かった。」

 「それと…小林も“屠殺場”に呼んでくれ。」

 「アイツも消すのか?」

 「いや、彼には試験を受けてもらう。」











 三浦が先に動いた。彼は素早く金槌を振り上げ、武田の頭に向けて振り下ろす。

 素早く武田は特殊警棒で三浦の攻撃を弾き、カンッと金属同士が激しく接触する音が廊下に響く。金槌を防ぐなり武田衛は警棒を左から右へ水平に振ったが、それは空を切っただけであった。

 相手の動きからSAT隊員は身を屈めて武田の一振りを回避し、警棒が頭上を通り過ぎると金槌で武田の左横腹を殴った。そして、彼は素早く立ち上がりながら、左アッパーを相手の顎に叩き込んだ。

 攻撃の速さと激しさに武田衛は圧倒され、バツ印を描くように特殊警棒を振り回しながら後退する。最初の振りは三浦の左腕を捕えたが、最後の一振りは距離が開いたために空を切るだけで終わった。後退したまでは良かったが、右足で三浦が倒した男の一人を踏んで武田はバランスを崩しそうになった。

 目の前にいる敵が隙を見せると三浦は眼光を鋭くさせて武田に接近した。右手の中で金槌の柄を回して釘抜き部分を下へ向け、SAT隊員はバランスを崩そうになっている武田の左肩へ金槌の釘抜き部を振り下ろした。

 鋭く尖った金属部分が武田衛の肩に深く突き刺さり、武田が激痛に歯を食いしばる。彼は素早く警棒を振り上げて三浦の頭に向けて振り下ろす。しかし、それは簡単に塞がれた。

 SAT隊員は右手を手前に引いて金槌と一緒に武田を引き寄せながら、敵が振り下ろしてきた特殊警棒を持つ右腕を左腕でブロックして三浦は相手の鼻頭に頭突きを喰らわせた。その際に金槌が武田の肩から離れて血飛沫が飛んだ。

 鼻を潰されて武田は意識が遠退きそうになったが、どうにか踏みとどまり、塞がれていた右腕を手前に引いて三浦の左太腿を特殊警棒で殴った。

 左脚に走った激痛でSAT隊員の体が左に少し傾いた。彼は警棒による追撃を恐れ、金槌で攻撃を仕掛ける。しかし、この攻撃が放たれる前に武田が三浦の上着を掴んで手前に引き、彼は素早く相手の首筋に左手をかけた。SAT隊員を抱きかかえるような姿勢を取ると、武田は特殊警棒の底部で相手の後頭部に殴りかかる。

 警棒が三浦に接触する寸前、SAT隊員は武田衛に掴まれた状態で右腕を振って金槌で敵の後頭部を殴り、左手で相手を突き飛ばす。悶絶する武田を見るなり、三浦はすかさず金槌を振り上げて襲い掛かった。

 武田は金槌が自分の頭を襲うのを防ぐために左手で三浦の右手首を捕え、それと同時に特殊警棒の柄でSAT隊員の額を打つ。そして、一番の脅威を排除するため、武田衛は警棒で相手の右腕を殴った。

 額と右腕に強烈な痛みが走り、三浦の右手から金槌が離れて床に大きな音を立てて落ちた。激痛に目を細めてしまったが、彼は武田が警棒を振り上げるのを確認することができた。

 “終わりだッ!”

 武田衛が止めを刺そうとした時、SAT隊員が相手の頭と右腕の間へ左腕を伸ばし、それが振り下ろされた警棒の軌道を外側へ逸らした。そして、彼は武田の右腕を左脇で挟み、左手で相手の二の腕を掴んでしっかりと固定する。目の前にいる敵が反撃に出る前にSAT隊員は捕らえた腕を引いて距離を縮め、頭突きを喰らわれた。

 二度の鼻に対する攻撃で武田は流石に崩れ落ちそうになり、掴んでいた三浦の右手首から手を離して後退する。しかし、まだ右腕を固定されているので逃げられない。

 十分攻撃したと思った三浦は特殊警棒を奪おうと、二の腕を掴んでいた左手を手首へ移動させて固定し、右手で相手の武器を奪おうとした。

 「うらぁ!」戦意を取り戻した武田が左押し蹴りを放った。

 三浦は攻撃を警戒して後退し、その際に左腕で武田が持っていた特殊警棒を弾いて床に落とした。彼は落ちた武器へ手を伸ばそうとしたが、再び武田の蹴りが飛んできたので諦めた。

 二度目の右押し蹴りが来ると三浦は左へ動いて回避し、そのまま素早く前進して武田の背後に回り込むと右腕を相手の首に巻き付けた。体力の限界に差し掛かっていたSAT隊員は、これで戦いを終わらせようと思っていた。

 首を圧迫されて呼吸が苦しくなり、武田の顔が次第に赤くなった。彼はこの状況から逃げ出すために右手で圧迫している三浦の腕を抑え、そして、左肘を後ろにいる相手に向けて何度も放った。その内の3打がSAT隊員の左脇腹に命中し、彼の右腕から少し力が抜ける。

 “今だッ!”

 武田は自分を苦しめていた相手の右腕を首から引き剥がし、一歩前出ると素早く振り向きながら右拳を水平に振って三浦に殴り掛かった。

 だが、痛みに耐えながらSAT隊員はすかさず対応に出た。両腕で武田の右腕を抑え、右手で相手の手首を掴み、左掌底を武田の肘に叩き込んだ。鈍い音と同時に武田衛の腕が外側へ曲がり、彼の悲鳴が廊下に響いた。三浦は間を置かずに相手の後頭部に左手を添え、勢い良く壁に叩きつけた。武田衛は壁に長い血の線を描きながら床に崩れ落ちる。

 蓄積されていた疲労がどっと押し寄せ、三浦はその場で膝をついた。

 「随分、暴れたなぁ~」

 SAT隊員の背後から声が聞こえてきた。彼が振り向くと、そこには恋人の命を奪った男がいた。

 雄叫びを上げながら三浦が守谷に向かった。守谷は左足を突き出して立ち上がろうとしていた三浦の胸を蹴り飛ばして転ばし、相手が起き上がる前に彼はSAT隊員の顔を蹴り飛ばした。

 「武田を病院に連れ行け。残りはコイツを“屠殺場”に運べ。」

 そう言い残して守谷がその場を立ち去ると、彼の仲間たちが三浦を袋叩きにした。










 レストランで友人の話しに耳を傾けていた時、小田完治はできるだけ早く公安警察に菊地信弘が計画していることを話そうと考えていた。しかし、レストランを後にした今、彼は新たな選択肢を見出した。

 “アイツの言い分にも一理ある。”

 読書灯の明かりしかない部屋で小田はアームチェアに腰掛けている。

 “しかし、通報すべき事案だ。だが、アイツの計画が成功すれば、私の提案している対テロ機関が実現するかもしれない…”

 小田完治は自身の考えが許されるものではないと思っているが、それでも彼はこれを好機と捉えていた。

 “敢えて見逃すべきか…いや、もし、既に公安が奴の動きを追っていたら?”

 現職議員の額に大粒の汗が浮かび上がってきた。

 “となると、今日のことも見られていた?通報しなければ怪しまれるな…”

 胸に引っ掛かるものを感じながら、小田は固定電話の受話器を持ち上げた。

 “待てよ…”小田が受話器を戻した。“計画はまだ先のことだ。それに友人の冗談だと言えば済むかもしれない。いずれにせよ、明日にしよう。”

 小田は読書灯の明かりを消して書斎を後にすると寝室に向かった。










 「こっちだ。皆がお前を待っている。」建物に入るなり、守谷が西野を呼んだ。

 突然の予期せぬ相手からの連絡に西野は怯えていたが、黙って男の後を追って廊下を歩き出した。三浦の失踪を聞いていたので潜入捜査官は、この呼び出しが少なくとも三浦関連だと思っている。そして、自分の正体も知られたかもしれないと恐怖した。

 「何があったんだ?」男の横に並んで西野が尋ねた。

 「ちょっと問題が起きただけだ。」

 “やっぱり、例の捜査官か…”

 「大丈夫。すぐ終わるさ…」

 額に小さな切り傷を持つ守谷は廊下の突き当りにあるドアを開けて西野に入るように促した。部屋の中には男たちが輪を描くように並んでおり、ドアが開くと数人が西野たちを見た。

 「どうした?」ドアを開けて待っている守谷が心配そうに問いかけた。

 「何でもない。」そう言って西野は部屋の中に足を踏み入れた。

 部屋は狭い上に薄暗く、肌寒い場所であった。倉庫だろうと西野は思った。とても人が集まる場所ではない。

 「こっちだ。」輪を描いて並んでいる男の一人が西野に向かって言った。

 華奢な体型の西野は輪を描いている男たちを脇に寄せて輪の中に進む。恐怖が全身に走り、西野は体が震えていることに気付いた。輪の中心へ辿り着いた時、西野の中で広がっていた恐怖が消え始めた。彼の目の前には布袋を頭から被せられ、両手足を縛られて跪いている男がいる。

 「コイツは誰だ?」西野は誰ともなしに尋ねた。

 「ネズミだよ。」背後から声が聞こえてきた。西野が振り返ると守谷がいる。

 「ネズミ?」

 「そう。つい数時間前だよ。コイツの野郎…」守谷が跪いている男を指差す。「警察に俺たちの情報を流していやがった!!」

 これを聞いた西野は心臓が縮まるような感覚を得た。その後、彼の心臓は緊張によって激しく動き始めた。

 「お前も知っているはずだ…」額に小さな傷を持つ男が跪いている男の布袋を剥ぎ取った。彼は三浦の一件から西野にも疑いの目を向けていたので、敢えて鎌をかけてみたのだ。

 守谷のいう通り西野はその男を知っていた。顔中血だらけになってもいても、殴られて顔中が腫れ上がっていても潜入捜査官はその男が誰かすぐに分かった。今、この部屋にいる誰もよりも彼はその男のことを知っている。しかし、西野は一言も発しなかった。

 “あれほど電話を使うなと言っただろうが!!”変わり果てた男の姿を見た西野は苛立ちを覚えた。彼は携帯電話が原因で三浦の正体が暴かれたと思った。

 「皆で考えたんだ…ここはお前がやるべきだと…」西野の前に鉄パイプが差し出され、彼は目の前で跪いている同じ潜入捜査官を見ながらそれを手に取った。

 「助けて…」輪の中央で跪いているSAT隊員がか細い声で言う。

 「裏切りに者のくせに命乞いをするのか?」西野を部屋まで案内した守谷が鼻で笑った。「小林…できるだけ早く頼むよ。」男は西野の肩を軽く叩くと一歩下がった。

 しかし、西野にはできなかった。

 「小林…お前、この裏切り者に同情しているのか?コイツはクズだ!コイツは俺たちの変革の邪魔をしようとしたんだぞ!」額に傷を持つ男が西野の背中に向かって叫んだ。「やるんだ!これはこの国のためだ!やらなきゃ、俺たちがやられるんだ!」

 三人を囲むように並んでいる男たちが「殺せ」と叫び始める。

 “許してくれ!”

 西野は歯を食いしばると、鉄パイプを振り上げてそれを跪いている男に向けて振り下ろした。衝撃の強さに殴られた三浦は頭から床に落ち、西野は苦痛に呻く仲間を見ることしかできない。

 「まだ生きてるぞ…」守谷が西野に向けて言う。「死ぬまでやれよ。」

 恐怖に震える西野は横目で守谷を見た。右手に持つ鉄パイプが重く感じられた。

 “コイツを殺せば…”

 「どうした?ここを、もう一回だ…」守谷が倒れている三浦の後頭部を指差す。

 「俺には…できな―」

 西野が口を開くと三浦の体がビクンと動いて顔を西野に向けた。

 「や…やれよ…」SAT隊員が消え入りそうな声で言った。

 “何を…何をバカなことを…”と西野は思った。

 「ってことだ。小林、早くやれ!」痺れを切らした守谷が怒鳴る。

 この時、吐き気が込み上げて潜入捜査官が咳き込み、鉄パイプを床に落とした。喉まで出かかっている異物に我慢できず、西野は急いでその場を後にしてトイレへ走った。

 「情けない。まぁ、殴ったってことは…『白』かもな…」

 そう呟きながら守谷は、ジーンズの後ろポケットに突っ込んでいた小さく畳んでいた黒いパラシュート・コードを取り出した。長さは1メートル30センチ程だった。

 額に切り傷を持つ守谷が三浦の髪を掴んで引き起こし、SAT隊員の顔を覗き込んだ。

 「どうなってる?」三須が守谷の横に並んだ。

 「コイツはかなり頑固だ。でも、俺たちの居場所を掴んでるっていうのは嘘だな。」

 「それで小林は?」

 「この野郎を殴ったら、気持ち悪くなってトイレに走ってたぜ。」

 三須は薄ら笑いを浮かべている守谷から視線を倒れている三浦に移す。

 「小林の様子を見に行く。お前はコイツを始末しろ。」

 「あいよ。」守谷がパラシュート・コードを伸ばし、それを三浦の首に巻き付ける。

 「それから…」部屋を出ようとしていた三須が振り返った。「決行日が変更になった。」

 「いつだ?」

 「明日の夜だ。」

 「わかった…」

 三須が去るのを見ると、守谷は三浦に笑みを向けた。「何か言い残すことは?」

 「必ず…必ず…お前たちをぶっ殺してやるッ!」血の混ざった唾を吐きながらSAT隊員が憎悪をこめて言った。

 「それは残念だ…」

 守谷は三浦の背中を右足で押しながら、SAT隊員の首に巻き付けられた縄を強く後ろへ引いた。頸部が圧迫されて呼吸ができなくなった三浦はもがいた。

 しかし、両手足を縛れているため、全く抵抗になっていなかった。次第に彼の体から力が抜け、視界に靄がかかってきた。三浦は自分の無力さに苛立ちを覚えた。無力であったから、恋人も失い、テロ攻撃も防げないと思っている。

 その時、彼の前に高橋恭子が現れた。彼女は何も言わずに優しく微笑んでいる。突然の幻にも三浦は驚かなかった。意識が薄れつつあったので、彼女の姿を見ると何故か三浦は穏やかな気持ちになれた。

 “恭子…”

 そして、完全な闇が訪れ、三浦大樹は息絶えた。















 <ご愛読ありがとうございました。ハヤオ・エンデバーの新作にご期待ください!>

返報 13-4 [返報]

13-4



 ボート置き場に男の悲鳴が響き渡った。

 パオロは想像を絶する激痛に悲鳴を上げ、眼球を潰した男の手首を掴んで抵抗を試みた。しかし、三須は親指を奥深くパオロの眼窩に突っ込み、途中で悲鳴を煩わしく思ったのか、右拳をフィリピン人の喉に叩き込んで喉仏を潰した。喉を潰されたパオロはパンクしたタイヤのように空気の漏れ出る音しか出せなくなった。

 一方、目の前で2つの残虐行為を目撃したフィリピン人は顔を引きつらせ、自分も同じ目に遭うと思った彼は意識が遠退くのを感じた。守谷も武田も三須の行動には驚き、多少は動揺してしまった。
 
 「こんなもんか…」そう言うと、三須は血で汚れた手を瀕死に陥っているパオロの服で拭う。「あとは…」まだ手に付着する血に不快感を持つ三須が残りのフィリピン人を見た。

 外国人は体をビクンと動かして驚き、首を何度も横に振った。助けを求めたのだ。その時、彼の頭に強い衝撃が訪れた。背後にいた守谷が助けを求めたフィリピン人を殴り、殴られた外国人は地面に崩れ落ちた。

 「あとは頼むよ。終電に乗り遅れる…」そう言い残して三須はボート置き場から出て行く。

 「りょーかい!」仲間の方を見ずに守谷が先ほど殴りつけたフィリピン人の後頭部を再び強く殴って返事した。








 最初はゆっくりと静かに移動し、ある程度まで距離が開くと西野と三浦は全速力でボート置き場から離れた。

 単眼鏡越しに見た残虐行為に二人の潜入捜査官は恐怖で震え上がっていた。簡単な潜入捜査だと思っていた分、三須たちが見せた残忍さは想像を絶するものであった。

 “捕まれば殺される…”

 この考えが二人の思考を支配し、尾行の有無も確認せずに駅の手前まで走って移動してしまった。慌てて西野と三浦は周囲に目を配り、安全を確認すると安堵してその場にしゃがみ込んだ。

 “情けねぇ…”そう西野は思った。彼は捕まえるべきテロリストの残虐行為を目にして恐怖し、最後まで監視せずに逃げ出してしまった自分に嫌悪感を憶えた。“このままじゃ、奴らを止められない…”

 「ちょっと…」三浦が素早く立ち上がって西野の肩を引いた。

 何事かと西野が三浦の顔を見上げる。潜入中のSAT隊員は駅の方に顔を向けており、西野も同じ方向を見るとそこには駅に近づく三須の姿があった。西野は急いで立ち上がって三浦と同じように壁の窪みに身を寄せた。

 「見られたか?」西野が尋ねる。

 「いや、気付いた様子はなかったですよ…」

 距離はあったが、三浦は携帯電話を取り出して三須の姿をカメラに収めた。

 「ちょっといいか?」と西野。

 「はい?」

 「アンタが例の潜入捜査官なんだろ?」自分同様、顔に恐怖を浮かべる三浦を見て西野は思い切って尋ねた。

 三浦は少し考えた。“この人がおそらく『例の捜査官』だと思う。けど、身元を明かすべきか?”

 「もし、そうならどうします?」

 「協力を求める。」西野は三浦の双眸を見つめ、相手の真意を探ろうした。

 「違えば、逮捕ですか?」

 尋ねられた西野は頭を小さく縦に振った。

 “もし、本物の潜入捜査官なら、この人は真面目すぎる…”SAT隊員は答えに困って視線を再び駅へ向ける。

 「そうですよ…あなたと同じ潜入捜査官です。」

 三浦は正直に答えたが、これが正しいのかどうか分からなかった。

 「そうか…」西野の口角が少し上がった。

 “やっと仲間に会えた…”元制服警官はそう思っていた。

 「どうです?連絡先でも交換しませんか?」三浦は念のために西野の連絡先を交換し、本物の潜入捜査官であるか確認したかった。

 「いや、それはやめておこう。俺と君のためにも…俺たちの繋がりが見つかれば後々厄介だ。電話を使うのは命取りになるかもしれないだろ?」

 「そうですね…」潜入中のSAT隊員は心の中で西野の用心深さに感心すると同時に先手を打たれた様な不快感を抱いた。

 “この人が『潜入捜査官を演じているテロリスト』だったら、俺は終わりだ…”

 「じゃ、せめてお名前だけでも教えてもらえませんか?」

 「俺は西野―いや、小林健だ。」

 気を許したせいで西野は思わず本名を口にしてしまった。これは三浦にとって思わぬ収穫であり、すぐにでも連絡役の山中に確認しようと思った。

 「僕は高橋直人です。帰りは電車ですか?」

 「そ、そうだ。」本名を口にしたことを今になって西野は後悔していた。

 「じゃ、それぞれ少し時間を置いてから駅に行きますか…『小林さん』は三須って人に顔が知られてるから、僕から先に駅へ向かいます。それでは…」

 そう言って、三浦は西野の前から歩き去った。彼は小林と名乗った潜入捜査官の視界から外れると同時に携帯電話を取り出して連絡役に電話した。もし、西野がテロリストならこの場で捕まえようと思った。もっともな理由を付けて先に駅へ向かったのは、西野を待ち伏せして仕留めるためであり、彼を気遣った訳ではなかった。

 「どうした?」山中が電話に出た。

 「『例の潜入捜査官』らしき人物と遭遇しました。その人物の名前を教えてもらえませんか?」三浦は焦っていたので早口で言った。

 「会ったのか?アイツに?」明らかに連絡役は驚いていた。

 「そうです。その人の偽名は小林健ですか?」

 しばらく沈黙が続き、ようやく「そうだ」と山中が答えた。

 「その人は眼鏡をかけた華奢な体型の人ですか?」名前だけの確認で納得できなかった三浦は確証を得るために再び連絡役に尋ねた。

 「そうだ。」

 「本名は西野ですか?」

 「そこまで聞いたのか?」連絡役は驚きを隠せなかった。

 「向こうがうっかり漏らしたんです。西野という男なんですか?」

 「ったく…そうだよ。」

 これを聞いてようやく三浦は安堵した。

 「ありがとうございます。詳細は明日報告します。」

 「って、おい!」

 山中にはまだ聞きたいことがあったが、三浦は一方的に通話を終了させて電車に乗り込んだ。








 6人一部屋の病室に簡易酸素マスクを付けてベッドに横たわる菊地家の娘がいた。

 彼女は事件発生時、化学物質が散布された車両から4つ離れた車両内におり、誰かが「毒ガスだぁー!!」と叫ぶのを聞いて周りの人々に押されるようにして停車駅で降りた。出口に向かう際に菊池詩織は倒れて嘔吐する人や呼吸困難に陥って四つん這いになる人、全身を痙攣させて苦しむ人を目撃した。あまりの恐怖に彼女は逃げる人々の背中を必死に追った。

 外に出るとタクシーを拾って、通っている短期大学へ急いだ。駅からほんの数分先にある学校だったが、胸が苦しかったので彼女はタクシーを使う事にした。目的地に着くと、菊池詩織は精算を済ませてタクシーを降りた。その時、ちょうど自転車で登校してきた友人の山沢典子に出会って一緒に校舎へ入ろうすると、詩織は意識を失って崩れ落ちた。

 「詩織…」母の清子が意識不明の娘の手を取って呼びかける。「どうして、こんなことに…」
 
 娘の姿を見て菊池信弘は胸が苦しくなった。それは息子の優介も同じであった。

 ふと優介の視界に若い女性看護師の姿が入り、彼は小走りでその看護師に近づく。

 「すみません。担当の先生とお話しがしたいんですが…」

 すると、看護師は困った顔を浮かべた。「すみませんが、今は無理です。後ほど、状況が落ち着いたら先生に聞いてみます。」

 「わ、わかりました…」

 菊地一家は娘の状態がよく分からなかった。娘の友人も詳しくは知らず、途中でアルバイトがあると言って帰って行った。彼らにできることはただ待つことであった。

 テーブルに乗せていた携帯電話が震えた。妻とテレビを見ていた菊地はこの音で何度も思い出す『あの光景』から目覚めた。

 「もしもし?」菊池信弘が電話に応える。

 「三須です。会ってお話ししたいことがあります。都合の良い日はありますか?」

 「明後日の15時はどうだろう?」

 「分かりました。」








 西野と三浦は殺された3人のフィリピン人に関する報道を探したが、全く見つからなかった。二人の連絡役も調査を始め、現場に出向いて捜査するも証拠の発見には至らなかった。ゆえに三浦の連絡役である山中は精密な調査を行うため、公安部に補充要員と機器を要請した。

 その頃、西野は三須に呼び出された。突然のことに潜入捜査官は驚くと同時に命の危機を感じた。彼はあの夜に起こったことを今でも鮮明に憶えており、失敗すれば自分もあのように殺されるかもしれないと思っている。

 学内のカフェテリアで三須は笑みを浮かべて西野を待っていた。その笑みはボート置き場でパオロの眼球を潰す直前に見せた表情に似ており、潜入捜査官は恐怖に顔を強張らせた。

 “駅で見られてたのか?”

