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返報 14-2 [返報]

14-2







 最後のグレネードを投げると同時に、守谷の後頭部に衝撃が走って手榴弾をバンの中に落ちてしまった。慌てて手榴弾を外へ弾き出そうとしたが、何者かが守谷の背中を押し、テロリストはバランスを崩して倒れた。その時、中田が足元に落ちた深緑色の球体を見つけ、追跡者への発砲を中断して左足で手榴弾を外へ蹴り飛ばした。

 二人が振り返ると、慎重にバランスを取りながら立ち上がろうとする西野を見つけた。ネズミ取りの捜査官は後ろ手で縛られているために自由に動けなかったが、守谷を蹴り飛ばすことはできた。

 外から破裂音が聞こえてきた。最後の手榴弾による爆発であったが、バンに乗るテロリストの注意は野村たちではなく、西野に移っていた。

 「大人しくしてれば、痛め目に遭わずに済んだのになぁ~」守谷が西野に近づき、右前蹴りを繰り出した。

 ネズミ取りの捜査官は間一髪のところで蹴りを回避し、額に切り傷を持つ男にタックルしてバンのスライドドアに叩きつけた。急いで上体を起こし、西野は頭突きを守谷の鼻頭に入れようと動くも、テロリストは頭を右へ傾けて回避した。そして、回避すると同時に彼は西野の股間に左拳を叩き込んだ。股間の痛みに捜査官は身を丸めて後退し、守谷は西野の胸を蹴り飛ばしてバンの反対側に叩きつけた。

 「クソがッ!!」額に傷を持つ男は西野の頭を両手で持ってバンの壁に何度も叩きつけた。

 「死んでしまいますよ。」助手席にいた男が振り返って恐る恐る守谷に言った。

 「そうだな…」ここで守谷は我に返って気絶している西野から離れた。「席を変わってくれないか?」

 助手席にいた男がアサルトライフルを持って後部座席に移動しようとした時、守谷が男の胸倉を掴んで拳銃を男の下顎に押し付けた。

 「ちょっ―」

 額に切り傷を持つ男は表情を一切変えずに引き金を引き、バンの天井が真っ赤に染まった。守谷は死体を引っ張ると、気絶している西野の上に放り投げて助手席に座った。








 「怖い気持ちは分かる。」野村が震えている新村にやさしく言った。

 二人の乗る黒い軽自動車はテロリストの白いバンから500メートル後方の位置で停車していた。

 「俺も怖い。でも、西野さんを救わないといけない。そのために君の力が必要なんだ。」

 ハンドルを握る新村の両手は震えており、彼女の目はスピードメーターを見つめたまま動かない。

 “ダメか…”

 その時、女性捜査官が防弾ベストのポケットから短機関銃の予備弾倉を2本抜き、それを野村に渡した。

 「もうそれしかないですけど、足りますか?」

 新村の言葉を聞いて男性捜査官は口角を上げた。「十分さ。」

 深呼吸をしてから若い女性捜査官はハンドルを握り、そして、アクセルを踏み込んだ。軽自動車はエンジンを唸らせて加速し、テロリストの後を追った。

 助手席の野村はMP-5Kの再装填を終えると、携帯電話を取り出して支部に電話をかけた。呼び出し音が数回鳴った後に奥村の声が聞こえてきた。

 「野村だ。道道17号(注:読み方『どうどう』、北海道の主要地方道のこと)でテロリストの白いバンを追跡中。ドローンで白いバンとの距離を調べてくれ。」

 「ちょっと待ってください。」女性分析官がキーボードを叩いて、グランドホテル上空を旋回していた2機の偵察ドローンの1機にアクセスした。そして、そのドローンを操縦している分析官に野村の現在位置を送り、その半径4キロ圏内にいる2台の白いバンを見つけるように頼んだ。

 新村の