 西野は周囲に視線を配り、自分を監視する人物の有無を確認した。しかし、人数が多すぎて判別できない。この状況は西野にとって良いとも悪いとも言えない状況であった。

 良い点があるとすれば、三須がここで西野を襲う可能性が低いということ。もし、別の場所で西野を始末しようとすれば、移動中に反撃の機会ができる。悪い点は、この場に三須の協力者がいても、彼または彼女たちの正体が分からないこと。相手に正体が知られているのに、自分が何も知らないのは非常に不利な状況である。

 「気分が悪いのかい?」三須が強張った西野の表情を見て尋ねた。

 「いや、大丈夫ですよ…」椅子に腰掛けて潜入捜査官が言う。「今日はどうしたんですか?」

 問い掛けられた三須は一度視線をテーブルに落とし、数秒間の沈黙の後に再び西野の目を見た。この沈黙は西野にとって居心地が悪く、目の前に座る男が昨夜のことを話すのではないかと思って怯えていた。

 「色々と考えたんだ…」大学院生が口を開いた。「昨日からずっとね…」

 “やるしかないか…”次第に高鳴る心臓が西野の冷静さを奪いつつあった。

 「小林くんは菊池信弘先生の講義を受けてるかい?」笑顔を浮かべたまま三須が尋ねた。

 簡単な問い掛けであったが、西野は固まってしまった。想像していた内容と異なっていたからである。

 「いえ…確か、後期の…講義だった…気がします。」あまりの緊張に言葉を詰まらせながら潜入捜査官が言った。

 「そうか…じゃ、先生の本を読んだことは?」

 西野は首を横に振って「ないです」と答えた。

 「そっか…菊池先生は『岐路に立つ』という本を最近書かれてね。その本の中で先生は日本の現状について警鐘を鳴らし、このままでは国の在り方が変わると警告してるんだ。」三須は西野の様子を見ながら話しを進めた。「実は菊池先生がある運動を起こそうとしているんだ。この国に住む全ての人々の目を覚まさせる様な大きなことを…」

 “コイツは俺を『仲間』にしようとしてる?”西野は大学院生の話しを聞きながら思った。

 「本当に大規模な物になる予定でね。できれば、君にも参加して欲しんだ。もちろん、無理強いはしないよ。」

 こう言いながらも、三須は絶対に西野が仲間になるという自信を思っていた。ゆえに彼は二人のテーブルから離れたカウンター席に守谷と小熊を置き、西野を観察させている。

 「それは…なんというか…ヤバい運動なんですか?」と西野。

 「捉え方によると思う。でも、小林くん…君にとって、これは『ヤバい運動』ではないと思うよ。他の人たちはそう思うかもしれない。しかし、歴史が証明するように、偉大な変革の始まりは常に『異常なこと』だと思われるが、後にそれが世界を大きく変えるんだ。異端と思われるのは、人々が『今の尺度』で見てるからさ。後世の世代は、僕らの運動を称賛する。絶対に…」

 「何で俺なんですか?」西野は率直に尋ねた。

 潜入しなければならないことは分かっているが、西野は三須が自分を選んだ理由を純粋に知りたかった。

 小さく左に首を傾げて三須はこう言った。「君は僕に似てるんだ…それが理由かな…」

 “似てる…?”西野は驚くと同時に恐怖した。

 「どうする?君の意思だけでも聞きたい。」

 テーブルを見つめて西野は考えた。“似てるはずがない…そんなわけないッ!!”

 「小林くん?」と三須。

 西野が視線を大学院生に戻す。

 「返事を聞かせてくれないか?」

 「参加したいです。」








 「それで?」

 西野が去った後で守谷と小熊が三須の前に腰掛けて守谷が訊いた。

 「参加すると言ってくれたよ。彼は僕たちと同じ志を持っているからね…」三須は先ほどまで浮かべていた笑みを消して言った。「君らの方はどうなんだ?」

 「私の方は2人リクルートできた。」小熊が口を開きかけていた守谷を遮って言う。彼女は長い黒髪を束ねて左肩から垂らしており、薄化粧であまり目立たないようにしている。

 「また色目を使ったのか?」話しを遮られた守谷が茶化した。彼はあまり小熊が好きではない。

 彼女は鋭い視線を隣に座る男に向け、挑発を受けた守谷が睨み返す。それを見た三須は咳払いをして注意を集めようとするも、二人は聞く耳を持っていなかった。

 “ピリピリしてるな…”

 「仲間内で争う暇はない。それ以上するなら、“屠殺場”でやってくれ…」静かに三須が睨み合う二人の仲間に言った。

 守谷が視線だけ三須に向け「“屠殺場”か…」と呟いた。

 「そこまでする気はないわ。」小熊が向かい側に座る三須の方を向く。

 「なら、もうやめるんだ。それで守谷の方はどうなんだ?」大学院生が尋ねた。

 尋ねられた男は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、何度か画面に触れるとそれをテーブルの上に置いた。三須と小熊がそれに目を向け、画面に映る男の写真を確認した。

 「彼は?」と小熊。

 「剛田が連れてきた男だ。名前は『高橋 直人』。」守谷が情報を付け足した。「見込みがあると思い、武田に尾行させてる。」

 「引き入れる予定なのか?」三須が訊いた。

 「あぁ…その予定だ。」テーブルに置いた携帯電話に守谷が手を伸ばす。「まぁ、それはコイツ次第だが…」そう言って、彼は画面に表示されていた三浦の写真を削除して胸ポケットに携帯電話を戻した。








 尾行の存在には気付いていたが、三浦はそれを振り切ろうとはしなかった。その理由は、尾行者が三須や守谷と行動を共にしている武田衛であったからである。加えて、もし武田を振り切ろうとすれば怪しまれると三浦は思った。

 “昨日の件か?それとも別件?”

 潜入中のSAT隊員が自宅アパートの敷地内に入ろうとした時、塀の内側から誰かが飛び出してきた。三浦は素早く対応しようとしたが、相手の正体を知って驚愕した。

 「だぁーいちゃん」高橋恭子が三浦に抱きついた。

 突然のことにSAT隊員は言葉を失い、これが夢であることを祈った。

 「驚いた?」恋人の顔を見上げながら高橋恭子が言う。

 「どうやって?」やっと三浦が言葉を発した。「何でここに?」

 「iCouldを使って来たの。研修先が京都なんて羨ましいなぁ~」

 “私用の携帯をアパートに置いてたから、それを追ってここに?”SAT隊員は自身の安全管理の乏しさと恋人の軽率な行動に苛立ちを覚えた。

 その時、三浦は自分を尾行していた武田の存在を思い出して周囲を見渡した。人影はない。彼は急いで交際相手を塀の内側へ連れて行き、再び周辺に武田または自分を監視する人物がいないか探した。

 「大ちゃん、どうしたの?」と高橋。

 「ホテルとか、新幹線の予約は?」

 「してないよ。大ちゃんの所に泊まる予定だったし…」

 “クソッ!クソッ!!”

 「ねぇ、大丈夫?何かあったの?」

 “大アリだ。クソッ!尾行を巻くべきだった。見られたかもしれない。いや、もしかしたら俺が家に入るのを見て帰―”

 「もしかして大ちゃん、怒ってる?勝手に来たから…」三浦の表情を見て高橋恭子は心配になってきた。

 「いや、ちょっと忙しくてね…」

 “冷静になれ…”

 「こっちに来て。」SAT隊員が交際相手の手を引いて自分の部屋へ向かう。

 部屋に入るなり、三浦は土足で家に上がって隠していた私用の携帯電話を取り出した。

 「何か変だよ、大ちゃん…」恋人の異変にたじろぎながら高橋が言う。

 “恭子だけでも逃がそう…”

 「大丈夫。大丈夫だから…」交際相手を抱き寄せて三浦がやさしく言った。「これから駅に行く。東京に帰ろう。」

 「大ちゃん、怒ってる?」三浦の両腕の中で彼女は安心感を得ていたが、心配になって尋ねた。

 「怒ってないよ。ただ、恭子のことが心配なんだ…」








 胸ポケットの携帯電話が震え、守谷が画面を確認する。三浦を尾行していた武田からメールが届いていた。メールには向かい合う三浦大樹と高橋恭子の写真が添付されており、写真の下に文章が添えられていた。

 「この女は高橋の交際相手だと思われます。しかし、女は彼を『大ちゃん』と呼んでました。女も監視しますか?

 “これは、これは…”

 守谷は思わぬ収穫に喜んだ。そして、次のように返信した。

 「その二人から目を離すな。

 「いいかな?」三須がスマートフォンに目を奪われている守谷に問い掛けた。

 「あぁ…」

 「じゃ、自己紹介を頼むよ。」三須が隣に座る西野に促した。

 潜入捜査官の前には守谷と小熊が座っている。西野が三須たちの考えている計画に参加する事を決めたので、大学院生は西野を信頼する仲間に紹介する事に決めたのだ。

 「小林健です。よろしくお願いします。」西野が一礼して言った。

 「小熊です。よろしく。」

 「守谷だ。」

 「一応…」それぞれの名前を言い終えた所で三須が話し始めた。「彼らと僕がメインで運動を指揮してる。それだけは知ってもらいたかった。」

 「それで俺は何をすれば?」

 「時が来たら教えてるさ…」と守谷。「時が来ればな…」








 深夜の菊池家で悲鳴が木霊し、老夫婦は飛び上がって娘の寝室へ急いだ。

 あの事件から2年の月日が経過した。菊池詩織は化学物質の影響をあまり受けておらず、意識を失ったのは微量の物質を吸引したことによる眩暈が原因だと診断された。病院には5ヶ月ほど入院し、その後、彼女は退院できるまでに回復した。

 しかし、後遺症はまだ残っていた。目のかすみ、体のだるさ、微熱、そして、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が見られ、菊池詩織は夜になると事件発生に見た光景を思い出してパニックに陥ることがあった。ゆえに老夫婦は娘を京都へ連れて帰り、彼女がパニックに陥って悲鳴を上げる度に菊池夫妻は娘を抱き寄せて宥めた。

 「大丈夫。大丈夫だから…」

 しかし、菊池詩織の状況は一向に回復せず、次第に菊池夫妻の精神も蝕み始めた。これに加えて菊池家の経済状況も圧迫されつつあった。事件後の補償はスズメの涙程度であり、ほとんどの医療費は自己負担だった。先の見えない状況に菊池信弘と妻の清子は精神的に参って体重を落として行き、睡眠も満足に取れていなかった。
 
 ある日、寝不足に悩まされていた清子は少し休もうとソファーで横になった。先程までパニックに陥っていた娘を寝かせたばかりだったので、彼女は疲れ切っていた。もう10分もすれば、夫の信弘が帰って来るのでそれまでの間だけでも眠ろうとしたのだ。

 「帰ったよ。」

 玄関から聞こえてきた夫の声を聞いて清子が起き上がって信弘を出迎えた。

 「お帰りなさい。」

 「詩織の様子を?」

 「さっき眠ったところよ。」

 「そうか…」信弘が清子の肩に手を乗せる。「少しは休んだかい?」

 「えぇ…」

 「晩御飯は出前にしよう。君は少し横になった方が良い。詩織に何かあれば、私がなんとかするよ。」

 「ありがと。」

 菊池信弘は娘の様子を見に2階の寝室へ向かい、妻の清子はリビングのソファーへ戻った。階段を上がり切ると、信弘は娘の寝室のドアが開いていることに気付いた。

 “変だな…”

 不思議に思いながら寝室の中を見ると、彼の心拍数が急激に上がった。部屋に愛娘がいないのだ。








 尾行を巻くために三浦は4回タクシーを乗り換えた。乗り換える前は何度も人が大勢集まる場所に入り、別の出口を使って出ると違うタクシーを拾う。これを繰り返し、怪しい人物の有無を確認した。また、移動の最中に潜入捜査中に使っていた携帯電話を歩行中の男性のポケットに滑り込ませた。電話のGPSで追われることを警戒しての事であり、時間稼ぎにはなるだろう、と三浦は思った。

 何度も背後を気にする恋人の様子を心配そうに見守る高橋恭子は何も言わずに三浦の左手を握る。質問したい事だらけであったが、彼女は敢えて口を開かなかった。

 「疲れてない?」少し歩くペースを落として三浦が高橋に尋ねる。

 「少し…」

 「もうすぐだから我慢して。」

 尾行を巻いたと確信を得た三浦は京都駅へ急ぎ、できるだけ早く恋人を安全な場所に逃がそうとした。

 “ここまで来れば、もう―”

 高橋恭子の手を引きながら駅構内に入った瞬間、三浦は周囲に目を配る剛田の姿を見つけた。

 “アイツら…”

 SAT隊員は素早く踵返して駅を後にする。

 「どうしたの?」と高橋。

 「ちょっと予定を変えよう。」

 そう言うと、三浦は私用のスマートフォンを取り出して連絡役の山中に電話した。

 「どうした?」山中はすぐ電話に出た。

 「今すぐ会えませんか?」客待ちをしていたタクシーに交際相手と共に乗り込んで三浦が言った。

 「何かあったのか?」

 「いつもの場所で会えますか?」連絡役の質問を無視して潜入中のSAT隊員が尋ねた。

 「可能だが…」

 「すぐに来てください!」

 三浦は一方的に電話を切って、タクシーの運転手に駅から少し離れたレストランへ行くように言う。

 「大ちゃん…」高橋恭子が三浦の手を握る。「ゴメンね…」

 「何で?どうしたの?」

 「私のせい?私が来たから…」

 「恭子は悪くないよ。悪いのは俺の方さ。だから、心配しないで…」三浦が恋人の手をやさしく握り返す。

 今度は3回タクシーを乗り換えて尾行の確認をし、連絡場所として使っている運送会社から40メートル離れた場所でタクシーから降りた。

 「どこに行くの?」高橋恭子が尋ねた。

 「上司の所だよ。安全に逃げるには助けが必要かもしれない…」

 「逃げる?どういうこと?」

 「後で説明するから…」

 “西野って人もいる。俺はもう降りるしかない…”

 運送会社まであと10メートルに迫り、三浦は山中が車で来ていることを祈った。そして、5メートルと迫った時、三浦は運送会社の門に立つ男の姿を見た。

 “嘘だろ…”

 門の前に立つ男は守谷であった。三浦はその場で立ち止まり、それに釣られて高橋恭子も立ち止まる。

 「走るよ…」

 そう言って、SAT隊員が来た道へ戻ろうと高橋の手を引く。そして、後ろを振り向いた時、三浦は12メートルほど離れた場所で仁王立ちして二人を待ち受ける武田衛を見つけた。

 徒ならぬ状況に高橋恭子は怯えて交際相手の左腕にしがみ付き、三浦の顔を見上げる。彼は額に大量の汗を浮かべ、歯を食いしばっていた。

 「大ちゃん…?」

 恋人からの問い掛けは三浦の耳に届いていなかった。彼はこの場から逃げ出すことしか考えていない。高鳴る鼓動を感じながら三浦は守谷と武田との距離をもう一度確認する。襲撃者たちはゆっくりと三浦たちに迫っていた。運の悪い事に彼らのいる道は一本道で両端は高い塀がある。飛び越えられないこともないが、高橋がヒール靴を履いているので素早く移動するのは難しく、着地の際に足首を捻れば捕まる可能性が高まる。

 SAT隊員は左腕にしがみ付く交際相手を見た。この時、彼女と目が合って胸が締め付けられそうになった。

 「ごめん。」三浦が言った。そして、彼は右手を彼女の頬に添えた。「恭子に会えて本当に良かった…」

 「どうしたの?」高橋自身も分からなかったが、胸が苦しくなり、涙が込み上げて来た。

 「ちゃんと声にして言ったことなかったけど…愛してるよ。」

 「今日の大ちゃん…変だよ…」

 「そうかな?でも、言いたかったんだ…」

 守谷と武田が7メートルに迫る。

 「ちょっと走るよ。走り出したら、僕から少し離れるんだ。」落ち着いた口調で三浦が恋人に言った。「もし…僕に何か起きても走り続けるんだ。いいね?」

 「どういうこと?あの人たちは誰?」

 「ちょっとした知り合いだよ。いいかい?走るよ…」

 戸惑いながらも高橋恭子が頷いた。それを見て三浦は彼女に微笑みかけ、再び襲撃者たちとの距離を確認する。残り約5メートル。

 (どんな陣形にも弱点はある。そこを見極め、全力で突け。)

 SAT隊員の頭に中島の声が甦ってきた。

 “ここで終わりみたいっす、先輩…”

 三浦は恋人の手を引いて走り出した。彼らの向かう方向には武田衛がいる。潜入中のSATは守谷よりも武田の方が弱いと見た。本能的に彼は守谷の威圧感と自信に脅威を感じ、それに劣る武田衛が『陣形の弱点』と判断したのだ。

 標的が動き出すと守谷が後を追って走り、武田は身構えて三浦を迎え撃とうとした。

 恋人の手を引いて走る三浦と武田の距離が2メートルに迫り、武田衛はSAT隊員の動きを止めようと前押し蹴りの構えを取る。それを見て三浦は瞬時に高橋から手を離し、武田が蹴りを出す直前に敵の右斜め前へ踏み出す。そして、武田の右押し蹴りが放たれると同時に三浦は右ストレートを襲撃者の右頬に叩き込み、続いて左のローキックを武田の左膝裏に入れた。

 三浦が攻撃する間、高橋恭子は走り続けた。そう恋人が言ったからだ。

 攻撃を受けてバランスを崩した武田衛は体勢を立て直そうとするも、その前に三浦に背中を押されて近づいてくる守谷と衝突しそうになった。守谷は仲間を支えようとはせず、逆に左へ退かせて逃げるSAT隊員とその交際相手の後を追う。

 逃げる二人であったが、高橋のヒール靴がその邪魔をした。長時間の徒歩も加わり、彼女は疲れていた。彼らと守谷の距離は縮まり、交差点に達する前に捕まりそうであった。

 “やっぱりダメか…”

 三浦は立ち止まって守谷に向き合った。襲撃者は走ってきた勢いを使ってSAT隊員に殴り掛かってきた。

 「大ちゃん!」それに気づいた高橋恭子が立ち止まって叫んだ。

 SAT隊員は守谷がリズミカルに繰り出してきた左右の拳を後退しながら弾き飛ばし、左拳を相手の顔面目がけて突き出した。しかし、守谷は頭を横に傾けて回避し、左フックを三浦の腹部に入れる。手応えを感じた男はSAT隊員を追い込もうと素早く次の攻撃に出た。まずは右アッパーで三浦の顎を捕えようと放つ。だが、危険を察知してSAT隊員が後退したので、軽く顎に触れるだけで済んだ。次に守谷は左ストレートを出し、すぐにでも右拳を繰り出す準備を取る。

 一方、突き飛ばされて転んだ武田衛は三浦と守谷の戦いに目を奪われた。しかし、彼は同じくその戦いを見守る高橋恭子の存在を見つけて本来の目的を思い出した。武田は素早く立ち上がると高橋の所へ走った。

 守谷の左ストレートが来ると同時に三浦は相手の左斜め横へ移動し、守谷が付き出した左腕の下を通して右掌底を敵の下顎に叩き込んだ。そして、SAT隊員は左肘を相手の側頭部へ向けて振り下ろした。この時の唯一の誤算は守谷が体の向きを変え、繰り出した左肘が相手の額をかすめたことであった。狙い通り命中していれば、逃げる時間が稼げたかもしれなかった。肘が守谷の額をかすめたことによって、彼の額に小さな切り傷ができた。これが引き金となって守谷の攻撃の勢いが増した。

 右フックが三浦の左側頭部に向かって繰り出され、彼が急いで防御するもその際に使用した左腕に強い痺れが訪れた。守谷が次の攻撃を繰り出そうとした時、武田衛が二人の横を走り抜け、三浦は恋人が上手く逃げ切れたのか気になって敵から目を逸らしてしまった。

 “バカめ…”

 守谷は絶好のチャンスを逃さず、左肘を三浦の側頭部に勢い良く叩き込んだ。この攻撃を受ける直前、SAT隊員は数メートル離れた場所で震えながらこちらを見つめる高橋恭子を見た。

 「逃げ―」

 守谷の肘が三浦の言葉を遮り、その衝撃の強さにSAT隊員は膝から地面に崩れ落ちた。急いで立ち上がろうとするも、守谷が右ローキックを三浦の顔面に叩き込む。その激痛と衝撃から三浦は背中から倒れ、この際に高橋恭子の悲鳴を聞いた。

 “きょ、恭子…”

 立ち上がれと体に命令を出すも、SAT隊員の体は思うように動かない。

 「残念でした…」そう言って、守谷は三浦の頭を蹴り飛ばした。

 意識が薄れる中、三浦は必死に霞む視界を鮮明にしようと努力した。高橋恭子が助けを求めて恋人の名を呼んでいても、視界の靄は広がり、体に力は入らない。

 “助けに…行くから…”

 しかし、三浦の努力は虚しく闇が彼の視界を包み込んだ。

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13-3





 「神原教授は道州制の採用を強く主張している。」

 教室内にいる生徒たちの顔を見回しながら、もうすぐ50歳を迎える寺島教授が授業を進める。しかし、大半の生徒たちはあまり興味が無い様子で机の上に広げた教科書を見ていた。

 「彼はかなり前から中央集権国家に批判的であり―」

 教授にとって、学生が興味津々であるかどうかは関係ない。ゆえに彼は話しを続けた。

 この講義は三年生向けに行なわれている演習(「ゼミ」または「ゼミナール」とも言う)であり、少人数で議論を行って理解を深めることを目的としている。生徒たちはこの演習を「寺島ゼミ」と呼び、地方政治に興味がある学生の間で人気が高い。

 『小林 健』として京都大学に在籍している西野はこの寺島ゼミを履修して他の生徒と同じように学び、そして、同時に学内の動きを注視していた。しかし、今のところテロ攻撃に繋がるような情報は一切得られていなかった。この状況に西野は苛立ち、もっと積極的に動くべきかどうか考えていた。

 “攻撃は明日起きるかもしれない。”

 そう考えると居ても立ってもいられなくなった。しかし、焦りは禁物である。もし、テロリストに潜入捜査が気付かれれば、時期を早める可能性もある。または警戒してテロリストが行動の秘匿性を高めるかもしれない。

 「小林くん、何か言いたそうな顔だね。」寺島教授が険しい顔をしていた西野に発言を促した。

 突然名前を呼ばれたため、西野は混乱した。

 「中央集権と地方分権のことだよ…」西野の隣にいた女子学生が小声で教えてくれた。

 「えーと…」潜入捜査官は同級生の助言に感謝し、就寝前に予習した内容を思い出しながら自分の考えを述べ始める。「個人的には地方政府にもっと権限を委譲すべきだと思います。」

 「何故?」思わぬ議論の始まりに教授は興味を示した。

 「中央政府の思考はパンク寸前で、地方に目をかける余裕はないです。いくら地方政府が中央の支援を求めても、昨今の日本は首都のことしか考えていないので援助は期待できないです。このような状態を打破するには、地方政府の裁量権を拡大し、それに加えて今より強い権限を地方に与えるべきだと思います。」

 寺島教授は腕を組んで天井を見た。「しかし、腐敗して目も当てられない地方政府もある。権限を拡大すれば、汚職の規模が拡大すると思わないかね?」

 「中央政府の無駄遣いに比べれば小さいものだと思いますが…」と西野。

 「確かにそうだが、それでも汚職を助長する危険性がある。」

 「でも、それは政治家の問題であって、統治機能の問題ではないです。それに中央政府が汚職を容認しているから、地方政府も同じく腐敗するのでは?模範となるべき人々が腐敗していたら、それを見る人々も腐敗するはずです。」

 しばらく西野の目を見つめてから、寺島がこう言った。

 「面白い。でもね、小林くん…逆もあり得るんだよ。地方の腐敗が中央に伝染するかもしれない。でも、面白い考えだよ。他に意見のある人はいるかな?」

 授業が終わって西野が教室を後にしようとした時、細身の男子学生が歩み寄ってきた。その学生に気付くと、潜入捜査官は近づいてきた男性の方を向いた。

 「さっきの話し、面白かったよ。」細身の男が話しかけてきた。

 「ありがとう。まぁ、先生には相手にされなかったけど…」そう言って西野は俯いた。

 「寺島先生はいつもあんな感じだよ。」

 「でも、俺はまだ勉強不足だし…」

 「そう思えることが大切だよ。この学校には勉強する必要性なんてないと思ってる学生もいる。」

 西野はこの男子学生の言葉に励まされ、もっと自信を持つべきだと思った。彼は教授に率直な意見を述べ、それが正しいことだと信じて疑っていない。

 「確か、小林くんだよね?」と細身の男が訊いた。

 「そうです。失礼ですが、あなたは?」

 「申し遅れたね。僕は三須。大学院の2年生で寺島先生のTA(ティーチング・アシスタントの略。教授の補助業務を行う大学院院生のこと)をやってるんだ。よろしく。」

 三須が西野に右手を差し出し、潜入捜査官はその手を握った。







 西野より先に潜入していた三浦は講義ではなく、課外活動を情報収集の拠点にしていた。学生の行動を知るには、彼らが主体となる課外活動に加わるのが早道だと三浦は連絡役に報告しているが、実際は学業に興味がなかったので、楽しそうな課外活動に目を向けたのだ。

 入学から1週間後、三浦は手始めに課外活動の説明会に足を運んでみた。この説明会は野外に長テーブルを並べて行なわれるものであり、気軽に先輩学生と触れ合うことができる。

 “何のサークルがいいかな?”

 説明会の入り口で配布されていた課外活動団体一覧に目を通しながら三浦は考えた。

 “運動系もいいけど、下手な癖が出ると面倒だし…そうなると、芸術系?”

 目星しい団体を探していると、三浦の目に見慣れた本の表紙が飛び込んできた。『壬生義士伝』。彼の好きな時代小説の一つである。その本の隣には歴史に関する本が数冊並べられており、小説は三浦が見つけた上下巻セットの壬生義士伝だけであった。

 それらの本が並べられている団体の長テーブル前面には『歴史研究会』と書かれた大きな紙が貼られていた。本に釣られて三浦が長テーブルの反対側に腰掛ける眼鏡をかけた三人組に近づく。

 「君は歴史が好きかい?」中央の席に座る色白の男が三浦を確認するなり尋ねた。男は青縁眼鏡をかけており、肌寒い日であるにも関わらず青いアロハシャツを着ていた。

 「興味はあります。」とSAT隊員。

 「どの時代?」右端の席にいる太った男が言った。彼は太い黒縁眼鏡をかけており、中央の男とは対照的に厚手の上着を着ていた。

 「江戸…いや、幕末ですかね?」

 三浦がそう言うと、小太りの男は鼻で笑った。左端に座っていた縁なし眼鏡をかけた男は黙って新入生の顔を見ている。

 SAT隊員が適当な理由を言って去ろうとした時、アロハシャツの男が咳払いをした。

 「このサークルは月に一度冊子を出しているんだ。いわゆる『研究成果』を出さないといけない掟があるのさ。そのための資料代として月3千円まで出る。」

 「いいですね。」三浦はその活動費で趣味の本が買えるかもしれないと淡い期待を抱いた。

 「冊子に投稿する内容は自由だし、興味があるならここに来てくれ。」アロハシャツの男が歴史研究会に関することが書かれた小さな紙を手渡した。

 三浦はその用紙を受け取ると笑顔を浮かべて去って行った。

 「あいつ、来ますかね?」小太りの男が離れて行く三浦の背を見て言う。

 「来るさ…」同じく新入生の背中を見ながらアロハシャツの男が呟く。「きっと来る…」






 混沌。

 娘が搬送された病院で菊地一家を待ち受けていたのは人の群れであった。

 事件発生から10時間は経過していたが、病院は彼らのような親族や友人の身を案じている者、警察や報道関係者で埋め尽くされていた。

 両親を待たせて菊地家の長男である『優介』は、人々の間を縫うように進んで受付へ向かう。しかし、受付は押し寄せる人々と電話の応対で忙しく、優介がいくら叫んでも彼の声は届かなかった。

 「詩織のお母さん?」

 長い髪を後ろで束ねた浅黒い肌の女性が長男を見守っていた初老の夫婦に声をかけた。菊池信弘とその妻・清子が女性の方を向く。

 「詩織のお母さんですよね?」再び女性が言う。

 清子が首を縦に振る。彼女は何となくその女性の顔に見覚えがあった。

 「来たんですね!詩織は4階にいます!!今はまだ―」

 「失礼ですが、どちら様ですか?」信弘が女性の会話を遮る。

 「電話した『山沢』です。」

 「あぁ、あなたでしたか…」

 「そんなことより、詩織の病室に案内します!」

 それを聞くと、菊池信弘は長男を呼び戻して娘の友人の後を追った。

 「先生?」三須の声が大学教授の回想を中断させた。「大丈夫ですか?」

 「あぁ…」窓の外に広がる景色を眺めたまま、菊地は向かい側の席に座る学生に向かって答えた。

 「もし、体調が優れないであれば―」

 「問題ない。」はっきりと菊地は言った。「それで今日の用件は?」

 二人は大学生近くのカフェで会っていた。学生の多い賑やかな場所であるため、常連客以外はあまり来ない。

 「寺島ゼミに面白い学生がいました。」

 「『良い学生』なのかい?」

 「昔の私に似ています…」口角を上げて三須が言う。「一応、守谷たちに調べてもらいましたが、問題はないようです。」

 「そうか…しかし、あまり時間がない。できるだけ早く『信頼できる学生』を集めて、あのマニュアルを学んでもらわないと…」

 「その件につきましては、今いるメンバーで対処します。補充人員には別の仕事をしてもらう予定です。」三須が思わせぶりな笑みを浮かべる。

 「つまり?」

 「磁石になってもらうんです。」








 ドアは開いていたが、礼儀として三浦はノックして「すみません」と言った。

 「どうぞ!」

 部屋の奥から返事があったので、三浦は室内へ入る。中には説明会にいた3人がおり、彼らは本を熟読していた。

 「失礼しまーす?」先輩たちの様子を伺いながら潜入捜査中のSAT隊員が言う。

 「元気かい、高橋くん?」左端にいた赤いアロハシャツ姿の『干場 義則』が尋ねた。彼はこの歴史研究会の代表であり、また、その設立者でもあった。

 「はい、元気です。」

 色々と考えた末に三浦はこのサークルに入ることにした。最初の数日は後悔しかなかったが、2週間程経って彼は自分の判断が正しかったと実感した。このサークルに所属する人々は歴史よりも学内の動きについて並々ならぬ関心があるのだ。その会話の中には噂話も含まれていたが、稀に三浦が求めている情報も含まれていた。

 「経済学部に剛田っていう野郎がいるんですけどぉ~」

 説明会にいた小太りの男が沈黙を破った。名前は『木内 和哉』といい、経済学部の2年生であった。

 「何かされた?」と干場。

 「その彼に惚れたんじゃ?」部屋の隅で本を読んでいた文学部3年生の『照井 明人』が茶化した。説明会の時は無口であったが、彼は人が少ない所で喋る事が多かった。

 「僕はそっち系じゃないですよ!」木内が声を大にして否定した。「いやぁ~大した話しじゃないんですけど…」

 「どんな話しなんですか?」興味のない振りをして三浦が尋ねる。

 「その剛田って奴、レンタカーまで借りて大量の肥料を買い込んでんだよ。」唯一、興味を示した後輩に向かって木内が言った。

 「ガーデニングに目覚めたんじゃね?」照井がコーラを飲んで言った。「もうすぐ時期じゃん。」

 「でも、10キロの肥料を5袋も買いますか?それにアイツ、寮生活ですし、その肥料は寮に持って帰らないんですよ。どっかに横流しでもしてるんですかね?」

 「河川敷で農園をやってるのかもしれない。最近、増えてるらしいし…」読書に疲れたのか、干場が本から顔を上げて首を左右に回す。

 「通報した方がいいですかね?」と木内。

 「いや、いらないでしょ。」干場が腕時計で時間を確認しながら言う。

 「そうですよね…」そう言って、木内は読書に戻った。

 干場と照井はあまり興味を示していなかったが、三浦は興味津々だった。

 “『アンホ』かな?こりゃ、本命っぽい…”







 「ねぇ、聞いてるの?」

 そう言われて、西野が携帯電話から顔を上げた。「聞いてるよ。」

 「ホントに?」向かい側に座る吉崎美由紀が目を細めて西野を凝視する。

 「ホントだよ。あれだろ?職場の―」

 「やっぱり聞いてないじゃん!」

 西野は困った顔をして携帯電話をテーブルの上に置いた。「ごめん。聞いてなかった…」

 「警察官になってから史くん変わったよね。」

 「そうかな?」

 「うん。」美由紀がカフェオレの入ったグラスを持ち上げる。「なんていうか、大人になったよ。」

 「実感がないけど…」

 「おじさんになったって言われる良いでしょ?」

 美由紀が悪戯な笑みを浮かべ、西野もつられて笑みが顔に広がった。

 何かが弾けるような音が聞こえた。そして、西野がその音の正体を突き止めようとした瞬間、喫茶店にいた人々が凄まじい勢いで吹き飛ばされた。そこで西野の意識が途絶える。

 どれくらいの時が経過したのか、西野が目を覚ますと破壊された喫茶店と壁一面を染める血が見えた。あまりの光景に西野は吐き気を催したが、すぐに交際相手のことを思い出して周囲に目を配る。そして、彼は変わり果てた愛しい女性の姿を見つけた。

 凄惨な現場を目撃するなり、西野はベッドの上で飛び上がった。心拍数が異常に高く、全身汗だくになっている。

 “夢…?”

 潜入捜査官は自分の居場所が分かると、安心したのかベッドから下り、水を求めてキッチンに向かった。

 「夢か…」

 悪夢の中とは言え、西野は美由紀の姿を見られて嬉しかった。その一方でテロへの恐怖も増幅した。

 「本当に…俺でいいのか…?」

 陽の光がカーテンの隙間から差し込み、朝の訪れをテロに怯える西野に伝えた。彼は身支度を整えて大学へ行く準備をする。今日の講義は休みだったが、寺島ゼミで話し掛けてきた三須に誘われたので西野は学校に向かった。

 大学のカフェテリアに着くと、三須が手を振って西野に居場所を知らせる。

 「元気かい?もしかして、忙しかったかな?」約2週間前に少し話した程度であるにも関わらず、三須は長年の友人に会ったような満面の笑みを浮かべて西野を出迎えた。

 「いいえ、今日は講義がなかったので…」

 「そっか…ところで、何か注文する?」

 「いえ、大丈夫です。」

 あの夢を見てから西野は何も口にしていなかった。というよりも、したくなかったのだ。

 「話しが変わるけど、寺島ゼミはどう?」西野の反応に不安を抱きながら、三須が話題を変える。

 「とても興味深いですが、納得できない点もあります。そう言えば、先週のゼミに来ませんでしたよね?」

 「ちょっと用事があって…」大学院生はやんわりと西野の質問を流す。「僕は小林くんの考えに共感してるよ。実は僕も寺島先生と君みたいに話した事があるんだ。同じことを別の講義とかでもやって少し思ったんだ。今の日本は…まるで植物状態だ…」

 「植物状態?」西野は戸惑った。

 「そうだよ。意思決定は他人任せ。経済も自力では活性化できない。多くの人々が前の世代の貴重な資産を食い潰している。残念だけど、今の日本は正常に機能していない。君がゼミで言ったように…この国は腐敗してるよ。」

 「なるほど…」初めて似た意見を持つ人物と出会えて西野は驚くと同時に嬉しかった。

 「君は僕の説をどう思う?」

 「植物状態という表現は新鮮で興味深いと思います。でも、まだ完全な植物状態ではないと思います。まぁ、近い状態にあるかもしれませんが…」

 西野の率直な意見に三須は喜んだ。「かもしれない。または僕たちの知らぬ内に植物状態になってるのかもしれない。」

 「もしそうなら、すぐにでも体制を建て直す必要があるのでは?」

 「その通り…でも、どうすれば良いのだろう?」三須の顔から笑みが消えた。

 「どうすればって…選挙と言っても、候補者と有権者によっては失敗するでしょうし…他の手段かぁ…」

 西野は真剣に考えを巡らせたが、選挙以外の良い案など思い浮かばなかった。『クーデター』や『革命』と言った言葉が脳裏を過ったが、西野は非現実だと思ってその考えを捨てた。

 “やっぱり息絶えるのを見守るしかないのか?”

 「小林くん…」目の前で考え込む西野を見かねた三須が口を開いた。「院生と学部生を集めて毎週金曜日に勉強会をやってるんだけど、来ないかい?」

 「えっ?」

 「勉強会に参加しないかい?一緒に答えを探そうよ。この国を良くする方法を…」







 歴史研究会に顔を出した後、三浦は大学から7キロほど離れた場所にある運送会社に足を運んだ。苦学生という設定なので、潜入中のSAT隊員は夜に運送会社で荷物の仕分け作業のアルバイトをしなければならないのだ。厄介な設定ではあるが、この運送会社に連絡役がいるので辞めることはできない。それに辞めれば辞めたで偽IDの設定が崩れる。

 “テロ計画を阻止するまでの辛抱だ。”

 そう自分に言い聞かせて三浦は仕事場である倉庫に入る。そう思うだけで気が楽になり、また、潜入捜査後に待つ恋人との再会に胸を躍らせた。

 作業の途中でトイレに行くと、小便器のところに連絡役の『山中』という男がいた。

 「お疲れ様です。」三浦が連絡役の隣にある小便器の前に立つ。

 「例の剛田っていうのはどうなった?」正面の壁を見つめながら山中が尋ねる。

 「なかなかフレンドリーですよ。」

 歴史研究会で聞いた話しを元に三浦は学内の個人情報にアクセスし、経済学部2年の『剛田 政雄』を見つけて4日ほど行動確認を行なった。大量に農薬を買うなどの極端な行動は見られなかったが、図書館や教室に暗号で書かれたメモ紙やUSBメモリーを隠し、その数時間後に別の誰かがそれらを回収するのを三浦は確認している。

 後日、潜入中のSAT隊員は剛田の『落し物』を回収した人物たちを盗撮して連絡係に渡し、彼らが別の学部に所属する学生であることが明らかになった。そして、剛田たちの人脈が分かり始めたところで三浦は剛田に接近した。

 「3日前の講義で隣に並んだ際に話し掛けたら、親切に提出期限間際のレポートについて教えてくれました。その次の日も偶然を装って接近して話したんですよ。」

 「今度は何だ?また、宿題についてか?」

 「そんなワンパターンじゃないですよ!試験です。試験!」

 「それで?」スラックスのジッパーを上げて山中が先を促す。

 「なんか勉強会に誘われましたよ。他の学部の学生も集まってテスト情報の交換とかしてるらしいです…」

 「なるほどぉ~」山中は西野の連絡役を務めている同僚から似たようなことを聞いていたので、手を加えるべきだと思っていた三浦の手法を見守ることにした。

 「実はな…」山中が便器から離れて手洗い場へ向かいながら言う。「もう一人、潜入捜査中の警察官がいる。お前と彼のためにも、誰とは言わないが…」

 「同じ大学ですか?」

 「いや、別の場所だ。彼も勉強会なるものに呼ばれてるそうだ…」手洗いを終えた山中がトイレのドア前で立ち止まる。「まぁ、なんというか…あまり気張るなよ。何かあれば、もう一人いるんだし…自分の身を第一に考えて行動しろよ。」

 「分かりました。」

 「頼んだぞ。」そう言うと、山中はトイレを後にした。

 そして、仕事が終わると三浦は急いで帰宅した。

 “また怒られるな…”

 アパートに着くなり、SAT隊員は盗聴器や仕掛けカメラの有無を確認し、安全を確保するとキッチンマット下の床板を一枚取り外す。そこにはジップロックに入ったスマートフォンがあった。急いで電源を入れ、起動するのを待つ。

 “早く、早く…”

 暗証番号を入力する画面が表示されると、三浦はすぐに4桁の数字を打ち込んでロックを解除する。次にSkypeのアプリを起動して交際相手に電話した。

 「遅くなってゴメンッ!!」通話が始まるなり三浦が謝った。

 「もぉ、遅すぎぃー」受話口から高橋恭子の声が聞こえてきた。「大ちゃん、浮気してるんじゃない?」

 「浮気する暇が欲しいくらい忙しいって…」最近、三浦はこの手の質問に疲れていた。彼は彼女ほど魅力的な女性はいないと思っており、この女性となら幸せな家庭を築いて行けると信じている。

 「ねぇ、研修っていつ終わるの?」

 「まだ分からないけど…意外と早く終わるかも…」

 テロリストと思われる学生たちの動きが掴みかけていたので、三浦はもう少しで潜入捜査が終わるだろうと推測していた。

 「早くって?来月とか?」高橋が嬉しそうに尋ねてきた。

 「そんなに早くないと思うなぁ~。最長で半年…最短で3ヶ月くらい?」

 「まだまだ先じゃん…」受話口から聞こえてきた女性の声には落胆の響きがあった。「会いに行っちゃダメ?」

 「今は無理だよ。もう少しの辛抱さ…もう少しで会えるから…」

 「それじゃ浮気しないで頑張ってね!」浮気の部分を強調して高橋恭子が言う。

 「わかってるって…」








 西野と三浦はほぼ同時期に「勉強会」へ誘われたが、二人が同じ場所に集まることはなかった。この勉強会は複数存在しており、西野は三須が主体の京都大学グループへ、そして、三浦は小熊という女性が取り仕切る立命館大学グループへ参加した。

 主に有名大学の学生を集めて行われる勉強会では、実際に提出課題や試験のため対策を行い、さらにそれぞれの専門分野に関することを議論する場を提供している。全ては三須と小熊が考えた人材確保のための手段であった。

 二人の潜入捜査官は勉強会に潜入できれば、テロ計画の情報が掴めると思っていた。しかし、三須たちはそこまで愚かではなかった。期待していた二人の捜査官を裏切るように3週間の月日が流れ、西野と三浦は次第に苛立ってきた。

 “ハズレか?”

 捜査官たちの連絡役も焦り、捜査の方針転換について考え始めていた。それでも西野と三浦は辛抱強く手掛かりを探し求め、その結果、不審な動きを見つけた。

 勉強会を終えて帰ろうとした時、西野は薄暗い階段の踊り場で電話する三須を目撃した。幸いな事に三須は窓の外を見ていたので潜入捜査官の姿を見ていない。足音を押し殺して身を隠すと、西野は耳を澄ませた。

 「今夜?急だな…」

 “何かの取引か?”三須の声しか聞こえないので西野に会話の全容が掴めない。

 「今度こそ大丈夫だろうな?」

 「問題ないと思うぜ。」三須の問いに守谷が答える。

 「金の準備はできてるが、もしものことを考えて対策も練った…」

 「というと?」

 「そろそろアイツも消そう。下手に動かれたら厄介だろ?」

 “確かに…”と三須は思った。“その時期かもしれないな…”

 「俺たち二人で?」三須が尋ねる。

 「いや、もう一人…信用できる奴を連れて行く。」

 「誰だ?」

 「それは会ってからのお楽しみにしようぜ。」

 三須は鼻で笑い、そして、何も言わずに電話を切った。西野は急いでその場を後にすると、携帯電話を取り出して既にハッキングした三須の携帯電話の履歴を確認した。

 “守谷?”履歴に表示された名前を見て西野は心の中で読みあげた。“取り敢えず、三須の動きを追うか…”







 顔が知られているため、西野は細心の注意を払って尾行した。

 三須は約1時間半かけて隣の滋賀県まで行き、JR湖西線のおごと温泉駅で降りて琵琶湖の方へ歩き出した。潜入捜査官が25メートル程距離を開けて三須の後を追うも、対象者は途中でタクシーを拾って移動し始めた。

 “クソッ…”西野もタクシーを拾う。

 「どちらへ?」と運転手。

 潜入捜査官は携帯電話の画面を見て、三須が近くにあるボート置き場で止まったことを確認する。

 「ここに行ってもらえませんか?」西野が携帯電話の画面を運転手に見せる。

 「えーと、マリーナですね…」目的地を確認すると白髪頭の運転手がタクシーを走らせた。

 西野はボート置き場の50メートル手前で運転手に停車するよう言い、会計を済ませると三須の行方を追った。三須はボート置き場の敷地内におり、西野はできるだけ離れた位置で対象者を監視することにした。

 三須から20メートル程離れた大型ボートの陰を監視位置に決めた時、背後から物音が聞こえた。急いで振り返ろうとしたが、その前に腕が西野の首に巻き付き、続いて口を塞がれて後方へ引き倒された。

 “見つかった!!?”

 必死に抵抗しようと動くも、西野を抑える人物の力が強すぎてビクともしない。

 「静かにして下さい。見つかってしまいますよ…」西野を抑える男が言った。

 “誰だ?”

 「手を離しますけど、暴れないでください。」三浦は静かに西野から手を離した。

 「お前は?」SAT隊員の方を向いて西野が尋ねる。

 「同業者ですよ。そう言えば、分かってもらえると思いますが?」三浦は目の前にいる男が『もう一人の潜入捜査官』だと思いながらも、警戒して身元を明かさなかった。

 「そうか…お前も三須の監督役か?」西野も敢えて身元を伏せ、三須の仲間である振りをした。

 「いいえ、僕は守谷の監督役です。」

 “守谷…三須の通話履歴にあった名前だ。コイツが例の警官なのか?”

 「質問させ―」

 西野が三浦に問いかけようとした時、潜入捜査中のSAT隊員が右手の人差し指を三須がいる方へ向けた。これを見て西野は質問を後回しにして、三須たちの行動を監視することにした。









 静まり返った夜の琵琶湖を見つめていると、背後に迫る足音を聞いた。三須はゆっくりと振り返って近づいてくる人物を見た。

 「やぁ!」白い歯を見せてフィリピン人のパオロが言った。

 「用件は?」三須は世間話抜きで本題に入ろうした。

 「商品が入ったから呼んだのさ。いつもの彼はいないのかい?」パオロがリュックサックを肩から下ろして守谷のことを尋ねた。

 「彼は別の仕事で忙しいんだ。」

 「そうかい…」

 「それで約束の物は?」三須がパオロとの距離を縮める。

 「兄さんもせっかちだねぇ~」そう言いながら、フィリピン人は鞄から横30センチ、縦10センチ程の木箱を慎重に取り出した。「ちゃんとしたグレネードだよ。お金は?」

 「あるよ。」大学院生は上着の内ポケットから膨らんだ封筒を取り出した。

 封筒を見るなり、パオロが口笛を吹いた。それは大金の入った封筒に向けたものではなく、誰かに合図を送るような高い音だった。

 “コイツとの取引も終わりだ…”フィリピン人は大金が入っている封筒を奪い、目の前にいる若い日本人を殺そうと計画していた。そのために仲間を二人連れてきた。先ほどの口笛はその二人を呼ぶための合図だった。“もう一人の男がいないのは残念だが、コイツを消せばあの守谷とかいう野郎も怯えるだろう…”

 しかし、パオロの仲間は現れなかった。彼がもう一度口笛を吹こうとした時、三須が笑い出した。フィリピン人は急に怖くなって周囲を見渡した。

 “アイツらは何所に―”

 そして、パオロは二人の仲間を見つけた。だが、二人とも口に猿轡を噛まされた上に両手を後ろで縛られた状態であり、守谷と見た事ないもう一人の男に背中を押されて三須とパオロの所に近づいてくる。パオロは唖然として捕えられた仲間を見つめ、次第に込み上げてくる恐怖によって両脚が震えた。

 「こうなるとは思わなかったよ…」三須がパオロの肩を背後から軽く叩く。フィリピン人は驚き、振り返りながら地面に座り込んでしまった。「残念だよ…」

 守谷ともう一人の男が捕まえた二人のフィリピン人をパオロの横まで連れて行くと座らせた。

 「彼が例の助っ人かい?」三須が守谷の横に立つ男を見て尋ねた。

 「そうだ…」と守谷。

 「初めまして。武田衛です。」鉄パイプを持つ男が三須に一礼する。

 彼らはまるで拘束している外国人の存在を無視するかのように話していた。

 「それはさて置き…」三須がやっとフィリピン人たちの方を向く。

 「頼むよ!彼らはただの護衛だ!アンタの連れみたいなもんだよ!!」パオロが叫ぶ。

 「うるさい奴だ。」守谷が武田の持っていた鉄パイプを取り上げ、自分が捕まえたフィリピン人の後頭部を殴った。殴られた男は呻きながら前のめりに倒れ、それを見て守谷は殴った男の前へ移動する。

 「調子はどうだい?」守谷がパオロに笑みを送る。

 「やめてく―」

 パオロの訴えは虚しく、守谷は同じ男の頭を何度も鉄パイプで殴った。男の体は殴られる度に震え、その後、数秒間激しく体を痙攣させて動かなくなった。

 それを見た二人のフィリピン人は失禁し、体を震わせて守谷の動きを注視する。返り血を浴びた守谷は真っ赤に染まった鉄パイプを振り上げ、パイプに付着していた血と肉片がパオロの顔と胸に飛んだ。パオロは逃げようとするも、体が動かず、ただ震えることしかできない。

 「分かってくれたかい?」三須が怯えるパオロに問いかける。「僕たちは正式な取引を望んでいたのに…君は裏切った…」

 パオロが喋ろうとするとも、口から出てくるのは言葉ではなく判別不能な音であった。 

 「落ち着くんだ。」と三須。「何が言いたいんだい?」

 「ゆ、ゆ、ゆ、許してくれ!お…俺、俺には、小さい娘がいる!!殺さないでくれッ!!!」どうにかパオロが声を出して助けを求めた。

 武田は守谷と三須の様子を伺っていた。初めて参加した密会に彼は興奮しており、憧れの二人がどのようにしてこの問題を解決するのか知りたかった。

 三須が一歩踏み出してパオロの両頬に手を添える。「許すよ…」

 これを聞いてフィリピン人は救われたと思い、笑顔を浮かべて胸を撫で下ろした。彼は両頬にやさしく手を置く三須が神の使いの様に見え、この男に逆らうべきではないと肝に銘じた。

 “これで終わり?”武田は失望した。“全員殺すと思ってたのに…”

 「ありがとう!ありがとう!!」パオロが涙を流しながら三須に感謝する。

 これを受けて三須はフィリピン人に笑みを送った。そして、彼は親指でフィリピン人の眼球を押し潰した。

返報 13-2 [返報]

13-2



 自宅に近い公園のベンチで西野は考えていた。
 “地域の安全を守ることもできないのに、テロ攻撃なんて阻止できるはずがない…”
 小さい頃からスーパーヒーローに憧れていた西野は、刑事になって人々を悪者から救いたいと思っていた。大学を卒業して一般企業に就職しても、その夢が変わることはなかった。ゆえに彼は退職して警察官になった。しかし、西野の理想は崩れ去ろうとしている。
 上司は職務怠慢で積極的に犯罪を取り締まろうとはしない。西野は何度か未然に防げそうな犯罪を目の当たりにしてきたが、上司は「気にし過ぎだ」と言って目を逸らすことが多かった。また、西野が救おうと思っている人々は制服姿の彼を見るなり、露骨に避けたり嫌悪感を見せたりした。中には好意的に接してくれる人もいるが、警察官に良い印象を持っていない人々が目について落ち込むこともあった。それでも西野は自分にできることをしようと努めてきた。
 “断ろう…”
 ベンチから立ち上がり、西野は自宅へ向かって歩き出した。
 「何者かがテロ攻撃を計画している。」
 頭にスーツ姿の男の声が甦ってきた。
 「我々はかなり大規模な物だと想定している。」
 「静岡の学生は氷山の一角だ。」
 一歩一歩踏み出す度に、西野は会議室でのやり取りを思い出した。
 「我々はコイツらを止めたい。そのためには君が必要なんだ。」
 人気のない通りで立ち止まって西野は深呼吸した。
 “捜査に協力したい…”
 そう思っていても、西野は警察官として働く内に自分が無力な存在だと感じ、自分では役に立てないと考えている。また、両親や交際中の女性のことも考えると、潜入捜査への協力は難しいと判断したのだ。
 彼は再び深呼吸した。
 「揺るぎ無い信念を持ち、人々を助けるために身を投げ出す…テロリストと戦うには必要なことだ。」
 スーツ姿の男の声が再び甦ってきた。頭を振って何度も浮かび上がってくる潜入捜査への興味を払い除けようとするも、そうする度に捜査協力への思いが強くなった。








 “これだけか…”
 机の上に広げた武器を見て守谷和章は思った。机にはマカロフ拳銃を模造した北朝鮮製の拳銃5丁、フィリピンで密造されたUZIそっくりの短機関銃1丁、AK―47をコピーした中国製の突撃銃2丁が並べられている。これらは全て“使用可能な銃”であり、“不良品”ではなかった。
 “三池の所に拳銃が3丁と突撃銃4丁。小熊の所に拳銃2丁と短機関銃2丁。増田の所には―”
 守谷が他の仲間が所有している“使用可能な武器”の数を思い起こしていると、ドアの開く音が聞こえた。彼はジーンズのポケットから折り畳みナイフを取り出して静かに刃を出す。
 足音は彼のいる部屋へ真っ直ぐ近づいてくる。守谷は足音から侵入者が一人と推測し、忍び足でドア脇に移動して相手の様子を伺う。1LDKのアパートなので、玄関から真っ直ぐ歩いて来れば守谷のいる部屋に辿り着ける。
 侵入者は守谷のいる部屋の前で止まった。その後、息を押し殺して相手の動きを待つ守谷は拳銃の撃鉄を落す音を聞き、心臓が縮み上がるような思いを感じた。
 “公安!!?”
 「出て来いよ。守谷、お前だろ?」
 この声を聞いて隠れていた男は素早く飛び出して侵入者の姿を確認する。すると、細身の若い男が拳銃の引き金を絞った。パスッという音と遊底が後退して金属が擦れる音が室内に響き、小さな白い球が守谷の胸に命中した。
 「本物なら死んでるぞ…」三須が玩具の拳銃を床に向ける。
 気の長くない守谷は仲間の冗談に怒って額に青筋を浮かべた。「ふざけるな!」
 「そう怒るなよ。良い報せが入ったんだ。」
 「武器か?」間髪入れずに怒気をこめて守谷が尋ねる。
 「いや、例のマニュアルだよ。」
 「C-1のか?」
 「その通り。あとは君のいう武器だよ…君が購入者を殺し過ぎたから、例のフィリピン人はビビッてるみたいだよ。ヤクザを怒らしたって思い込んでる。」
 守谷はナイフを仕舞って笑みを浮かべた。「たった7人しか殺してないのにか?」
 「7人もだよ、守谷。」三須の声には微かに怒気が込められていた。「結構な数だ。これ以上の欠員は困る。」
 「足が付かないようにしてるだけだ。それにアイツらは警察にマークされていた。いずれにせよ、慎重な奴を仲間にしないとダメだ。」台所へ行って守谷は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。「でないと…計画が破綻する。」
 「わかってる。」壁に背を預けて三須が消え入りそうな声で言う。
 「先生はどうした?」
 「息子さんに会うと言ってたよ。」
 「例のバカ息子か?」
 「そうだよ。」そう応えると、三須も冷蔵庫から水を取り出した。
 「大丈夫なのか?勘付かれて通報でもされたら…」水を飲む仲間を横目に守谷が訊く。
 「心配ないさ…」飲み終えると三須はペットボトルのキャップを閉める。「何かあれば、消えてもらうから…」
 それを聞いて守谷は口元を緩めた。“人の事をあーだこーだ言うが、コイツの方が狂ってる。”








 自宅で荷物をまとめているとインターホンが鳴り、三浦大樹は作業を中断して玄関へ走って覗き穴で訪問者の姿を確認する。ドアの前には大きな白いビニール袋を持った女性が立っていた。
 「早く開けてよぉ~」と女性が言う。
 「ちょっと待った!」三浦は急いで開錠し、ドアを開けて交際相手を室内に招き入れた。
 「もう荷造りしてるの?」食品の入ったビニール袋を床に置くなり、交際相手の高橋恭子が半ば呆れ気味に言った。三浦の部屋は元から質素な部屋であったが、今はベッドとテレビ、それに8つの段ボールしかない。
 「準備だよ。準備。」彼女の買って来た食品入りのビニール袋を持ち上げてSAT隊員は台所に置いた。
 「まだ10日もあるじゃん!」
 「もしかしたら、早まるかもしれないんだ…」
 「早まったら、帰りも早くなる?」
 「それは分からない。」食料品を袋から出して三浦が言う。
 三浦は彼女の恭子に潜入捜査とは言わず、長期の『研修』と言っている。荷造りについては、研修が1年ほど伸びる可能性があるので、現在借りている部屋を引き上げて研修が終わるまで荷物を実家に預けるためだと説明した。
 「その研修が終わったら、私の両親に会ってくれる?」彼の隣に並んで恭子が訊く。
 「そのつもりだよ。」台所に左手をついてSAT隊員は右隣にいる彼女の方へ体を向ける。「『娘さんを僕に下さいっ!』って言いに行かないと…」
 「父が断ったら?」交際相手を見上げて恭子が悪戯な笑みを浮かべる。
 「駆け落ちでもする?」大樹も同様の笑みを浮かべた。
 「できるかなぁ?」再び悪戯な笑みを浮かべて彼女が言う。
 「できなけりゃ、何度でもお父さんにお願いするだけさ。」
 二人は互いの目を見つめて微笑み合い、そして、唇を重ねた。
 「そうだ!」恭子の方から唇を離す。「充電器使わせて。もうすぐ電源が切れそうなの。」彼女は思い出したように上着のポケットから携帯電話を取り出して三浦に見せる。
 「いつもの場所にあるよ。俺のも充電中だから―」
 SAT隊員が喋っている途中にも関わらず、恭子は小走りでリビングへ行ってまだ充電中の大樹の携帯電話からコードを抜き、自分の携帯電話の差し口に差し込んだ。いつものことなので、三浦は首を横に振りながら食品をビニール袋から出す作業を続けた。
 一方、恭子はメールチェックの振りをして三浦の携帯電話のロックを解き、事前に用意していた新しいiCloudのアカウントを交際相手の電子端末に登録した。
 “悪い気もするけど…”そう思いながらも彼女は大樹の携帯電話を元の位置に戻した。








 シャッターを切る音が室内に響いた。
 “可哀想な野郎だ…” 空きテナントに2階から向かい側の1階にある喫茶店の様子を伺う男は溜め息をついた。
 男の監視対象者は有り難いことに窓際に交際相手と座っており、店に入って監視する必要性がなくなった。また、監視対象者は安全の配慮に欠けていたので、古典的な手法ではあるが、Bluetoothを利用した強制ペアリングによるハッキングが成功し、リアルタイムでの盗聴に成功していた。
 「調子はどうです?」銀縁眼鏡をかけた男が缶コーヒーを窓枠に置く。
 突然のことに驚いて監視者はカメラから顔を上げ、相手を確認するなり再び監視対象者の方へ向いた。
 「脅かすなよ、藤木。」
 「いつも気配を出すように努めてるんですけど…」と苦笑いを浮かべて藤木が言う。「それで斉藤さん…例の彼はどうなんです?」
 「どうやら係長の目に狂いはなかったようだ。」
 「そうですか…じゃ、決まりですね。」単眼鏡をポケットから取り出し、藤木は喫茶店にいる監視対象を見た。








 「何で?」女性の目には今にも溢れ出そうな程の涙が溜まっている。
 尋ねられても西野は押し黙ってテーブルの上にあるコーヒカップを見つめることしかできない。
 「ねぇ、何で?どうして?」
 西野の交際相手である吉崎美由紀は「別れたい」と告げられて混乱した。込み上げてくる涙と嗚咽を堪えながら、彼女は愛する男性からの残酷な言葉の理由を探ろうとしているのだ。しかし、西野は別れを告げてから一言も発していない。
 しばらく二人の間で沈黙が続く。
 別れは美由紀にとっても辛い事だが、それは西野も同じであった。できる事なら彼も彼女と一緒にいたかった。それに西野は美由紀との結婚も視野に入れていた。しかし、潜入捜査へ協力を決意した彼は彼女と別れる道を選んだ。
 愛する人だから、幸せになって欲しい。例え、それが身勝手な決断だとしても、彼はこれが一番だと思ったのだ。別れれば、彼女を潜入捜査に巻き込む恐れを無くし、自分が捜査中に亡くなったとしても、彼女の悲しみは小さくなる。
 「他に好きな人ができたの?」と美由紀。
 尋ねられても西野は何も言わずに下唇を噛んだ。
 “そんな人はいない…”
 「どうして黙ってるの?」
 「ごめん…」
 店を出ようと、西野が美由紀の隣を通り過ぎようとした時に右手を彼女に掴まれた。
 「答えてよ…」彼女の声は震えており、手を掴んだ時に目に溜まっていた涙がこぼれ落ちてスカートに小さな染みを作った。
 手に彼女の温もりを感じて西野は「まだやり直せる」と思った。彼は美由紀の手を握り返し、正直に話そうと体を彼女へ向けようと動く。しかし、これから行う仕事の事が脳裏を過ると、それは無理だと考え直した。
 西野は右手の力を名残惜しそうに抜き、彼女の手を振り解く。この時、美由紀は心臓を締め付けられるような苦しみを感じ、顔をくしゃくしゃにして嗚咽を堪える。今すぐにでも彼女を抱きしめて真実を告げたかった。西野の目も潤んでおり、胸の奥から込み上げてくる悲しみのせいで咽び泣きそうになった。
 「ごめん…」そう言い残して、西野は喫茶店を後にした。
 彼女との距離が開く度に抑えていた感情が強くなり、次第に堪えられなくなって涙が溢れ出た。西野はそれを見られないように下を向いて歩く。そして、彼は真っ直ぐ警察署へ向かった。
 同じ会議室で昨日と同じ色のスーツを着た男が待っていた。
 「答えは?」公安部から来た男は喫茶店を監視していた部下からの報告を受けていたので、答えを知っていたが、敢えて西野に尋ねてみる事にした。
 「協力させて下さい。」








 そのニュースを見た時、菊池の顔は蒼白となった。彼の妻はパニックに陥り、テレビの前に座り込んでその状況を見つめていた。
 1995年3月20日。
 携帯端末と通話料料金が安くなったこともあって携帯電話の普及率が70%に達する勢いの頃であったが、菊池家の長女である詩織はまだ携帯電話を持っていなかった。ゆえに現在のような安否確認は不可能であった。娘の両親はただただテレビの画面を見ながら、娘の無事を祈る事しかできなかった。
 テレビ画面にはヘリコプターから撮影される映像が流れている。事件発生から5時間経った今でも地下鉄の出入り口の周りにはブルーシートが敷かれており、その上に横たわる人々と彼らを保護する救急隊員、警察官たちの姿があった。そして、彼らを囲うように複数の警察、消防、救急車両が赤色灯を回転した状態で停車されている。
 その時、固定電話が鳴った。着信音を聞くなり、テレビに噛り付いていた菊地の妻が飛び上がって受話器を持ち上げた。
 「詩織!?」通話の相手が娘だと思った彼女は電話に出るなり娘の名を叫んだ。
 しかし、電話の主が別人だと分かった途端に抱いていた期待が泡となって消えた。
 妻の身を案じた菊地は妻から受話器を取って電話に出る。「もしもし?」
 「父さん?ニュース見てる?」受話口から息子の声が聞こえてきた。
 「見てる…」
 「詩織から連絡は?あいつ、いつもこの時間の地下鉄を使ってるだろ?」
 「あぁ…」父の声は力なく、消え入りそうであった。
 「今から家に帰る。皆で東京に行こう。」
 「そうだな…」
 「父さんも母さんも気をしっかり持ってよ!」
 「あぁ…」
 菊池は受話器を元の場所に戻した。そして、妻に東京へ行こうと言おうとした時、再び電話が鳴った。
 彼が受話器を持ち上げようとした途端、インターホンの音で菊地信弘は現実に引き戻された。
 “またあの夢か…”
 彼の心臓は異常に高鳴っており、目頭も熱くなっていた。再びインターホンが鳴る。初老の大学教授はゆっくりと椅子から立ち上がり、玄関へと急ぐ。彼がドアを開けると、満面の笑みを浮かべた息子が立っていた。
 「ただいま。」
 「おぉ…」
 「父さん、寝てた?」
 「ちょっとな…」
 菊池は息子が両親の身を案じて度々訪問していることを感謝していたが、それと同時に彼は息子の親切心に胸を痛めていた。
 “もうすぐ全てが変わる…その時、息子は私を赦してくれるだろうか?”








 潜入捜査に協力することになった西野は7日後に警察の名簿から記録を完全に抹消された。万が一、警察の記録が漏洩することがあれば、西野の命を危険に晒してしまう恐れが出るからだ。
 表向き警察官を辞めた西野は公安警察の元で訓練を受け、その期間は4ヶ月に及んだ。
訓練の内容は暗号の作り方とその解読法、尾行の仕方と確認、そして、これから成り切らなければならない人物の設定を憶える事であった。西野に与えられた偽IDは小林 健、28歳。小林と言う人物は京都大学法学部で2年学ぶも、学費が払えなくなって休学し、ようやく今年復学した学生という設定であった。
 既に接近戦や武器類の訓練は警察学校で行われていたので、戦闘訓練は不要だと公安部は判断を下した。また、公安部は早期に西野を現地に送りたいと考えていた。その理由として、彼らが想定するテロ攻撃の時期が不明であり、それに加えて「資産」として送り込んでいた人員が忽然と姿を消すことが2度も続いたからである。姿を消した二人は武器の購入に関わっており、公安部が武器購入の首謀者を捕まえようとした矢先に連絡が途絶えたのだ。
 西野はまだ公安部の意図を理解しておらず、彼は「テロ攻撃を止めたい」という思いで訓練に臨んでいた。彼は決して選ばれたことに自惚れている訳ではなく、かつて抱いた理想を実現させうようと強く思っている。
 一方、三浦大樹は西野よりも先に京都へ向かうことになっていた。彼も西野同様に偽のID「高橋 直人」をもらい、立命館大学へ入学する手配がされている。三浦の場合、見た目が若いので現役生として大学に送り込むよう公安部が決めた。
 羽田空港の国内線ロビーで搭乗案内を待つ三浦はキオスクで購入した時代小説を読んでいた。彼は祖父の影響で時代劇が好きになり、後に池波正太郎の『剣客商売』や浅田次郎の『壬生義士伝』の虜になった。今は鳥羽亮の『八丁堀吟味帳』の新作を読んでいる。
 「よいしょっと…」三浦の右隣に男が腰掛けた。
 気にせず小説にのめり込んでいると、隣の男がワザとらしい咳払いをして三浦の注意を引く。煩わしく思った若いSAT隊員が視線を横に移して男の姿を確認する。そこには見覚えのある顔があった。
 「先輩?」三浦が驚いて顔を上げる。
 「相変わらず鈍いな。」中島が笑みを浮かべて言った。
 「ど、どうしてここに?」先輩の出現に三浦は動揺した。
 「見送りに来たんだよ。」
 「でも、講義は?」
 「今日はなかったのさ。」中島は嘘をついた。彼は弟のように可愛がっている後輩を見送るため、体調不良を偽って空港にやってきたのだ。
 「あ、ありがとうございます。」
 「それはそうと…」先輩SAT隊員が遠くを見つめた。「今回の仕事が終わったら、将来の嫁さんを連れてウチに遊びに来いよ。チビ達もお前に会いたがってるし…」
 これを聞いて三浦の顔に笑みが広がった。「喜んで!」
 その時、三浦が乗る飛行機の搭乗案内のアナウンスが始まり、人々がぞろぞろと搭乗口へ並び出した。
 「じゃ、オイラはそろそろ行くよ。知り合いに見られたら、仮病がバレるし…」中島は三浦を見ずに席から立ち上がる。何故か、恥ずかしさが彼の心に込み上げて来たのだ。
 「またな…」そう言い残すと、先輩SAT隊員は人混みの中に消えて行った。

返報 13-1 [返報]

 「帰れ。」
 中島の声には何の感情も込められていなかったが、藤木は危険を察知してベンチから立ち上がった。
 「最後に一つだけ…復讐なんて考えないでくださいよ。」
 銀縁眼鏡の男がベンチから離れようとした時、背後から殺気を感じた。
 “勘弁してくれよ…”藤木は肩越しに中島を見る。SAT隊員は元公安の男を黙って見つめていた。
 「復讐?」中島が藤木の背中に向けて言った。
 「そうですよ。」藤木は敢えて振り返らずに答えた。「あなたはもう“あの事件”に関わる必要はない。」
 「俺は公安じゃないから、お前の言っていることが分からねぇよ。」
 背後に感じる殺気によって藤木の背中は冷や汗で濡れ、両脚も震えていた。
 “ここまで威圧するかよ!”
 数メートル離れた場所で待機していた藤木の同僚も中島の殺気を感じて身震いし、ホルスターに収められていた銃に手をかけたほどであった。
 「中島さんに…」藤木がハンカチで額に浮かんでいた冷や汗を拭って振り返った。「中島さんに話さなければならないことがあります。」


















13-1






 多くの人が行き交う地下街で悲鳴が上がった。
 女性からハンドバッグを奪った若い男は人々の間を縫うようにして進み、地上へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がった。地上に出て数メートル走った男は現場から十分離れたと思い、上着の下に盗んだ鞄を隠して路地裏へ逃げ込もうとした。
 「待て!」背後から叫び声が聞こえてきた。
 男が振り向くと、追跡してくる制服姿の警察官を見つけた。
 “マジかよ!”
 窃盗犯は再び走り出した。制服警官は装備の付いたベルトを左手で抑えながら、逃走を図る犯人を追う。二人から遅れを取って40代初めの制服警官が階段を上がってきた。
 「ま、待てよ…」肩で息をする警官は声が届かないと分かっていても、先を走る後輩警官に向かって言った。
 若い後輩警官はオフィスビルが建ち並ぶ通りを走り、時々後ろを振り返りながら逃走する窃盗犯の後を追っている。犯人は通行人や車両と接触しそうになってよろけたが、上手くバランスを取って走り続けた。執行猶予中であるこの男は段々と脚に疲れを感じ、このままでは逮捕は免れないと思った。
 “捕まるなんてゴメンだ!!”
 そう判断した男は盗んだ鞄を地面に叩きつけるようにして投げ、警官がそれで追跡を諦めると推測した。しかし、制服警官は走りながら身を屈めて盗まれた鞄を拾い上げ、再び窃盗犯に目を戻す。
 “何なんだよ、アイツ!”
 警官の行動を目撃して窃盗犯は悪態ついた。そして、彼が顔を正面へ戻すと右から飛び出してきた車に轢かれ、その衝撃で地面に叩きつけられた。車を運転していたスーツ姿の女性が倒れた窃盗犯に走り寄ろうとした時、制服警官がそれを制して男の右手首に手錠を取り付けた。
 「13時34分。窃盗の現行犯で逮捕する。」警官が呼吸を整えて言う。
手錠をかけられた男は観念した様子で何も言わず、大人しく制服警官に誘導されて道端に座り込んだ。
 「西野!」先輩警官がやって来た。「お前は…やり過ぎだ…」息を切らしながら40代初めの制服警官が言う。
 「でも、バッグを取り戻せました。それに逮捕もできました。」と西野。
 「いっつもだが、お前との巡回は最悪だよ…」







 「本気でも構わないよ。」紺色のシャツにベージュのカーゴパンツ姿の中島が両手を肩の高さまで上げて言う。
 それを聞いてSATの訓練生は眼光を鋭くして、両手を中島と同じ高さまで上げる。二人の体格はさほど変わらないが、数センチ訓練生の方が高くて手足も長い。間合いで比較すれば、訓練生が優位である。また、中島は防具などを身に着けていないが、訓練生はグローブ、脛当て、ファウルカップを装備していた。
 「行きます!」訓練生が大声を張り上げた。
 これは中島を怯ませるための行為であり、彼は一定の効果を生むと思っていた。しかし、訓練生が動き出そうとした時、中島は彼の股間を左足で蹴り上げた。本気ではなく、それにカップで股間は守られていたが、不快感と微かな痛みが訓練生の戦意を削ぐ。
 間を置かずに素早く中島は左手を訓練生の頭と右手の隙間に入れるように突き出し、その際に右肘を訓練生の顔面に叩き込む素振りを見せる。肘に気を取られた若いSAT訓練生は後退しようとするも、現役のSAT隊員はその前に突き出していた左腕を訓練生の右腕に巻き付け、さらにフェイントとして繰り出した肘の勢いを利用して右手を訓練生のうなじに添えて右膝を股間へと繰り出す。金的を恐れた訓練生の体は前のめりとなり、それを確認するなり中島は左足を軸にして90度回転しながら、訓練生を床へ倒すようにうなじを押す。訓練生は右腕を固定された状態で床に押し付けられ、肩に激しい痛みが走った。
 「相手に出るタイミングを教えるのは良くない。これが訓練であってもね…」他の訓練生たちに向かって中島が言う。
 訓練生たちの表情は引きつっており、自分も同じ目に遭うかと思うと憂鬱になった。それを悟った中島は笑みを浮かべ、拘束していた訓練生から手を離して立ち上がるのを助ける。
 「嫌がらせをしている訳じゃないんだよ。」と中島。「訓練の時についた癖は、必ず実戦にも出る。いくら気を付けていてもね…」
 全ての訓練生がこの説明に納得した訳ではなかったが、それでも新人教官の言葉を胸に留めることにした。
 「じゃ、次、行ってみようか…」
 これに訓練生たちは怯えた。
 ”勘弁してくれよ…”
 「行きます!」訓練生の最後尾から手が上がり、挙手した者が前に出て来た。
 その顔を見て中島は笑みを浮かべた。そして、前に出て来た男も満面の笑みを浮かべている。訓練生たちは見た事ない男の出現に驚き、それぞれ顔を見合わせる。
 「しかし、教官にお願いがあります。」前に出て来た男が言う。「一人で勝つ自信がないので、他の訓練生と組んで教官に挑んでも良いでしょうか?」
 「構わないよ。」中島はあっさりと応じた。「でも、君はもう訓練生じゃないだろ?」
 「つい懐かしくて…」
 「相変わらずだな、三浦…」人差し指で頬を描きながら近接戦闘の教官が言った。「あと5分しかないから、すぐ始めよう。」






 空のハンガーを掴んで制服の上着を掛けると西野は溜め息をついた。疲れからではなく、先輩からの説教が原因だった。彼の先輩はあまり犯人逮捕に積極的ではなく、追跡しても途中で諦める事が多い人物であった。事実、西野が署に戻ってくる前も、「過度な追跡は犠牲者を増やすだけだ」と言って、彼は部下の言葉に耳を貸そうとはしなかった。
 「どったの、西野ちゃん?」4つ隣のロッカーで着替えていた同期の熊谷が喋り掛けてきた。「溜め息なんてついてさぁ~。寿命が縮まっちゃうよ。」
 「何でもないよ。」と西野。
 「水臭いなぁ~。同期なんだし、困った時はお互い様じゃないかぁ。」
 「いつもと同じさ。村上先輩だよ。あの人とは話しが合わない…」白いポロシャツをロッカーから出して西野が言う。
 「村上さんはそういう人だろ?あまり気にすんなよ。そんなことより、最近の携帯ゲームのグラフィックって凄いよなぁ~。もうゲーム機なんていらなくなるかも。」
 西野は口元を緩めて熊谷の話しに耳を傾けた。
 「でも、課金制度は―」
 その時、更衣室のドアが開いて、西野が担当する交番の所長が入って来た。
 「西野、ちょっと来てくれ。」
 「あっ、はい。」
 「私服でも構わん。」
 「分かりました。」急いでポロシャツを着て、西野はロッカーのドアを閉める。
 「何やらかしたの?」と熊谷が小声で尋ねた。
 西野は小さく首を傾げ、更衣室のドアで待つ上司へ急いだ。






 ドアをノックする音を聞いて菊池信弘は読書を中断して顔を上げた。
 「どうぞ。」そう言って、丸縁眼鏡をかける菊池は上着の胸ポケットに入れていた栞を本に挟む。
 「失礼します。」ドアを開けて細身の若い男性が入って来た。
 菊池の研究室は大量の本、新聞、雑誌、書類で埋め尽くされており、それらは高く積まれて並べられている。若い男性は積み上げられた本と雑誌に触れないよう、慎重に教授の机へと続く細長い道を歩く。彼はこの教授の部屋に来る度に、大学付近にある埃臭い古本屋のことを思い出した。その古本屋もこの研究室のように本が通路脇に積まれていて、移動するのが難しい場所なのだ。
 「おぉ、三須君か…片付けようと思ってたんだけどね…」椅子から立ち上がると、初老の男は机の向かい側にある客人用のソファー上にあった雑誌と書類を床に放り投げる。「座ってくれ。」
 「すみません、先生。」肩掛け鞄を膝に置き、三須と言う名の学生は色褪せた二人掛けのソファーの端に腰を下ろす。
 「今日は何の用かな?」と菊地教授が話しを切り出した。
 「先週出された課題について質問があるんです。」そう言うと、学生は鞄からクリアファイルを取り出して菊池に手渡す。そして、次に彼はメモ帳とペンを取り出した。
 ファイルを受け取ると、菊池は胸ポケットからペンを取り、クリアファイルの中から4枚の紙を抜き取る。4枚中3枚は白紙であり、一番上にある紙には短い文章が書かれていた。
 『盗聴の心配はありませんか?』
 「やっぱり、レーニン主義について詳しく言及すべきですか?個人的にはマルクス・レーニン主義の説明があれば、20世紀のソ連における政治体制の説明はできると思うんですが…」三須は盗聴の可能性を考えて話しを続ける。
 菊池は学生の声に耳を傾けながら、手にした白紙の一枚の上でペンを走らせて紙を三須に見せる。
 『守谷たちが点検したが、それらしき物はなかった。』
 この教授も慎重であり、可能性が低くても筆談を止めようとはしなかった。
 「マルクス・レーニン主義はレーニン主義を踏襲してるから、できる限り触れて欲しい。『大粛清』のせいで残虐性ばかり注目されているが、注目して欲しいのは革命によって資本家の搾取を無くし、真の社会主義世界を樹立するというボルシェビキ指導部が持っていた理念についてなんだ。」
 『楠木がマニュアルを手に入れたと言ってます。』
 「やはり、革命の話が必要ですか?」メモ帳に書いた文を教授に三須が見せて言う。
 「ソ連の政治に革命は付き物だったからね。」
 『人手は?』
 菊地が紙に書き込んでそれを三須に見せる。
 『あと4人は欲しいです。現在26人います。』
 「そうですか…じゃ、先生が言った事を書けば、良い点がもらえるんですかね?」
 「そうだね~、取れるかもしれないね。」
 『できる限り、信用できる人間を集めてくれ。』
 そう紙に書くと、菊池は紙をファイルに戻して学生に返した。
 「頑張って書いてきます。」クリアファイルを受け取ると、三須はソファーから立ち上がった。
 「期待してるよ。」
 「はい。」




 ビールを飲み干すと、三浦大樹はジョッキを机に置いて左手で口元を拭う。
 「先輩って、悪魔的に強いですよね!」と正面に座る中島を見て後輩SAT隊員が言った。「5人で行ったのに、4発くらいしか入れられなかったし!」
 「お前が弱すぎるんだよ。」久々の再開に中島は笑みを浮かべる。
 「そんなことないですよ!これでも今の隊では強い方ですし!」
 「なら、お前んのトコは最弱の隊だな。」枝豆を口に放り込んで先輩SAT隊員が言う。
 「酷いっすよ、先輩。」三浦が口を窄める。
 ちょうど二人の横を女性店員が通り、三浦はビールの御代わりを頼むために呼び止めた。
 「先輩も頼みますか?」自分のビールを注文すると、三浦がメニューを指差して尋ねた。
 中島は首を横に振ってビールを飲む。注文を受けた店員は空いた三浦のジョッキを持って、その場から離れる。
 「そう言えば、交通課のあの子とはどうなんだ?」先輩SAT隊員が話題を変えた。
 これを聞いて三浦は口へ運んでいた唐揚げをテーブルに落とし、すぐにそれを箸で拾い上げる。露骨な反応であったが、それ程まで彼は動揺したのだ。
 「な、何の話しですか?」
 「この前、お前と交通課の恭子って子が手を継いでいるのを見たという奴がいてねぇ~」中島がニヤニヤしながら言う。「んで、気になったのさ。」
 飲酒で赤くなっていた顔を一層赤く染めて後輩SAT隊員は唐揚げを口に放り投げた。
 「付き合ってます。」噛み砕いた唐揚げを飲み込むと、小さな声で三浦が言った。
 「え?」中島はワザと聞き返した。
 「彼女と結婚を前提に付き合ってます!」三浦は情報を少し付け足して声を大にした。
 すると、10代と思われる男性アルバイト店員が三浦のビールを持ってきた。後輩SAT隊員は見ず知らずの人間にこの話しを聞かれて恥ずかしくなった。
 「おめでとう!!」中島が自分のビールジョッキを持ち上げる。
 「あ、ありがとうございます!」
 三浦もビールジョッキを持ち上げ、二人は互いのグラスを軽くぶつけてビールを飲む。
 去年まで同じ隊で活動していた二人はまるで兄弟の様に仲が良かった。事実、中島は三浦を弟の様に可愛がり、三浦は中島を兄の様に慕っていた。
 「実は…今日はお話しがあって、先輩を誘ったんです…」妙に改まって三浦が口を開いた。
 「まさか、結婚の仲人の依頼か?」中島は三浦をからかうのが好きで堪らなかった。それほどまで彼を気に入っているのだ。
 「いえ、違います…」
 真剣な顔になった後輩を見て中島は心配になった。「どうした?」
 「ちょっと…新しい仕事が入ったんです…」声を次第に小さくし、三浦は前傾姿勢になって会話を聞かれないようにする。「実は…」







 「潜入捜査……ですか?」西野がオウム返しに尋ねた。
 彼は警察署の2階端にある会議室にいる。その薄暗い室内には彼の他にスーツ姿の男がおり、彼らは長机を挟むように腰掛けていた。
 「そうだ。」40代半ばに見える男が身を乗り出して組んだ手を机の上に置く。「我々は君が適任だと思っている。」
 「何故ですか?」状況が呑み込めない西野はできるだけ情報を得ようとした。
 「西野史晃巡査部長。29歳。福井県出身。福井大学国際地域学部を卒業。その後、一般企業に就職するも学生時代に学んだ事を生かしたいと考えて福井県警に出願、そして、採用される。現在は東交番に配属されているね?」言い終えるとスーツ姿の男は身を引き、椅子の背もたれに寄り掛かった。
 「私の経歴と潜入捜査に何の関係があるんですか?」西野は混乱してきた。
 “公安の人か?”
 「今の環境に満足していないだろう?」とスーツの男。
 質問に質問で返されて西野は苛立ったが、男の言った事に間違いはない。
 「そんなことはありません。やりがいのある―」
 「そこじゃない。」男が西野の話しを遮る。「我々は君の才能を埋もれさせたくない。今の上司の怠惰な所に不満を持っているだろう?」
 心を突かれて西野の心拍数が上がった。”どうやって?”
 「3か月前、パナマ船籍の貨物船から4丁のライフルと500発の弾が見つかった。ニュースでは暴力団の仕業と言っていたが、実際は違う。」ここで男は喋るのを止めて西野の反応を見る。目の前にいる警官はまだ先ほど指摘された事に気を取られている様だった。
 “仕方ないな…”そう思いながら、スーツの男は話しを続ける事にした。
 「購入者は静岡に住む大学生だった。最初は単なる実銃マニアだと思っていた。ライフルは錆だらけのガラクタだったが、一応、その学生を逮捕するために彼の住むアパートに向かった。しかし、彼はナイフで自分の首を掻き切って自殺していた。その後、その他に実銃がないか室内を捜索したんだがね、彼は玩具の銃さえ持っていなかった。ウェブの履歴を見ても、その類の閲覧履歴は無かったし、不自然に消された様な痕跡もなかった。奇妙だと思わないかね?」スーツの男が笑みを浮かべて西野に尋ねる。
 「その学生は誰かに利用されていたのでは?失礼ですが、その話しは潜入捜査に関係があるんですか?それに僕と関係のない話しだと思うん―」
 「何者かがテロ攻撃を計画しているはずだ。我々はかなり大規模な物だと想定している。」
 西野は信じられないという表情を浮かべて真正面に座る男を見る。この反応から男は少なからず手応えを感じた。
 「静岡の学生は氷山の一角だ。彼と同じ様に武器を購入した学生を4人確認している。しかし、その後、4人とも行方不明となっている。いずれも京都を囲むようにして活動していた。標的が京都にあるのか、それともそこに首謀者がいるのか?」男は一度口を塞ぎ、眼光を鋭くして西野を見つめた。「我々はコイツらを止めたい。そのためには君が必要なんだ。」
 「だから、何故です?」真向かいに座る男の眼光に西野はたじろいだ。
 「君の性格だよ。揺るぎ無い信念を持ち、人々を助けるために身を投げ出す…テロリストと戦うには必要なことだ。」
 男は褒めたつもりであったが、西野は馬鹿にされている気分であった。
 「明日、またここに来る。」スーツ姿の男が椅子から立ち上がる。「その時までに返事を頼むよ。」
 そう言うと、スーツ姿の男は西野を部屋に残して去って行った。

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12-4

 

 

 

 喉を抑える広瀬の手当をしようと動いた西野であったが、既に手遅れである事を知っていた。何か喋ろうとする広瀬であるが、喉を被弾したために声を出す事ができず、喋ろうとする度に血を吐いて西野の顔に噴きかけてしまった。血を浴びても西野は怯まず、同僚の体を抱えて首を横に振る。

 「喋らなくてもいい…すぐに助けを呼ぶから…」そう言うと、西野は周囲を見渡して駆け寄ってくる小木と荒井を見つけた。「すぐに救急隊員を呼べ!まだ助かる!!」仲間を見るなり、彼は叫んだ。手遅れだと思っても、諦めたくないのだ。

 小木が携帯電話取り出して救急車を要請し、荒井は念のために周囲の安全確保に動く。SAT隊員がテロリストの利用していた遮蔽物の陰へ回ると、床に倒れる4人のテロリストに4人のSPを見つけた。荒井が生死の確認へ動くと、倒れていた女性SPが起き上がった。

 「応援ですか?」と女性SP

 「そ、そうですよ…」狼狽えながら荒井は答えた。

 「議員は無事ですか?」

 「まだ分かりません。これから議員を捜索します。」

 「そうですか…」

 西野と小木が見守る中で広瀬は息絶えた。大きく目を見開き、座っていた首は糸の切れた人形のようにガクンと落ち、血に染まった両手はゆっくりと床へ滑って行った。

 仲間の死体を見て呆然とする小木であったが、西野は込み上げてくる嗚咽を抑えて、きつく瞼を閉じる。そして、目を開けると西野はゆっくりと丁寧に広瀬の目を閉じさせ、亡き同僚の防弾ベストに付いている予備弾倉とフラッシュバンを取った。

 「何やってんだ?」小木が不思議そうに尋ねる。

 「分かるだろ?逃げた奴らを追うんだ。」そう答えながら、西野は短機関銃に新しい弾倉を叩き込んだ。「お前はここで広瀬を見ててくれ。荒井よりもお前の方が救急隊員に上手く説明できるだろう。」

 「もういいだろう…俺たちは十分やったぜ。あとは他の連中に任せよう。」小木は広瀬の顔を見て言った。

 「まだ終わってない。」西野が立ち上がる。「まだだ…」そして、彼は本間を追うために走り出した。

 

 

 

佐藤はオフィス椅子の裏側に取り付けて置いた黒いビニール袋に包まれた弾倉を取った。次に中年の男は部屋の隅にあった長テーブルを部屋の中心まで運び、それを踏み台にして天井裏に隠していた布に包まれたライフルを手探りで見つけて慎重に下ろした。

テーブルにライフルを置くと、男は布を取り除いて中身を確認する。薄汚れた布の中から2つの四角い穴が開いている銃床と消音器の内蔵された銃身が特徴的なVSSが出てきた。佐藤はそれを別のテーブルの上に乗せ、弾倉を隠すのに使っていたオフィス椅子を倒し、それを踏み台として使ったテーブルの上に乗せる。

“さて…”心の中でそう呟きながら中年男は窓を開けた。冷たい風を顔に浴び、体を少し震わせると室内に目を戻す。

彼はヴィントレスの愛称を持つこの狙撃銃を持ち上げ、10発入りの弾倉を装填すると遊底を引いてテーブルの上に置いた椅子にライフルを据える。窓との距離は1メートル弱であり、容易には発見されない。佐藤はスコープを覗き込み、150メートル先にあるグランドホテルの搬入口にあるシャッターを確認する。シャッターの中心部分には大きな穴が開いており、スコープの倍率を下げるとシャッター前に乱雑に停車されている4台の車両が見えた。

“あと3分…”腕時計に一瞥を送って佐藤は思った。

 

 

 

 3人のテロリストに囲まれた小田完治とSPの真嶋は背後にあるバンに追いやられた。身を挺して議員を守ろうとする真嶋であったが、これも時間の問題だと思っている。テロリストの目的が議員の殺害であれば、すぐに真嶋諸共小田完治を射殺する。

一方、残り3人のテロリストは議員家族と民間の警備員たちを取り囲んでいた。警備員たちは真嶋同様に家族を囲って盾になろうとしている。

「時間もないし…」堀内が口を開く。「あまり待たせると、議員にも悪いでしょ?死ぬならストレスのない方がいい…」MP-5Kを持ち上げ、堀内は真嶋に銃口を向ける。

議員の死に様を見たいテロリストたちは一斉に堀内の動きを注視する。そして、戸田と言う名の警備員はこれが好機だと判断した。

堀内が笑みを浮かべて引き金を絞ろうとした時、戸田が左隣にいたテロリストのMAC-10短機関銃に掴みかかった。銃を掴むと同時に彼はテロリストの頭に頭突きを喰らわせ、相手が怯むのを確認するや否や、短機関銃をもぎ取ろうとはせずに銃口を堀内の方へ向けて引き金に指を入れて引いた。一瞬の出来事であったが、視界の隅で起こった事に気付いた真嶋は議員と共に床に伏せる。堀内は何事かと思ったが、銃声を聞き、そして、彼の左隣にいた仲間が被弾して倒れるのは見ると状況を把握した。

テロリストは姿勢を低くしながら振り向き、戸田の位置を確認すると2度引き金を引く。銃弾は警備員の左肩と胸に命中し、肩に命中した弾は貫通して戸田の背後にいたテロリストの顎を吹き飛ばした。被弾した警備員は背後の壁に寄り掛かり、顎が吹き飛んだ男は床に崩れ落ちた。

「面白い!」堀内は被弾した戸田に歩み寄る。「度胸がある。でも、状況が悪い…」そう言うと、MP-5Kを持つテロリストは議員家族の盾になっていた若い警備員の頭を撃ち抜いた。

それに激怒した戸田は堀内に襲い掛かろうとするも、堀内に蹴り飛ばされて壁に叩きつけられた。

「非力だ…」そして、堀内は別の警備員の頭を撃ち抜いた。「自分の愚かさに気付いたかな?」

「そこまでにしなさい!」本間が一人の仲間を従えて室内に入って来た。「私たちの目的は小田よ。」

「いいじゃないか…」と堀内。

「議員を殺して逃げる。これだけよ。」

「仕方ない…」

堀内は残念そうに小田議員と真嶋の方へ戻る。やれやれと溜め息をつき、本間は一緒に来た仲間と共に議員の所へ向かう。途中、何かが本間の踵に当たった。女テロリストが足元を見ると、そこには細長い筒状の物がある。

“なっ!!?”

 本間がそれを蹴り飛ばそうとした時、眩い光と爆音が室内を覆った。

 

 

 

西野の後を追うのは容易ではなかった。

銃撃戦に二度も遭遇したため、装備が減って身が軽くなって動きやすくなっても荒井は前を走る西野を追うのが辛かった。戦闘による痛みや疲労からではなく、走る道の光景の凄惨さにSAT隊員は耐えられないのだ。血と肉片で赤く染められた廊下、体の一部が破損した死体の数々、微かに意識のある怪我人の呻き声。全てが目を背けたくなる地獄絵図であった。

小木が大ホールに残ると言ったので、仕方なく荒井は西野の後を追っているが、実際は彼も小木と共に待機していたかった。

それを他所に西野は足を止めることなく走り続けている。彼を突き動かすモノは「復讐」であった。広瀬だけのためではなく、このテロ事件で亡くなった全捜査員と巻き込まれた人々のためである。西野は一人でこの事件を解決する気でいる。

血と死体を頼りに走り続けること1分、二人は搬入口へと繋がる長い廊下で2度の銃声を耳にした。急いで西野と荒井は音がした場所へ駆けつけ、ドア枠の横に並んで室内の様子を伺う。西野は2人のテロリストに囲まれる議員家族とその護衛、5人のテロリストと対峙するSP1人と小田完治を確認した。背後にいる荒井の方を向き、ネズミ取りの捜査官はテロリストの数と大まかな位置をハンドシグナルで伝える。SAT隊員は頷き、MP-5の銃床を右肩に押し付けた。

呼吸を整えながら閃光手榴弾を取り、西野はその安全を抜いて室内へ静かに転がした。手榴弾は吸い込まれるようにして部屋の中央へ転がり、それは女テロリストの踵に当たって止まった。そして、本間が足元を見ると同時にそれは爆発した。

閃光と爆音を確認するなり、西野と荒井は室内へ踏み込んだ。最初にネズミ取りの捜査官が目にしたのは二人のテロリストに囲まれる民間と警備員と小田議員の家族3名であった。彼は目視すると銃口と体を右へ向け、その際に室内の中心にいるテロリスト4名とSP、そして、小田完治の位置を確認した。その後、視線を完全に右へと移動させて脅威の有無を確認する。

異常なし。

2秒の間に脅威の数を理解すると、西野と荒井は姿勢を低くして右へ移動しながらテロリストに向けて発砲する。まだ、閃光手榴弾の影響で視力と聴力が回復していないテロリストたちはこの攻撃に混乱し、この間に撃ち殺されると思い、我武者羅に発砲を始めた。彼らにとって、視力と聴力が元に戻るまでの時間が永遠のように思えた。

閃光手榴弾の存在に気が付いた真嶋は爆発の直前に目を閉じていた。彼に手榴弾の種類を判別するだけの余裕はなく、それはただ単に爆発への恐怖に対する行動であった。しかし、それが結果的に彼へ危機を回避する機会を与える事になる。

爆音による耳鳴りでふらついたが、真嶋の視界は良好であった。彼は議員の手を引いて避難しようとするも、状況が掴めていない小田は腕を振って抵抗する。仕方なくSPは強引に議員の手を引き、大きな穴の開いたシャッターへと急ぐ。そして、シャッターの開閉ボタンを押す。巻取りシャフトが唸るような音を出してスラットを持ち上げる。スラットが60センチ程浮き上がると、彼は議員と共にその下を潜り抜けて外へ避難した。

テロリストの放った銃弾が西野と荒井の頭上を横切って壁に無数の穴を開けた。銃撃を受けても、二人は怯まずに発砲を続ける。銃撃戦が始まると、小田完治の妻と娘が悲鳴を上げ、息子はただ頭を抱えて蹲った。彼らを守る警備員たちは包み込むように警護対象たちを囲む。

西野は小田完治がいる場所に、荒井はその家族を囲むテロリストに向けて引き金を引き続けた。弾薬の節約と精密射撃のため、二人はフルオートでなくセミオートで撃っている。事実、弾の消費を最小限に抑えることはできているが、移動しているために正確な射撃は不可能であった。それでも西野と荒井はそれぞれ一人のテロリストを無力し、高く積まれた段ボール箱と黄色いプラスチック製の箱の陰に滑り込んだ。身を隠すなり、二人は再装填を始める。この頃になってやっと、テロリストたちの視力と聴力が回復した。

クソッ…本間は床に転がる仲間の死体を見て思った。彼女は素早く死んだ男からMAC-10をもぎ取ってバンの陰に身を潜める。

「おい!」

堀内が本間の右肩を引き、本間は鋭い視線を背後に向ける。

「小田がいない。」

女テロリストはそれを聞いて焦り、咄嗟に周囲を見渡した。しかし、小田とSPの姿はない。

「何所よ!!」本間が堀内を怒鳴りつける。

「シャッターを開けて逃げたんだろう。どうする?俺が追おうか?」堀内の言葉には余裕の色が見えた。しかし、本間にはない。

「うるさいッ!!」そう吐き捨てるなり、女テロリストは走り出した。

 

 

 

 

遮蔽物から出るなり、西野は外へ向かって走る本間と彼女を追う二人のテロリストを発見した。彼は短機関銃のセレクトレバーを単射から連射に切り替え、3人のテロリストの動きを追うようにMP-5Fを水平に振りながら引き金を絞る。しかし、銃弾が3人を捕える事はなく、西野は弾倉を一つ無駄にしてしまった。

クソッ!

議員の排除を最優先と考えて外へ出たテロリストを追うために西野は再装填ではなく、腰のホルスターから拳銃を取り出して走り出す。荒井も彼の後を追って動き出した。

その時、バンの陰から堀内が飛び出してきて、西野の拳銃を掴むとMP-5Kの銃口で捜査官の左手の甲を殴った。あまりの激痛に西野は左手を銃から離したが、拳銃はまだ右手で握られている。続けて堀内は短機関銃の銃口を西野の顔に向けた。素早くまだ痛む左手を伸ばして、西野はテロリストの短機関銃を掴んで間髪入れずに頭突きを堀内の鼻頭に喰らわせた。

「先に行けぇ!!」西野が背後で狼狽えていた荒井に向かって叫び、再び堀内の鼻頭に頭突きを入れた。SAT隊員はこの一言で我に返って3人のテロリストを追う。

二度の頭突きで鼻の骨が折れたテロリストは、西野の拳銃から手を離して一歩後退する。右手が自由になると、捜査官は銃口で折れた鼻から血を流す堀内の額を突く。激痛に堀内は短機関銃から手を離し、西野の右手首を掴むと勢い良く飛び掛かり、捜査官をシャッター横の壁に叩きつけた。そして、下から突き上げるように右肘を繰り出して西野の顎を殴る。反撃の機会を与えないようにテロリストはすぐさま右肘を西野の左側頭部に叩き込む。この素早い連打に西野は上手く反応ができず、また、そのダメージによって彼は拳銃を地面に落としてしまった。

堀内は中島にやられた事を真似しようと、西野の頭を背後の壁に叩きつけるために捜査官の体を手前に引いた。この瞬間を利用して西野は右膝で堀内の股間を蹴り飛ばし、体をくの字にして後退する男の頭を両手で掴んで右膝をテロリストの顔面に叩き込む。堀内は悲鳴を上げて後ろに倒れるように転び、血だらけの鼻を両手で抑える。捜査官は既に戦意を失っているテロリストの顔面を蹴り飛ばして追い打ちをかけ、堀内は耳朶を震わせるような悲鳴を室内に響かせた。

しかし、その悲鳴も束の間の事であった。テロリストの口は閃光手榴弾で塞がれ、西野はそれを掌底で深く堀内の口に押し込む。男の目に涙が溜まり、何かを言おうとしていたが、ネズミ取りの捜査官はそれを無視してフラッシュバンの安全ピンを引き抜いた。

 

 

 

乗り捨てられた車で埋め尽くされた狭い道を縫うように進む真嶋と小田完治の頭上を何かが通過した。真嶋は瞬時に銃弾だと気付いて議員と共に近くにあった車の陰に隠れる。二人はまだホテルの裏口から4メートルしか離れていない。

本間たちは急いで真嶋と小田に追いつこうと発砲しながら走ってくる。SPは拳銃を取り出すと、テロリストの足を止めるために弾倉が空になるまで引き金を絞った。発砲されて本間たちテロリストは姿勢を低くすると、付近の遮蔽物に身を隠す。

その間に真嶋は新しい弾倉を拳銃に叩き込む。この際に彼は背後から迫ってくるエンジン音を耳にする。そして、それに続いて何かが激突する凄まじい音が狭い路地に響く。何事かと振り返ると、SPは乗り捨てられた複数の車を押しのけながら迫ってくる黒い大型車両を見つけた。その車は後退しながら、他の車を突き飛ばして小田と真嶋に迫っていた。

新手!!?

咄嗟にSPはその車両に向けて発砲する。しかし、車は停車する事も速度を落とす事もしなかった。拳銃の遊底が後退して弾切れを真嶋に報せる。急いで彼が再装填しようとした時、車が彼らの1メートル先で車体を横にして停車した。焦るあまりSPは新しい弾倉を地面に落とし、急いでそれを拾おうと動く。二人の前で停車した車の運転席から短機関銃を抱えた男が現れ、素早く銃を構えると本間たちテロリストに向けて射撃を開始した。

仲間?!

真嶋が混乱していると、彼の隣に短機関銃を抱えたショートヘアーの女性が並ぶ。

「あの車を使って逃げてください!」新村が銃声に負けないよう大きな声で言った。

「アンタたちは何者だ?」と射撃を続ける野村と新村を交互に見て真嶋が尋ねる。

「増援です!いいから、早く!!」そう言うと、新村は車の陰から身を乗り出してテロリストに向けて発砲する。

「ありがとう…」

SPは議員を連れてSUVに乗り込もうとする。しかし、議員は抵抗した。

「家族がまだ―」

「まずは議員の安全確保です。それから―」

「何をしてる!?」再装填する野村が真嶋を怒鳴りつけた。「早く逃げろッ!!」

 

 

 

野村と新村の介入によって、本間たちは足止めされた。そして、この状態は佐藤にとって好機であった。静止物ほど撃ちやすい物はない。中年男はスコープの十字を本間の頭部に合せ、伸ばしていた人差し指を引き金に掛ける。

あとは合図を待つだけ…

撃鉄を下ろす音が背後から聞こえてきた。佐藤はため息をついて引き金から指を離し、狙撃銃から顔を離す。

「両手を挙げて、その大きな銃から離れてくれないかな?」背後にいる男が言う。「ゆっくりね…」

「どうして、ここだと?」両手を肩の高さまで挙げると佐藤が尋ねる。彼はゆっくりと振り返り、声の正体を確認した。部屋の入口にはだぶだぶの服を着た男が立っている。距離は2メートル弱。

「ネットで付近の建物を確認したんだ。それでここが一番いい場所だと思った…」中島が笑みを浮かべて言った。SAT隊員は腰の位置で拳銃を構えている。

「面白い…」そう言いながら、中年男は一歩、中島に近づく。

「申し訳ないけど、じっとして欲しい。手荒な真似はオイラの趣味じゃない。」

「本当かな?」佐藤はまた一歩踏み出す。距離は約1.5メートル。

これを見ても中島は笑みを崩さない。佐藤はその笑みが優越から来るモノでなく、SAT隊員の戦術だと見抜いた。相手の緊張を解して投降するように促すのが目的だ。

「本気だけど…アンタにその気は無いみたいだね。」

中島が佐藤の脚を撃とうと銃口を動かした瞬間、狙撃手がSAT隊員に飛び掛かった。

 

 

 

閃光手榴弾が爆発する直前に西野は拳銃を拾い上げて外に飛び出した。彼は出てすぐの場所にあった車の陰から射撃している荒井の隣に移動し、周囲の状況を確認する。異常なし。西野は急いで拳銃をホルスターに戻し、MP-5Fに新しい弾倉を叩き込む。

形勢は逆転した。3人のテロリストは挟まれ、あとは時間の問題であった。しかし、彼らは無駄死にする気など一切ない。

いた!本間は小田完治の姿を確認した。議員はSPに連れられて車に乗り込もうとしている。激しい銃撃を受けながらも、女テロリストは鞄の中からプラスチック爆弾と信管を取り出した。急いで爆薬に信管を差し込もうとするも、被弾した右腕が震えて上手く行かない。

こんな時にッ!!

衝撃が胸部を襲い、彼女は爆弾を地面に落として背後にあった車に叩きつけられた。荒井の発砲した弾が命中したのだ。これに気付いた本間の仲間2人が立ち上がって背後へ集中砲火するも、野村と新村が2人のテロリストを沈黙させた。

やっと現場に静寂が訪れた。本間は胸の痛みに耐えながら、爆弾を拾い上げようとする。しかし、その直前で西野が爆弾を取り上げた。女テロリストは歯を剥き出してネズミ取りの捜査官を睨み付ける。

「もう終わりだ…」と西野。

奇妙な音が聞こえた。ガスが漏れるような奇妙な音であった。西野が音源へ顔を向けた瞬間、彼と荒井の背後にあった車が爆発して2人は地面に叩きつけられた。

遠くから見ていた野村と新村は爆発の原因を目撃していた。

ロケット弾。

それはホテル裏口の正面にある一方通行の道から飛んできた。

2人の捜査官が急いで西野を助けようと走り出すなり、ロケット弾が飛んできた道から2台の白いバンが出現した。バンから重装備の男が10人降りてきて、野村と新村に向けて発砲する。野村は急いで新村を引っ張って近くの遮蔽物に身を隠す。

一体、何人いるんだ!?

爆発の影響で意識が朦朧する中、西野は迫ってくる10人の男たちを見た。彼らは本間たちと違って短機関銃ではなく、火力の強い自動小銃を所持して顔は目出し帽で隠されている。

急いで動こうとするも、全身に激痛が走って捜査官は再び地面に崩れ落ちた。周囲に目を配る。右斜め前方に車を背にうな垂れている本間、左隣には地面に叩きつけられた衝撃で頭から血を流す荒井。西野は激痛に耐えながら、右手をゆっくりと拳銃のホルスターへ伸ばす。人差し指が拳銃に触れ、急いで銃把を握る。銃を引き抜こうとした時、何者かが捜査官の手を掴んで拳銃をもぎ取った。

西野から銃を奪った男は隣にいた長身の仲間に手渡し、受け取った男はその銃口を気絶している本間に向けて2度発砲する。頭部と胸部を撃たれた女テロリストは呆気なく死亡した。

次は自分の番だと思った西野は目を閉じて死を覚悟した。しかし、本間を撃った長身の男は西野の拳銃を自分のベルトに挟めると、胸ぐらを掴んで西野を引き寄せる。

「久しぶりだな、小林…」そう言うと、長身の男が目出し帽を脱いで素顔を見せた。男の額には小さな切り傷がある。「それとも…西野と呼ぶべきかな?」

男の顔を見た西野は驚きを隠せなかった。

「も、守谷……?」

 

 

 

 

 

 

 

 ご愛読ありがとうございました!

また来年!! 

 


返報 12-3 [返報]

12-3 

 

 

 

 「ちくしょう…」

 小声ではあったが、奥村は通路を隔てた机で作業している水谷の悪態を聞いた。あまりそう言う事を口にしない人物であったために奥村は少し驚いたが、すぐに手を付けていた作業に戻る。すると、水谷が机の引き出しから携帯電話取り出して席を立った。

 変だ…小太りの女性分析官は黒田へ報告しようと局内専用のテキスト通信を開く。下手に内線で話して誰かに聞かれた問題になると思ったからだ。

 「どうした?」水谷が彼女の背後から話し掛けてきた。

 奥村は驚いて心臓が止まりそうになった。振り返って同僚の目を見た後、「何でもありません」と彼女は答えた。

 「今はホテル襲撃の情報収取に徹して欲しい。数分前に偵察用の無人機が派遣されたから、すぐにその映像が来る。何か見つけたら、すぐに僕に教えてくれ。」

 「黒田さんじゃなく?」奥村が尋ねる。

 「まずは『僕』にしてくれ。」

 「分かりました…」

 

 

 

SP4人による一斉射撃で本間の右隣にいた男は喉と左腕に被弾して床に崩れ落ち、左端にいた女は右腕と防弾ベストで守られていた腹部に被弾した。

待ち伏せを予期してなかったテロリストたちは虚を突かれて一同は戸惑った。だが、本間は素早く思考を切り替えるとその場に伏せ、テーブルを盾に撃ってくるSPたちに向けて短機関銃を発砲した。彼女の動きを見て、それを真似する者もいれば、出入り口まで下がって身を隠す者もいた。テロリストの間に走っていた動揺は収まりつつあり、代わりに立ちはだかる邪魔者に対する殺意が高まった。テロリストたちは4人のSPに向けて弾倉が空になるまで引き金を引き続ける。

 一方、待ち伏せ攻撃が一定の功をなしたと思ったSPたちであったが、彼らはすぐ危機に直面した。SPたちが持つ予備弾倉は残り2本で、その内の1本は拳銃に収められようとしている。弾数で言えば、残り16発である。

 急いで再装填のためSPたちは動いたが、緊張のために手が震えて床に落としてしまう事もあった。いくらSPとしての経歴が長くても、銃撃戦の経験がほとんどない彼らにとって今の状況は悪夢でしかなかった。彼らの身を守るのは厚さ4センチに満たない円形テーブルと拳銃のみ。短機関銃と手榴弾による攻撃を受ければ、全滅は免れない状態である。そして、SPたちが恐れていたことが起きた。

 無数の銃弾がSPたちの隠れるテーブルを襲い、その陰に隠れていた4人全員が被弾した。この銃撃によって、円形テーブルには大小の穴が開けられ、テーブルの端々が部分的削り取られた。遮蔽物の損傷は酷かったが、幸い致命傷を負った者はいなかった。それでも腕や脚の被弾は死への恐怖を増幅させ、軽いパニックに陥った。遮蔽物の損傷具合からSPたちは反射的に伏せ撃ちの姿勢を取って発砲を続ける。

 テロリストたちは隙を見ては這って前進し、SP同様にテーブルや椅子を盾にして前線を広げた。こうすれば手榴弾を投げても爆風と破片から身を守る事ができる。

 残弾数を数えていなかったため、神崎は拳銃の遊底が後退すると予備弾倉を取るために手を伸ばす。最後の弾倉であり、あと8発しかない。それを拳銃に叩き込むと、ふと愛する妻の顔が脳裏に浮かんだ。子供には恵まれなかったが、神崎は別に気にしなかった。何よりも好きな人と一緒になれたことが嬉しかったのだ。

 銃を構えて再び発砲としようとした時、神崎の隣に何かが落ちてきた。深緑色の球体。彼は瞬時にその正体を理解した。

 逃げろ!

 本能が神崎にそう告げたが、彼はそれに抗った。神崎は急いで起き上がると、手榴弾の上に覆い被さった。

 

 

 

 黒田は受話器を元の位置に戻し、忙しなく働いている分析官たちに目を向ける。

 「最悪な日だな…」

 オフィスの外を見ると、二人の警備員が水谷の腕を掴んで椅子から立ち上がらせようとしていた。中年の分析官は抵抗したが、警備員の1人が水谷の右手を掴んで捻り上げると観念して大人しくなった。彼の同僚たちは何事かと作業を止め、水谷と警備員たちの動向を見守った。分析官を取り押さえる警備員は手錠を取り出し、水谷の両手首に付けると拘束室へ連行した。

 一部始終を見守っていた分析官たちは呆気に取られており、見かねた黒田が彼らを作業へ戻すためにオフィスから出てきた。

 「聞いてくれ!動揺しているだろうが、今は作業に戻ってくれ。すぐに無人機からの映像が来る。それを元に現場に派遣した捜査官たちを支援するんだ。」

 上司の言葉に疑問を抱きながらも、現在直面している危機に対処することが先だと思った分析官たちは渋々作業に戻る。

 黒田に水谷の事を報告した奥村はここまで早く事態が動くとは思っていなかった。

「一体、何があったんだろう?」小野田が奥村に尋ねる。

「分からない。油を売ってると、また黒田さんに起こられるよ。」

「そうだね…」

そう言うと、小野田は自分の作業に戻る振りをして西野たちの状況を見ようと、無人機の映像を一足先に確認する。しかし、映像は不鮮明で詳細が掴めなかった。

使えないなぁ…

一方、黒田は水谷が拘束されている部屋に入ろうとしていた。手錠で自由を拘束されている中年の分析官は混乱しており、上司を見るなり立ち上がる。

「どういう事ですか?」

「まずは座ってくれ。話しがあるんだ。」黒田は至って冷静であった。

「何ですか?」

「単刀直入に聞こう…」ここでネズミ取りの支局長は間を置いた。「お前の狙いは何だ?」

 

 

 

 上司が突然飛び上がって移動したと思ったら、その直後に鈍いボンっという音と共に彼の体が少し浮き上がった。他の3人のSPは神崎が身を挺して彼らを助けた事に気付いていなかった。

残された3人は弾が切れるまで撃ち続けた。そして、その時が来るとSPたちは絶望の淵に追いやられた。銃弾は底を着き、傷口からの出血は止まらない。彼らを待ち受けるのは死のみであった。

 SPからの銃撃が止むと、テロリストも撃つのを止めて警戒しながらSPたちが隠れているテーブルに近づく。SPの銃撃で無力化されたテロリストは1名、負傷者は2名出たがいずれも軽傷であった。

 本間が引っくり返されたテーブルの陰を見る。そこには怯える3人のSPがいた。

 「小田は?」と女テロリストが訊く。

 「言うと思うか、クソ―」

 SP1人が抵抗しようと動くが、本間に辿り着く前に頭部へ2発撃ちこまれた。

 「小田は?」本間は同じ質問を繰り返した。

 脚を被弾した女性SPは女テロリストを睨み付けて無言を貫き、もう一人の右腕を負傷した男性SPも同様に固く口を閉じている。

 「残念…」本間がMAC-10を持ち上げ、女性SPに向けて引き金を絞った。しかし、弾は出ず、本間は装填を忘れている事に気付いた。「忘れてた…」

 彼女が予備弾倉を短機関銃に叩き込むと銃声が聞こえ、右腕に激痛が走りMAC-10を床に落とした。女テロリストは額に青筋を浮かべて大ホールの出入り口を見た。そこにはMP-5を持つ西野がおり、彼は3人の仲間を連れている。広瀬、小木、そして、SAT隊員の荒井であった。

本間が急いで短機関銃を拾い上げようと動くなり、撃たれそうになっていた女性SPも短機関銃を取りに動いた。テロリストの手が銃把に触れるや否や、女性SPは本間の左手首を掴んで手前に引き寄せて左掌底を女テロリストの額に叩き込んだ。そして、本間が怯んだ隙に女性SPMAC-10をもぎ取る。彼女が短機関銃を構えようと動くと同時に、本間はベルトに挟めていた拳銃を取り出して素早く女性SPの胸に2発撃ちこんだ。撃たれたSPは後方へ倒れて床に叩きつけられた。その後、本間は最後に残った男性SPを見るなり、胸と頭に銃弾を叩き込む。

“諦めの悪い奴らだ…”そう思いながら、女テロリストは奪われた短機関銃を拾い上げて新手と戦うために動く。

 

 

西野たちは素早く二人一組になると左右に分かれ、テーブルと椅子を最大限利用してテロリストとの距離を詰めようと動いた。西野と広瀬は左、小木と荒井は右から攻めて行く。

捨て身と言える西野と広瀬の前進は素早く、小木と荒井はその速さに圧倒された。テーブルを引っくり返して遮蔽物を作るなり、西野は広瀬に援護を任せて次の遮蔽物を得るために前進する。二人は言葉を交わさなくても、互いにすべき事を理解していた。テロリストの銃弾が飛び交う中、西野は広瀬の援護を受けて別のテーブルを蹴り飛ばして引っくり返すと、広瀬と再び合流するために弾幕を張る。30秒の間に彼ら2メートル前進し、テロリストとの距離は約18メートルとなった。西野はもう2度前進する算段であり、広瀬もそう予想している。しかし、彼らとは対照的に小木と荒井は慎重に行動しているため、まだ最初の遮蔽物から動けずにいる。

凄ッ!西野と広瀬を見て荒井は思った。

再び前進しようとした西野であるが、鼻の先を銃弾がかすめて動くのを躊躇した。彼は気持ちを切り替えて右足に体重をかけて動こうとするも、広瀬に左肩を掴まれた。背後にいる仲間は首を横に振り、胸ポケットに差していたフラッシュバンを取る。広瀬は小木と荒井の位置とテロリストの弾幕の厚さからこのままの前進は難しいと判断したのだ。西野は同僚の判断に同意した。二人は床に伏せ、広瀬は安全ピンを抜くと大きく腕を振って閃光手榴弾をテロリストの方へ投げる。ネズミ取りの捜査官たちは投げ終えるなり、目を閉じて左耳を覆って爆発に備えた。

フラッシュバンがテロリストたちの左翼に落ちると、その近くにいた男性テロリストは悲鳴を上げて手榴弾から離れるために走り出す。その声に釣られて他のテロリストたちが視線を移動させ、走ってくる仲間の姿を確認するや否や眩いばかりの光が彼らの視野を奪い、続けて爆音が聴覚を奪った。

今だ!

西野と広瀬は同時に立ち上がり、テーブルの陰から飛び出すと閃光手榴弾で視覚と聴覚を失って立ち往生している3人のテロリストを発見した。迷う事無く、二人の捜査官は光学照準器付きのMP-5Fを構えて赤い小さな点を見つけたテロリストに合わせて引き金を素早く2度絞った。銃弾は吸い込まれるように狙った標的に命中し、二人のテロリストがほぼ同時に崩れ落ちる。西野と広瀬は同時に残った1人に標準を合わせて引き金を引いた。西野の放った弾はテロリストの首と顎に、広瀬のは男の胸に命中した。二人は3メートル程進むと、再び円形テーブルを引っくり返してその陰に隠れる。マガジンリリースボタンを押しながら、手首を回して二人の捜査官は短機関銃からまだ数発残った弾倉を吐き出させ、新しい弾倉を叩き込む。

その頃、仲間の前進を見て小木と荒井も発砲しながら大きく前進し、西野と広瀬と同じ位置でテーブルの陰に身を潜めた。彼らは再装填をせず、その場からテロリストの隠れるテーブルに向けて発砲を始める。

このままではダメだッ!!視力が戻ってきた本間は思った。残る仲間は4人。彼女は鞄から手榴弾を取り出し、銃弾が飛んでくる場所目がけて投げる。

手榴弾は小木と荒井が隠れるテーブルの前に落ち、再装填のために二人がテーブルの陰に隠れるとそれは爆発してテーブル諸共ネズミ取りの捜査官とSAT隊員を後方へ吹き飛ばした。テーブルが彼らを守って軽傷で済んだが、床に叩きつけられて素早く動ける状態ではなかった。

「本間さんは小田を追ってください!」彼女の隣にいた女性テロリストが言う。「ここは私に任せてください。」

しばらく考えて末、「お願いするわ…」と本間が答えた。そして、彼女は自分の短機関銃と手榴弾3つを仲間の女性に渡す。「また会いましょう。」

そう言い残して本間は近くにいた3人の男を率いて小田の後を追うために二手に分かれる。彼女と釣り目の男はSPと小田たちが使った非常口に、他の二人は正反対の非常口に向かって走り出した。

手榴弾で吹き飛ばされた小木と荒井は追撃を避けるため、仰向けの姿勢で射撃体勢を取って発砲する。走り出したテロリストたちはこの銃撃を受けると、速度を上げて目的の非常口へ急ぐ。

一方、装填を終えた西野と広瀬が遮蔽物から飛び出した。彼らは標的を見つけて求め、素早く視線を移動させる。二人は非常口へ走る本間たちを見つけたが、別の非常口へ向かった二人組に気付く事はなかった。これは右方向を小木と荒井に任せていたからである。

二人の捜査官は光学照準器の赤い小さな点を非常口へ走るテロリストの背中に合わせて引き金を絞る。しかし、銃弾は走っていたテロリストの肩をかすめただけであった。再び西野が狙いを定めて引き金を引こうとした時に視界の隅で何か動き、反射的にそちらへ銃口を向ける。彼の目に飛び込んできたのは2丁のMAC-10短機関銃を構える女テロリストであった。本間たちに気を取られていた広瀬はまだ逃げるテロリストに向け発砲を続けており、西野が遭遇したテロリストに気付いていない。

西野は2丁拳銃を持つテロリストに狙いを合わせる前から引き金を反射的に絞り、発砲しながら照準器の赤い点を標的に合わせようと動く。咄嗟の反応であり、西野は腰を右へ捻りながら銃を左斜めに構える形で撃ったために狙いが安定しなかった。それでもMP-5Fから放たれた9発の銃弾はテロリストの胸に命中し、2丁の短機関銃を発砲しながら女は後方へ倒れた。脅威を除去した西野であったが、彼も胸部と腹部に被弾して尻餅をついてしまった。

胸部を被弾した女テロリストであったが、防弾ベストに救われて軽い呼吸困難で済んだ。彼女は自決しようと、本間からもらった手榴弾を取り出して震える指で安全ピンを掴む。

これが私の最後か…

ピンを引く手が何者かに捕まれた。テロリストは驚いて手の主を見る。そこには死んだと思っていた女性SPがおり、右手には特殊警棒が握られている。テロリストは急いで安全ピンを抜こうとするも、女性SPの力は強くて抵抗することができない。死に物狂いでSPはテロリストの手首を捕まえ、特殊警棒を力一杯振り下ろして女テロリストの額を殴った。あまりの衝撃にテロリストは脳震盪を起こして気を失うも、それを知らないSPは追撃を加え、これに手応えを感じると素早くテロリストの手から手榴弾をもぎ取った。どっと安堵感が全身に広がって女性SPはその場で寝転がってしまった。

やった…

一方、テーブルの反対側で起きた戦闘を知らない西野は尻餅をついた状態で銃を構えて周囲を警戒した。テロリストが移動して別の場所から撃ってくるかもしれない、と判断しての行動であった。異常なし。

ふと彼は背後にいる広瀬に視線を向ける。そこには両膝を付いて喉元を両手で抑える同僚の姿があった。そして、喉を抑える手は血で染まっていた。

 

 

 

 

 最後の1人となったSPと民間の警備員10名に守られた小田完治とその家族が裏口へと続く搬入口に辿り着いた。そこは清掃やクリーニング店のバン、それにホテルの送迎ミニバスが並ぶ場所であり、ここに設置されている大きなシャッターの左端に職員専用の入り口がある。途中まで彼らの後に付いて来ていた人々は、別の通路を使っての脱出を試みてはぐれてしまった。

 「もうすぐです。」拳銃を胸の前で構えるSPの真嶋が真後ろにいる小田完治に言う。柴田がいない今、彼が唯一拳銃を携帯する者であった。他の民間の警備員は特殊警棒しか持っておらず、現在行動中の警備員の3人が折り畳み式の防弾盾が仕込まれた鞄を持っている。「この先にある非常口を抜ければ外に出られます。そこで―」

 その時、背後から銃声が聞こえてきた。素早く警備員の2人が防弾盾を展開させ、議員とその家族を守る態勢に入る。SPの真嶋は急いで外へ出ようと、議員の左手首を掴んで走り出す。ドアの前まで来ると、一度警護対象から手を離してドアノブを回して押し開ける。再び議員へ左手を伸ばそうとした時、真嶋は約3メートル先にMAC-10短機関銃を持つ男たちを見つけた。ざっと見ただけでもSP5人のテロリストを確認した。彼は急いでドアを閉め、ドアノブの真上に付いているサムターンを捻って鍵を閉めた。無意味な行為ではあったが、時間稼ぎにはなる。

 挟まれた!?真嶋は混乱した。“もうここに留まるし―”

 カランと床に何かが落ちる音が室内に響いた。

「伏せろー!!」

防弾盾を展開させた警備員の1人が叫び、その直後に爆発音と爆風が彼らを襲った。全員が同方向へ吹き飛ばされ、小田完治とその家族を庇った警備員3名が防弾盾の間を潜り抜けた手榴弾の破片で肩と腰、脚を負傷した。

爆発の衝撃で耳鳴りがしている真嶋は警護対象を守るため、小田完治の腕を掴んで停車してあった清掃屋のバンの陰に隠れようと動く。これによって議員は家族と離れてしまった。

「ま、待て!」小田完治が家族の事をSPに伝えようとするも、警護対象の保護に専念する真嶋は一切耳を貸さなかった。

そして、この混乱した様子をドア口で見ていた堀内は再び手榴弾を室内に放り投げた。爆弾は真嶋と小田が逃げ込んだバンの近くに落ち、SPは急いで議員と共に別のバンの陰への移動を始める。爆弾は彼らが動くと同時に爆発し、背中に爆風を受けて床に叩きつけられた。

「立ってください…」真嶋が倒れた小田完治の腕を引っ張って立ち上がらせる。「移動しないと…」議員の右腕を首に回し、SPは逃げ場のない場所でどうすべきか考えた。しかし、答えは見つからない。

「私は大丈夫だ。それより家族を…」小田がかすれそうな声で言った。爆発の影響で髪が乱れ、転んだ際に顔は埃で黒くなっていた。

「しかし、ぎ―」

二人の左隣にあったシャッターで爆発が起こり、その衝撃で真嶋と小田は2メートルも吹き飛ばされた。大きな穴がシャッターの中心に開き、そこを通って5人の男たちが室内に入って来た。

 「ご苦労さん!」室内に入って来た増援を見て堀内が言う。「さぁ、仕事を終わらせようか…」


返報 12-2 [返報]

12-2 

 

 

 

 「撃ち損ねたみたいだな…」西側を警戒していた男が言う。

 「仕方ねぇだろ!」仲間の言葉に気分を害して東を警戒する男が怒鳴った。

 二人は3人のSAT隊員による射撃を受けて身動きが取れずにいる。SATの弾幕は作戦通り、テロリストの注意を引く事に成功したのだ。

 「このままでは側面に回られるだろう…」西を警戒する男はSATの動きを予想して言った。「お前はここでグレネードを撃ちまくれ。俺の弾をやる。」男はグレネードの弾薬ベルトを仲間に渡し、地面に置いていたボストンバッグからMac-10短機関銃とその予備弾倉5つを取り出して鞄を担ぐ。

 「お前は?」と東を警戒する男。

 「俺は前進して防衛線を広げる。」

 「分かった…」

 東を警戒する男は身を乗り出してグレネードランチャーを発砲し、それと同時に彼の仲間は柱の反対側から中腰で飛び出すと、近くにあった遮蔽物に向かって走り出した。

 グレネードは弾幕を張っているSAT隊員たちの6メートル程離れた場所に着弾し、3人の内1人が爆風を直接受けて転ぶも、他の2人は運良く遮蔽物に守られて爆風の直撃を免れていた。

 「大丈夫か?」近くにいた岩井が倒れた飯尾の片腕を掴んで立ち上がらせる。その間、後藤は弾倉が空になるまで引き金を引き続け、仲間が立ち上がるまで弾幕張りを一人で行った。岩井と飯尾は立ち上がると、後藤の肩を軽く叩いて次の遮蔽物への移動を促す。合図を受けると、後藤は撃ち止めて移動しながら弾倉を交換した。

 3人が車の陰に隠れた時、グレネードが3メートル後方に落ち、爆発の衝撃に押されて彼らは車体に叩きつけられた。

 「距離を縮めるぞ!」体勢を立て直して岩井が叫ぶ。近づけばテロリストもグレネードの使用を躊躇する可能性もあり、MP-5の特性を生かすためには距離を縮める必要があるからだ。「俺が先行する!」そう言うと、岩井は車寄せに向けて発砲しながら別の遮蔽物へ移動する。彼に続いて飯尾、そして、後藤の順に移動が始まった。しかし、彼らの進もうとしている道の先で西を警戒していたテロリストが、プラスチック爆薬を置き去りにされた車の一つに仕掛けていることなど知らなかった。

 一方、グレネードを装填中の東を警戒する男は視界の隅で動く何かに気付いた。それは3人のSAT隊員であり、距離は20メートルもない。テロリストはグレネードランチャーを走るSAT隊員たちに向け、彼らの動く早さと距離を読む。

喰らえ!男はゆっくりと引き金を絞った。

 

 

 

 病院の裏口から外へ出るなり、野村と中島の前に黒いSUVが現れた。テロリストを警戒する2人は拳銃を取り出して車に向ける。しかし、車から降りてきた人物を見て野村と中島は同時に拳銃を下ろした。

 「新村?」銃をホルスターに戻しながら野村が言った。

 「何で電話に出ないですか?」新人女性捜査官が野村と中島に近づく。

 「これから支局に戻るところだった…」と野村。

 「まだ戻れそうにありません。グランドホテルが襲撃を受けていて、道警から応援要請が出ているんです!ここに来たのは、野村さんに現場へ向かって欲しいからです。」

 「誰の仕業ですか?」中島が新村に尋ねる。

 しかし、中島の顔を憶えていなかった女性捜査官はSAT隊員が会話に入ってきて驚き、露骨に嫌悪感を露わにした。「あなたは誰ですか?」

 「SATの中島です。」

 「何でSATが―」

 「口に気を付けろ、新村。」野村が2人の会話に割って入る。「この人はお前と小田菜月を救出する際に協力してくれた人だ。」

 先輩の予期せぬ言葉に新村はたじろぎ、「すみません」と頭を下げた。

 「そんな事より、襲撃は誰の仕業なんです?」と中島が再び問いかけた。

 「詳細は不明ですが、小田完治議員の事務所を襲撃した同じグループだと推定しています。」

 「なるほど…」SAT隊員は女性捜査官から視線を逸らして腕を組んだ。

 「応援に行くのは構わないが、装備を整えないと行きたくても行けないだろう…」拳銃が収められているホルスターを叩いて野村が言う。「少なくとも拳銃だけじゃ―」

 「だから来たんですよ!」新村はSUVのトランクを開け、弾倉が差し込まれていないMP-5Kを野村に渡す。「私の仕事は装備を届け、現場の状況を報告する事なんです!」

 「そういう事ね…」納得すると野村はトランクに近づき、弾倉を探し始める。「中島さんも来てくれますか?」

 「もちろん!」とSAT隊員。

 「でしたら…」短機関銃に弾倉を装填し、野村はそれを中島に渡そうと近づく。

しかし、中島はそれを拒否してこう言った。「ノートパソコンってあります?」

 

 

 

 テロリストの側面へと移動していた近藤、藤田、荒井であったが、ホテルの車寄せとの距離が20メートルと迫った時にグレードの攻撃を受けた。それは荒井の2メートル前にあった乗用車に命中し、SAT隊員たちは爆風で後ろに吹き飛ばれる。敵に居場所が発覚した事を知るなり、3人は散開した。三手に分かれて動くことで、テロリストを動揺させることができる。

 散開したと言っても、近藤は予想外の行動を取っていた。彼はテロリストに向かって真っすぐ走り出したのだ。近藤自身も一瞬、自分の行動に戸惑うもすぐに思考を切り替えて短機関銃を発砲しながら前進する。

 “良い的だ…”東を警戒するテロリストはグレネードの再装填を終えると、再びグレネードランチャーを近藤に向けた。

 その時、何かが彼の足元に落ちた。心臓が縮み上がるような思いを感じながら、男が足元を見るとそこには見覚えのある細長い物体があった。

 “手榴弾!!?”

テロリストが逃げようと動こうとした直前、彼の足元に落ちた閃光手榴弾が破裂した。

 

 

 

仲間の元へ戻ろうと這って移動していたもう一人のテロリストは、グレードとは違う爆発音を聞いて焦りを感じた。そして、愚かにも彼は立ち上がってしまった。

“いた!”

予期せぬ遭遇ではあったが、援護射撃に徹していた3人のSAT隊員たちは4メートル先に突然現れたテロリストを見つけた。先頭を走る岩井は短機関銃に取り付けられたダットサイトを覗き込み、小さな赤い点を逃げるテロリストの背中に合わせて引き金を二度引いた。彼に続いて背後にいた飯尾も同じくテロリストに向けて発砲する。走りながらの射撃であったが、2つのMP-5から放たれた銃弾は狙い通り逃げるテロリストの背中に命中し、被弾した男は勢い良く地面に転んだ。

“クソッタレがッ!!”防弾ベストで死は免れたが、それでも男は背中に走る痛みと不意を突かれた事に苛立った。テロリストは仰向けになり、我武者羅に自分を撃ったSATがいる方へ短機関銃を向けて発砲する。しかし、3人のSAT隊員は素早く近くにあった乗用車の陰に身を隠して難を逃れた。

テロリストの持つMAC-10短機関銃が弾倉の銃弾が全て喰い尽くした。男は急いで予備弾倉を取り出そうと動くも、彼は考え直して上着のポケットから起爆装置を取り出した。先ほど仕掛けた爆弾との距離は3メートル弱しかなく、彼と爆弾の間に遮蔽物はない。SATとの正確距離も分からず、爆破しても道連れにできる可能性は低い。それでもテロリストは小さな望みを持って起爆装置のレバーを引いた。

凄まじい爆音と衝撃が発生し、テロリストは爆発によって生じた火に飲み込まれて即死した。一方、SAT隊員たちは不運にも爆薬が仕掛けられていた車の陰に隠れていたため、爆発と同時に吹き飛ばされていた。

 

 

 

藤田の投げた閃光手榴弾が破裂した時、反射的に東を警戒しているテロリストはグレネードランチャーの引き金を引いていた。グレネードは弧を描きながら、彼に近づく近藤の左横に着弾してSAT隊員を右へ吹き飛ばした。幸い、軽傷で済んだものの耳鳴りが酷く、そして、全身に激痛が走ってとても立ち上がることができなかった。

仲間が死んだと思った藤田と荒井は頭が真っ白になり、気付くと叫びながらテロリストに向かって走り出していた。そして、目的の人物を見つけるや否や短機関銃を構えて発砲する。車寄せで悶えているテロリストは撃たれていることに気付くと、急いでMAC-10を取り出して視力が回復するまで我武者羅に撃ち続けた。双方とも撃ち続けても滑稽なほどに命中せず、距離はもう6メートル弱になっていた。

「クソがッ!!!」視界が明るくなってくると、テロリストは手榴弾を向かってくる藤田に向けて投げつけた。彼はもう一人の隊員の存在をすっかり忘れており、手榴弾を投げるなり短機関銃の再装填を始める。

手榴弾を投げられても、藤田は狼狽えずに逆にそれをテロリストに向けて蹴り返した。爆弾は空中で破裂し、テロリストは驚いたがすぐ藤田に向けて発砲する。その間に荒井が立ち止まり、テロリストにダットサイトの赤い点を合わせて引き金を引く。銃弾は男の右肩に命中してテロリストは発砲していたMAC-10を落した。しかし、その前にテロリストの放った複数の銃弾が藤田の胸と左腕に叩き込まれ、被弾したSAT隊員は後方へ倒れ込んだ。

荒井がもう一度引き金を引くも、既にテロリストが地面に伏せた後であった。SAT隊員は急いで車寄せへと走り、そして、後悔した。

地面に横たわるテロリストは左手に銃を持ち替えて荒井を待ち伏せていた。SAT隊員を見るなり、男はニヤリと笑って引き金を絞る。短機関銃の銃口からパッと火が出ると、荒井の防弾ベストで守られた胸に衝撃が走る。彼は倒れながらも、MP-5を発砲してテロリストの排除を試みた。

その時、彼は奇妙な経験をした。後方へ倒れる最中、全てがスローモーションのように見えたのだ。銃弾の発射から着弾まで面白いほどはっきり確認することができ、これで確実に仕留める事ができると思った。狙いは定めず、着弾点を基に銃口を動かして引き金を引く。しかし、体がいうことを聞かず、上手く銃口をテロリストに向けることもできず、引き金を引く指も言う事を聞かない。

荒井の人差し指がようやく引き金を絞り終えようとした時、右隣から銃声が聞こえてテロリストの頭が吹き飛んだ。標的の死と同時にスローモーションが解け、荒井は地面に転げ落ちた。

“やった…”SAT隊員は自分が仕留めたと思い込んだ。

すると、彼の前に肩で息をしている男が目に入った。荒井は急いで銃を持ち上げようとしたが、現れた男の顔を確認すると動くのを止めた。

「遅くなった…」西野が呼吸を整えながら言う。「あとは任せろ。」

 

 

 

 銃撃が始まると同時に小田完治とその家族は、SPたちに連れられて非常口のドアを通り抜けた。彼らは逃げ惑う人々に揉まれながら廊下を進み、議員を警護する者たちは警護対象を囲むように形になって前方と後方に注意深く視線を送る。

 10メートル程進むと、先頭を進むSPの柴田が女性の悲鳴を聞いた。悲鳴は後方からではなく、前方から聞こえてきた。そして、悲鳴に続いて断続的な銃声が廊下に響く。

 「何事だ?」小田完治が柴田に尋ねる。

 「分かりません。」そう答えながら、柴田は拳銃を取り出した。

 次第に銃声が前方から近づき、彼らの前を歩いていた人々が踵返し始めて警護要員と議員家族は押し潰されそうになる。そうこうしている内に銃声は近づき、その影響で聴覚にも影響が出始めた。

 裏口からも!!?決断を迫られて柴田は周囲を見渡す。突破口を見つけ―

 そして、彼は左3メートル後方にあるホテル職員専用のドアを見つけた。

 「ドアだ!あのドアを使うぞ!!」柴田は後方にいる仲間に向かって声を張り上げた。混沌の中で彼は無線機の存在を忘れていた。または聴覚が鈍くなっている状態でそれを使うのは無駄だと思ったのかもしれない。いずれにせよ、彼の仲間は素早く柴田が見つけたドアの蹴破ると議員とその家族を連れて廊下から避難する。それを見た他の避難者もそのドアを使って新たな避難経路を進み始めた。

 彼らが進む道は一面白の質素な通路であり、所々に清掃用のカートや洗濯物回収カートが置かれていた。慎重に一行は出口へと進み、先頭から殿となった柴田は後方に気を配りながら腰の位置で銃を構える。一度前方へ視線を向けようとした時、背後から爆発音が聞こえてきた。柴田は素早く後方へ向き直り、状況を把握しようと動く。そこで彼が目にしたのは、血で真っ赤に染まった壁と血の海に転がる死体と負傷して助けを求める人々であった。

初めて目にした凄惨な光景に恐怖し、柴田は二つ目のグレネードへの反応が遅れた。彼が我に返って背後にいる仲間と警護対象者に警告を送ろうした時、グレネードが爆発して負傷して人々の命を奪うと同時に彼らと既に死亡していた人々の血と肉片が廊下に飛び散った。血を体に浴びながら柴田は爆風で後方に飛ばされる。

一方、小田完治とその家族を護衛するSPと民間の警備員たちは警護対象の姿勢を低くさせ、他の避難者と一緒に脅威から逃げようと走り出した。

手榴弾の爆音で意識が朦朧とした柴田は壁に寄り掛かりながら立ち上がった。すると、左脚に衝撃と激痛が訪れ、その場で転んでしまった。あまりの激痛にSPは拳銃を手放し、両手で激痛が走る脚を押さえる。

死体で埋め尽くされた廊下を悠々と歩いて、ボストンバッグと短機関銃を持つ堀内は被弾して丸くなっている柴田に近づいた。テロリストは彼の前にしゃがみ込むと、MP-5Kの銃口をSPの右肩に押し付けて引き金を絞った。撃たれた柴田は悲鳴を上げ、傷口から広がる激痛で気が遠退きそうになる。

「西野は何所だ?」銃声で聴覚が鈍感になっている堀内が、もがき苦しんでいるSPに大声で問いかけた。「一緒じゃないのか?」

しかし、テロリストの問いが理解できない柴田はただただ目の前にいる男を見る事しかできない。

「知らないのか…」そう言うと、堀内はボストンバッグから手榴弾を取り出した。「お土産だ。」

「やめ―」柴田が手榴弾を掴もうと手を伸ばす。

銃声が再び狭い廊下に響いた。SPは泣きながら喉から血を流し、その出血によって呼吸が困難になる。

「情けない奴だねぇ~」

そう言い残して、堀内は自分の血で溺れ死にそうになっているSPを尻目に小田完治の後を追った。


返報 12-1 [返報]

12-1 

 

 

 

 最初の爆発音を耳にしても、朝食会の参加者たちは気にも留めなかった。しかし、二度目の爆発音とSP4人が小田完治とその家族がいるステージに駆け上がる所を見て、次第に自分たちの置かれている状況に気付き始めた。それでも大半の人々は「自分たちが被害に遭うことはない」と思い込んでいた。爆発は外で起こり、ホテル内にまで被害は及ばないとの考えがあったからだ。

 SPは小田議員とその家族を連れて退避しようと、脱出ルートとして確保済みの裏口にいる民間の警備員へ無線連絡を試みる。確認も取らずに裏口へ走って待ち伏せを受けては話しにならない。

 「こちら、神崎。裏口の状況は?」小田完治の横にいるSPが袖の裏側にあるマイクに向かって言う。SP4人は小田一家を囲むような態勢で周囲に目を配る。彼らの4メートル先には第二の予防線として、SP2人と民間の警備員2人がステージの手前で周辺警戒を行っていた。

 無線連絡を行った神崎は仲間からの応答を待っていたが、返事は全く帰って来なかった。

 「何事だ?」神崎の後ろにいた小田完治が尋ねる。彼とその家族は酷く怯えており、特に娘の菜月は母親にしがみ付いていた。

 「まだ状況が掴めていませんが、外で何者かが発砲している模様です。」

 「何者だ?同じ連中なのか?私の事務所を襲撃した連中なのか?」

 「まだ分かりません!」神崎は苛立ちを露わにしてしまった。裏口を警護しているはずの仲間と連絡も取れず、攻撃がホテル内に及ぶ可能性もあるために動揺しているのだ。

 「どうして逃げないの!」小田議員の妻が叫んだ。「娘が怖がってるのに!!」

 怖いのはこっちも同じだ!神崎は冷静さを取り戻すため、一度深呼吸する。そして、彼は再び裏口を警備している仲間に対して同じ確認を行う。

「神崎だ。裏口の状況は?」

しかし、応答はなかった。

ホール内には不穏な空気が漂っている。人々はどうするべきか考えているのだ。留まるべきか、逃げるべきか。

突然、1階からガラスの砕ける音と悲鳴が聞こえてきた。そして、これが混乱の引き金になった。ホールにいた人々は我先にと出入り口へ走り出し、室内は怒号と悲鳴で埋め尽くされた。急いで逃げようと、前にいる人を押し付ける者、慌てて転んだ挙句に踏まれる者も少なくなかった。ホール内にいる人々が全ての出入り口に押しかけ、SPが予定していた緊急避難経路が塞がれてしまった。

「神崎さん。」潰れた鼻が特徴的な柴田が呼びかける。「どうするんですか?」

思い詰めた表情を浮かべる神崎は下唇を噛むと、改めてホール内を見渡した。彼の頭にある案は一つしかなかった。

 

 

 

ガラスドアを突き破ってホテル内に侵入すると、バスの運転手はドアを開けて仲間を外へ送り出す。最初の一人は降りるなり、近くで無線連絡を取っていた警備員の一人を短機関銃で撃ち殺し、続くテロリストたちも警備員や逃げ惑う人々に向けて発砲した。

警備員の排除を確認すると8人のテロリストたちは発砲を止め、遮蔽物に身を潜めていた本間が部下たちに近づく。彼女を確認すると、メンバーの一人が装備の入ったメッセンジャーバッグを本間に渡す。女テロリストは鞄からMAC-10短機関銃を取り出すと遊底を引き、2階大ホールへと続くエスカレーターに向かって歩き出した。

エスカレーターには我先にと逃げようとする人々で溢れていたが、テロリストたちの姿を見るなり急いで大ホールへ踵を返した。

テロリストたちは鞄から手榴弾を取り出し、エスカレーターを駆け上がって逃げる人々の中へ放り投げた。計9つの手榴弾が逃げる人々の足元に落ち、爆発音と共に悲鳴、血、そして、肉片を周囲に飛び散らせた。テロリストたちは前進しながら、再び手榴弾を投げる。今回はエスカレーター上で立ち往生する人々の足元に落ちて爆発した。

恐怖に震える人々は早くホールの中に逃げ込みたかったが、状況を知らない人々はホールへ戻って来た人たちを押し返そうとして揉み合っている。

そうこうしている内に、エスカレーターで倒れる人々を踏み越えてテロリストたちは2階に到着した。入り口で揉み合っていた人々は、武装したテロリストを見た瞬間に悲鳴と怒号を上げて一斉にホール内へ急ぐ。だが、あまりにも遅かった。本間を含めたテロリスト9人はホールに向かって前進しながら、逃げる人々に向けて短機関銃を発砲した。

 

 

 

「クソッ!」

黒田が怒鳴り、近くにいた分析官たちは驚いて上司を見た。彼らは堀内の車を見つけたと思ったが、案の定、テロリストが乗り捨てた後であった。

「衛星と現場付近の監視カメラを使って堀内を探すんだ!」彼はたまたま視界に入った分析官の奥村に指示を出す。黒田は視線を横に動かし、次に見つけたポニーテルの女性分析官に対して「君は現場に向かった捜査官の支援だ。車に何か残っているかもしれない。」

再びネズミ取りの支局長が分析官に指示を出そうとした時、奥村が黒田の横に並んで電話子機を渡す。「道警の本部長です。」

苛立ちながら黒田が電話を受け取る。「黒田です。」

「最悪の事態だ。小田完治議員が滞在しているホテルが攻撃を受けている。」

ネズミ取りの支局長は自分の耳を疑った。「何?」

「議員滞在中のホテルがテロリストに攻撃されている。君の所から何人か応援に出してもらえないか?こちらでは手に負えん!」

待てよ…黒田は考えた。堀内の逮捕は、テロリストの計画の一部だったのか?陽動だったのか?

「聞いてるのか?」電話をかけてきた北海道警察の本部長が問いかけた。

「あぁ。すぐに送る。」

「助かるよ、黒田。」

電話を切ると、ネズミ取りの支局長は既に机に戻っていた奥村に電話子機を渡す。そして、彼女に「今、現場に出ている捜査官は何人いる?」と尋ねた。

「9人です。」パソコンモニター派遣中の捜査官リストを表示させて奥村が言った。

「その内、武装しているのは?」

「3人です。野村さん、森口さん、工藤さんです。」

「彼らをグランドホテルに派遣しろ。また、手の空いてる捜査官にも武器を持たせてホテルに派遣してくれ。」

「分かりました。」そう言うと、奥村は固定電話の受話器を持ち上げて三名の捜査官たちに電話をかけ始める。

その一方、黒田は早足で西野がいる拘束室へ向かった。“問いたださなければ!西野はこの攻撃を知っていたかもしれない…”

「西野ッ!」拘束室に入るなり、黒田が怒鳴る。しかし、室内は無人であった。

 

 

 

 弾がぎっしり詰まった弾倉をMP-5Fに叩き込むと、西野は遊底を引いて薬室に初弾を送り込む。彼は小木が運転する白いSUVの後部座席で装備を整えている。前の座席に座る二人は既に準備を整えており、あとは西野の準備を待つだけであった。

 短機関銃を横の席に置くと、西野は隙間が開かないように防弾ベストの状態を確認し、次に腹部のポケットに差し込んであるMP-5用の弾倉3つを触れる。また、彼は右腰のホルスターに収められた拳銃USPと反対側のホルスターに差し込まれている拳銃用の予備弾倉2つも抜かりなく確認した。

「あと4分で到着する。」小木がルームミラー越しに西野を見て言った。

「準備はどうだ?」広瀬が後部座席の同僚を見る。

「いつでも行ける…」短機関銃のスリングに頭と右腕を通しながら西野が答えた。「二人はいいのか?下手したらクビだぞ。」

「昇進はもう諦めてるよ…」と広瀬。

「ここまで来たら、もう無理でしょ。」小木は広瀬に倣ってこのように言ったが、実際は支部で報告書を書く方がマシだと思っていた。しかし、小野田の説得に負けてグランドホテルに向かっている。

彼らを乗せたSUVはホテルから1キロ離れた場所で渋滞に遭遇した。パトカー、消防車、救急車のサイレン音、車のクラックション、動かない車列に苛立って怒鳴る人々の声が道路に響いている。

「どうやら、小野田の読みは正しかったようだな。」広瀬が周囲の状況を見て呟いた。

「どうする?」小木は渋滞に感謝していた。撃ち合わずに済むかもしれない、と思ったのだ。

後部座席のドアを開き、西野が外に飛び出した。

「ちょ―、おい!」小木の呼びかけも空しく、西野は短機関銃を抱えながらホテルに向かって走って行った。そして、間を置かずに広瀬も車を降りて西野の後を追う。

「ったく!」小木はエンジンを切ると、MP-5Fを持って二人に追いつこうと走り出した。

 

 

 

 グレネードランチャーを持った男2人は、車寄せの柱に身を隠しながら周囲に目を配っている。ホテル前の道路は破壊された車と置き去りにされた車で溢れている状態であった。その中、東を警戒していた男は接近してくる黒いバンを見つけた。距離は約70メートル。

 「あれってSATか?」男が西側を警戒する仲間に尋ねた。

「関係ない。近づいて来るものは全て撃て…」

「あいよ。」男は近づいてくるSATのバンに向け、グレネードランチャーの引き金を引く。

発砲した男は直撃と予想したが、グレネードはバンの手前に着弾した。直撃こそしなかったが、爆発の衝撃と爆風によってバンは横転した。

「クソッ!」男は急いで再装填を行うため、空薬莢をランチャーから排出する。

すると、寄り掛かっていた柱に何かが当たり、その表面が削れて男の顔に破片が飛び散った。何事かと顔を上げると、横転したバンの運転席から身を乗り出して発砲する一人のSAT隊員を見つけた。男は素早く柱の陰に身を隠す。

「外したのか?」西を警戒する男が嘲るように言う。

「問題ない。次の一撃で終わりさ…」

 運転席から身を乗り出して発砲するSAT隊員は、仲間が車から出るまでの足止めに徹するしかなかった。徒歩でも駆けつけられる距離ではあったが、時間を節約するために車を使用し、案の定、テロリストに発見されて窮地にある。

他のSAT隊員たちは急いで後ろドアを開けて外に出る。初めに降りた隊員は素早くバンを縦にして、車寄せにいるテロリストに向けて発砲を開始した。次に二番目に降りた隊員はスモークグレネードを7メートル先へ投げ煙幕を張る。他の隊員たちは周辺警戒をしながらバンを離れ、適当な遮蔽物に隠れて威嚇射撃を行う。その間に運転席から発砲していた隊員がバンの中を通って車を降りる。降りる際、彼はバンの陰で威嚇射撃をする隊員の肩を叩き、二人は素早くバンから離れて仲間と合流する。

バンから離れて安全を確保すると、彼らは射撃を止めて素早く再装填を行う。

この時、好機を逃すまいと東を警戒していたテロリストがバンに向けてグレネードをお見舞いしようとした。しかし、彼が柱から身を乗り出した時、煙がバンとSAT隊員たちの姿を隠していた。男は記憶を頼りに引き金を引こうとしたが、残りの弾数を考えて人差し指の力を抜く。

「どうした?」なかなか発砲しない仲間を心配し、西を警戒しているテロリストが尋ねた。

「いや、何でもない…」

合流したSAT隊員たちは二手に分かれる事にした。

「後藤、飯尾、岩井は車寄せに対して威嚇射撃。俺と藤田、荒井はテロリストの側面に移動し、奴らを排除する。」隊長の近藤が指示を出す。「既にテロリストがホテル内に侵入している。素早く動くぞ!」

指示を聞いた隊員たちは首を縦に振り、それぞれ与えられた役割を果たすために動き出した。

 

 

 

 「無謀ですよ!」柴田が思わず大声を上げた。

 「時間がない。」と神崎が言う。「いずれにせよ、これが思いつく最善の策だ。」

 同僚との会話を終わらせると、警備責任者の神崎は後ろにいる小田完治を見る。

「これからの動きについて簡潔に述べます。」

議員が静かに頷く。

SPとボディーガードと共に非常口を使って裏口へ向かって頂きます。」ホールの出入り口から迫ってくる断続的な銃声に注意しながら神崎が言う。

「しかし―」

「何でもいいから早くしてちょうだい!」議員が口を開こうとした時、娘を抱きかかえる議員夫人の恵子が黄色い声を上げた。

「分かりました。これからSP2人とボディーガード10名で議員とご家族を裏口までご案内致します。」

「残り4人は?」議員が尋ねる。4人とはSPのことである。会場には合計で6人のSPがいる。

「ここに残ります。」

「つまり―」

「柴田!お前が先導だ。議員とご家族を裏口へ!」小田完治を遮って、神崎はステージを降りる。他のホールに残る事を決めたSP3名も上司に倣ってステージから降りた。

柴田というSPは同僚らと共に小田議員とその家族を立たせ、比較的混んでいない非常口に向かって走り出した。

銃声は着々とホールに近づいてくる。それから逃げるように人々がホールへ逃げ込み、そして、別の非常口に向かって走る。彼らを横目に4人のSPはそれぞれステージの近くにあった円形テーブルをひっくり返し、その陰に隠れるとホルスターからSIG P230JP拳銃を抜き取った。ほとんど意味のない遮蔽物であるが、無いよりはマシだと彼らは思った。

「付き合せてすまない。」神崎が部下に向かって言う。

しかし、部下たちの顔は強張っており、上司の声は届いてなかった。拳銃を握る手が震える者、安全装置を外し忘れている者もいた。

短機関銃の銃声がより鮮明になり、彼らはテロリストがホール入り口に到達したと悟る。SPたちは銃を構えながら立ち上がり、ホール入り口にいた9人のテロリストを発見した。距離は約25メートル。4人のSPはテロリストに狙いだを定めて一斉に引き金を絞った。


返報 11-4 [返報]

11-4

 

 

 

 家族の待つ部屋に着くなり、小田完治は妻・恵子の黄色い声を耳にして驚いた。議員は何事かと思って妻の所へ急ぐ。

 「何があった?」と議員が妻に問う。

 SPの一人に向かって叫んでいた恵子は夫の声を聞くと、早足で完治に近づく。「あなた!朝食会が中止ってホントなの!?」

 新たなテロリストによる襲撃を予想していた小田完治は妻の問いに一瞬固まってしまった。

 「あなた?聞いてるの?」畳み掛けるように恵子が尋ねる。

 「聞いてるよ。朝食会が中止になるんだろう?それより菜月は?遼は?」

 「二人とも寝てるわ!それより朝食会よぉ!!この日のために選んだ服があるし、みんなもあなたを待っているのよ!」

 小田は子供たちの身が安全であることを知るなり、妻の他の言葉を聞こうとはしなかった。逃走中のテロリストもいるので、朝食会を開けばまた襲われるかもしれない。

 「議員…」秘書の桐原が議員の耳元で囁く。「党本部からお電話です。」

 「分かった。」秘書に向かってそう言うと、小田完治は妻の肩に両手を乗せる。「電話が入った。続きはそのあと話そう。」

 恵子は不満そうな顔を浮かべてソファーに腰掛け、テレビのニュースに何気なく視線を送る。

 一方の議員は桐原が持ってきた携帯電話を使って党本部と電話する。電話の主は幹事長であった。

 「小田君、大変だったね。」

 「色々とご迷惑をおかけしました。」話しをしながら小田完治は静かな部屋に移動する。

 「要件何だがね…」

 小田は幹事長の言葉に耳を疑ったが、それでも彼の主張に同調できる点もあり、渋々小田完治は幹事長からの提案を受け入れた。

 「何の電話だったの?」電話を終えた夫に向かって恵子が言った。

 「朝食会が開かれることになった。」

 これを聞いた議員夫人は飛び上がった。「本当に?」

 「あぁ。本当だよ…」

 喜ぶ妻と違い、小田は複雑な心境であった。

 

 

 

 ネズミ取りの建物から出ると、堀内は右耳から聞こえてくる指示に従って走り出す。

彼の協力者は逃走用の車を用意しており、堀内はそれを入手して追手から逃げ切らないといけない。ふとテロリストが振り向くと走ってくる3人の男が見えた。

 「追手に構うな」堀内の耳に合成音声が入ってきた。

 テロリストはそれに従って走り続ける。指示通り150m先の交差点を曲がり、そして、10m先にある月極駐車場を見つけた。急いで駐車場に入ると背後から「動くな!」と怒鳴り声が聞こえてきた。反射的に堀内は声がした方へ発砲しながら、駐車してあった白いセダンの左前輪の上に置かれていた鍵を手に取る。

 「クソッタレめッ!!」広瀬は武田衛のアジトを襲撃した際に被弾した脚を庇いながら堀内との距離を詰めようと動き出し、彼の援護をする2人の捜査官たちも同様に拳銃を構えながら前進する。

 この間に堀内は車に乗り込み、エンジンをかけると素早くギアを入れて脱出を試みる。拘束が難しいと感じた広瀬と捜査官たちは走り出した車に向けて弾丸が尽きるまで引き金を引き続けた。しかし、身を屈めながら運転する堀内に銃弾は当たらず、フロントガラスに無数の銃痕を残しただけであった。白い車は何事も無かったかのように広瀬たちの前から走り去った。

 広瀬は急いで携帯電話を取り出して支部に電話する。

 「はい?」電話に出たのは分析官の小野田であった。

 「堀内に逃げられた。車のナンバーは分かっている。」

 「教えてください。」

 広瀬は見た番号を小野田に伝え、分析官は車の現在地を探し始めた。

 

 

 

 「本題?」中島がオウム返しに尋ねる。

 「そうです。本題ですよ。何故、あなたは狙われているのか?」そう言い終えると、藤木は首を傾げて左上を見上げる。「いや、狙われていたのか?が正しいですかね?」

 「何の違いがあるんだ?」

 「現在形と過去形ですよ。」

 中島は溜め息をついて気絶している元SAT隊員を見る。「後藤田は何故俺を殺そうとしたんだ?」

 「単刀直入に言うと、官房長官の依頼です。」藤木はあっさりと言った。「憶えてますか?中島さんが緊急会議室に乗り込む前に病院送りにしたすごーく期待されてた男のことを…」

 SAT隊員はしばらく考えたが、思い出せず首を横に振った。

「でしょうね。」藤木はニヤリと笑う。「実はその男、官房長官の甥っ子だったんですよ。中島さんが彼をボコって以来、官房長官は中島さんのことが大嫌いだそうで…マヌケな話しですが、今回の事件を機にあなたを消そうと考えたようです。」

「へぇ~。」中島は全く興味がない様子であった。「それより俺の後ろにいる奴は、いつになったら出てくるんだ?」振り返らずに右親指を後方へ向けて中島が言う。

「気付いてました?」ワザとらしく藤木が言う。「もう出て来てもいいよ、小川ちゃん!」

すると、暗がりから小柄の女性が現れた。歳は20代前半に見え、背は160センチ程の細身で長い髪を後ろで束ねている。中島と藤木の前に出ても一言も喋らず、呼ばれるまで行っていた周囲警戒を再開した。

「彼女は僕の護衛です。それはさて置き、内閣安全保障室長の村上さんから連絡があったんです。官房長官が中島さんを消したがってると…それで僕と小川ちゃんが来た訳なんですよ。」

「俺の件は“ついで”だろ?」中島が藤木を睨み付ける。「本題は議員の件じゃないか?」

ニヤニヤしながら藤木は一度俯き、再び友人の顔を見た。「まぁ、“ついで”と言えば…そうかもしれません。あまり詳しい事は言えませんが、中島さんの言う通り、私は小田議員の件で北海道に来てます。」

「ふーん。」そう言いながら、中島は野村から借りた拳銃を拾い上げる。「俺はそろそろ宮崎くんの所に行く。片付けを頼むぜ。」中島が倉庫を去ろうと歩き出す。

「まだ話しは終わってないですよ。」藤木が友人の背に向かって言った。「家族と一緒に東京に戻って下さい。」

立ち止まってSAT隊員が振り返る。「どうして?」

「あなたと家族のためです。」ネズミ取りの男はそうとしか言わなかった。

「何を隠してる?」藤木に近づきながら中島が尋ねた。その声には怒気が込められている。

その時、スラックのポケットから振動を感じ、中島は携帯電話を取り出す。画面には『野村』と表示されており、SAT隊員は急いで電話に出る。

「中島さん、無事ですか?」電話に出るなり野村が言った。

「なんとか…それより宮崎くんは?」

「容態は安定してます。あとは目覚めるのを待つだけです。中島さんの方は?」

宮崎の安否を知った中島は一安心し、深く息を吐く。「色々とありましたが、無事に終わりそうです。これからお借りしてた拳銃を返しに行きますね。」

「それでは小樽病院で待ってます。」

そして、電話が切れた。

「さっきの問いの答えですが…」電話を終えた中島を見て藤木が口を開いた。「小田完治の暗殺が計画されており、どうやら私のいる組織の中に内通者がいる可能性がある。そして、その内通者はあの時…自衛隊基地を襲った連中の残党かもしれないんですよ。私から言えるのは、ここまでです。」

「つまり…」中島が口元を緩めながら言う。「三浦を殺した連中がここにいるのか?」

“喋り過ぎたか…”藤木は後悔した。

「そうなりますね。でも、中島さん―」

「これから宮崎くんのいる病院に行かないといけないんだ。また、後でな…」

まだ言いたい事があったが、藤木は出口へと走る友人の後姿を追う事しかできなかった。

 

 

 

 ドアの前で一度立ち止まり、黒田は深いため息をつく。

 “一難去って、また一難か…”

 童顔の支局長はドアを開けて室内に入ると、椅子に腰掛けている西野を見つめながら後ろ手でドアを閉める。

黒田に気付いた西野は立ち上がり、「堀内はどうなった?」と尋ねた。

「まだ追跡中だ。」黒田はそれ以上言わなかった。「座ってくれ…」

「俺を現場に―」

「お前を現場に出すことなどできない!一体何をしたか自分で分かってるのか!!」

外の警備員にも聞える程、黒田の声は大きく、西野は上司の勢いに押されて椅子へ戻ることにした。それを確認すると、支局長はネクタイを抑えながら椅子に腰掛けて西野と向き合う。

「単刀直入に聞こう。」ネズミ取り北海道支局長が静かに口を開く。「お前はどっち側の人間だ?我々か?それともテロリストか?」

 この問いを聞いて西野は自身の耳を疑い、そして、それと同時に怒りが込み上げてきた。

「お前まで俺を疑ってるのか?!」

黒田は何も言わず、ただ西野の双眸を見つめた。この様子から西野は上司が真剣に自分を疑っている事に気付き、信頼していた黒田に裏切られた気がして無性に腹が立った。

「私だって…」支局長は西野から目を逸らさずに口を開いた。「お前がテロリストだと思いたくない。しかし、お前が小田議員の襲撃に―」

「あれは新村を救うためだ!」西野が上司の話しを遮る。

「話しを最後まで聞くんだ。」ネズミ取りの支局長は静かに、興奮状態にある部下を落ち着かせようとやさしい口調で言った。「あの襲撃に関与し、その前にも……SATと武田衛を確実に仕留めた狙撃手から生き延び、守谷と名乗っていた堀内という男を追うと言って住宅街に向かい、その際に多くのSAT隊員が死亡した。広瀬は今までの経緯を見て…お前がテロリストの手引きをしていると思っていた…」

ここで黒田は話すのを止め、一度下を向くと再び西野の目を見て話しを続ける。

「お前のした事は、全て…お前をテロリストの仲間と考えるに十分な証拠になる。だからと言って、すぐにお前をテロリストと断定した訳ではない。数日後に査問委員会が開かれる。全てはそこで判断されるだろう…しかし、事件が解決するまで、お前をこの建物から出す訳にはいかない。いいか?」

西野は黒田にこれ以上何を言っても無駄だと思って首を縦に振った。

その時、拘束室のドアが開いて分析官の小野田が入ってきた。「黒田さん、堀内の車が見つかりました!」

「捜査官を送ったか?」支局長が椅子から飛び上がる。

「はい。現在、その様子がメイン・スクリーンに映し出されています。」

「よし!」黒田はドアへ急ぎ、部屋を出る前に一度西野を見る。「すぐに戻ってくる。」

支局長は急いでライブ映像を見るために走り出した。それにも関わらず、小野田は拘束室を離れずに静かにドアを閉めて西野に近づく。

「西野さん、お話しがあります。」

「いいのか?勝手な事をしたら、黒田に何を言われるか…」西野は小野田の事を思って言った。下手に関われば、西野と共に査問委員会に突き出されるかもしれないからだ。

「重要な事です。」小野田がジーンズのポケットから小型タブレットを取り出し、その画面を西野に見せる。そこには建物の設計図が表示されていた。

「こういう事は黒田に報告すべきだ。」と画面に一瞥を送ってから西野は言った。

「無駄だと思ったからここに来たんですよ!黒田さんは何だか情緒不安定というのか…菅井さんが亡くなってからすごく感情的で…」

“そうだったな…黒田は菅井を推していた。確かにアイツは腕の良い捜査官だった…”西野は亡くなった同僚の事を考えると胸が苦しくなった。

西野は込み上げてくる涙を堪えながら、「用件は何だ?」と尋ねる。

「武田衛のアジトと野村さんたちが襲撃した赤屋根の建物から多くの情報が見つかり、その中に別の攻撃計画の資料が含まれていました。もし、テロリストが別の攻撃を準備しているなら、急いだ方が良いと思います。」小野田はできるだけ簡潔に拘束室に来た理由を述べた。

「それは黒田に話すべき事だ。俺に―」

「察してください…」分析官は新鮮な眼差しで西野の目を見た。

“『察してください』?小野田は黒田がテロリストの内通者と見てるのか?”

「お前、黒田が―」

「違います!疑うべきは…」小野田は何かを言いかけたが、喋るのを一度止めた。「僕が言いたいのは!」ここで突然、分析官が声を張り上げる。「西野さんなら信用できる。新村さんのために命を懸けた西野さんなら…」

“コイツ…新村に惚れてるのか?”西野はふと関係のない事を思った。

「それに疑ってる人物は水谷さんです。あの人の行動が怪しくて…」

「怪しい?」オウム返しに拘束中の捜査官が聞く。

「テロリストの証拠品を捜査しながら、他の分析官たちのアクセス記録を調べてるんです。」

西野は混乱した。「それの何が問題なんだ?」

「問題は水谷さんが、いくつかの証拠品を消去または改竄してる事です。」

「それなら黒田か本部に報告すべきだ。俺じゃ―」

「時間が無いんです!これを見てください。」小野田が小型タブレットの画面を西野の前に置き、捜査官は画面に映る設計図を見る。「それは削除されたファイルの一つです。全ファイルの修復を試みたんですが、これしか修復できませんでした。」

「これは?」

「小樽グランドホテルの設計図です。そして…」小野田は画面の隅を二度軽く叩いて画像を拡大させ、設計図に殴り書きされた『0900』が見えるようになった。「ここに0900とあります。このホテルは小田完治議員の朝食会が開かれる場所で、9時がその開催時間です。」

西野は腕時計に目を配る。846分。

「テロリストの残党が再び議員を襲う可能性があります。既にSPに問い合わせたのですが、真剣に取り合ってもらえませんでした。それに水谷さんが内通者である証拠もまだ不十分ですし、誰もこの設計図と時間らしく数字を見せても信用してくれません!でも、西野さんなら…この話しを信じてくれるかと思って…」

「だが、俺は拘束され―」

すると、分析官が手錠の鍵を取り出して西野を解放する。「実は広瀬さんと先ほど戻ってきた小木さんにも同じ話しをして説得したんです!二人は西野さんを駐車場で待ってます。」

「二人もいれば―」

「広瀬さんができるだけ多くの人員を集めたいと言ってました。それに西野さんは経験が豊富だし…それよりも早く現場に向かってください。もし、予想が的中していれば、10分以内に何か起こるはずです!」

 

 

 

病院の裏口に近いベンチの周りを回りながら、野村は中島の到着を待っていた。

小木は小田菜月と新村の救出に関する報告書を書くため、先に支局へと戻って行った。野村自身も報告書を書かなければならないので、中島から銃を受け取ったらすぐに小木の後を追うつもりであった。

しばらくすると、中島がやってきた。非常に落ち着いた表情で足取りもスムーズであり、SAT隊員が落ち込んでいると思っていた野村は安堵した。

「宮崎くんは?」と中島が尋ねる。

「容態は安定してます。もうすぐ目覚めると思います。それより、大丈夫ですか?」

「順調ですよ。」

「良かった。それでは―」

「実は…折り入ってお願いしたいことがあるんですよ。」野村を遮ってSAT隊員が言う。「ネズミ取りさんの手助けがしたんです。」

「え?」ネズミ取りの捜査官は突然のことに驚いた。「どうしたんですか?」

「言い方が変かもしれませんが、ちゃんと“お返し”がしたいんですよ。」

「私にですか?それなら―」

「いや…」再び中島が野村を遮る。「野村さんではなく、探していた“友人”にです…」

 

 

 

 

 小樽グランドホテルは厳重な警備に包まれていた。正面玄関と裏口に『BG』のバッジをしたスーツ姿の民間の警護員が2人ずつ、一階のロビーには同社の警備員3人とSP1名。朝食会が行われる2階の大ホールの前には金属探知機のゲートが2つ用意されており、ここにも民間の警備員が6人いて、それをサポートする形でSP2人がホール入り口を固めている。ホール内にはSP2人に民間の警備員4人が配置されている。

警備は中だけに留まらない。外には非常事態に備えて6名のSAT隊員が付近で、いつでも出動できるよう待機している。

このような警備体制の中でも、小田完治の後援者たちはまるで彼らが存在しないかのように談笑して議員の到着を待っていた。ホール内は10以上の円形テーブルと100を超える椅子が設置されている。部屋の一番奥にはステージがあって、マイクと水差し、小さなグラスが置かれている演説用の台が乗っている。ステージ横にはマイクスタンドがあり、その横でスーツ姿の男女がメモ用紙を見ながら打ち合わせを行っていた。

全てが順調に進んでいる。後援者たちの中に不審物を持つ者はおらず、問題を起こすような人物もホテル内外で見つかっていない。時間通りに議員とその家族も朝食会に訪れる事にもなっている。全て順調が順調であった。

 

 

 

ホテルロビー横にある喫茶店で雑誌を読んでいた本間はウェイトレスにコーヒーのお代わりを注文し、腕時計に目を配った。858分。

“そろそろかしら?”

女テロリストがそう思った時、8人の男女を乗せた小型バスがホテルに向かって動き出した。そして、ちょうど同じタイミングで二人組の男がホテルの斜め向かいに駐車していた車から降りた。運転手は筒状の物を右肩からぶら下げており、助手席の男も同じ物を携帯していたが、彼は中型のボストンバッグも持っていた。彼らは道路の真ん中で立ち止まり、時刻を確認する。9時。

ホテル2階の大ホールにはSP2名に護衛された小田完治議員とその家族が入場し、会場が拍手と歓声に包まれる。

時間を確認すると、二人組の男は黒い筒状の物を持ち上げる。それは単発式のグレネードランチャー、CIS 40GLであった。一人は東、もう一人は西を見るなり、向かってくる車に狙いを定めて引き金を引く。ポンッという音を出してグレネードが弧を描いて飛んで行く。

一つは東から来た乗用車のボンネットに命中して爆発を起こし、車は前へ半回転してホテル前で客待ちしていたタクシーの列に突撃する。西側では、グレネードが軽自動車のフロントガラスに直撃して爆発すると、その衝撃で車のドアとタイヤが吹き飛んで近くにあった商店に損害を与えた。

この騒ぎに周囲を歩いていた人々は悲鳴を上げて走り出し、また、物珍しさから携帯電話でその光景を撮影し始める者さえ出始めた。正門を警備していた警備員たちはすぐ仲間に現状を報告し、近くにいたSPが現場確認をするために外へ出る。ホールにいたSPは素早く小田を退避させようと動く。

二人組の男はすぐに再装填し、爆発で足止めされている後続車に向けてグレネードを撃ち込んだ。爆発と共に悲鳴と野次馬が増える。彼らが3度の装填を終えると、東から2台のパトカーがサイレンを鳴らして近づいてくるのが見えた。

二人が対処に動こうとした時、西側から仲間のバスがやってきた。二人組の男はパトカーに向けてグレネードを撃ち、無力化を確認するとバスを運転する仲間に右手を挙げて合図を送る。これを受けると、バスはホテルの正門を抜け、立ち往生していた警備員の一人を轢いてホテル内に突入した。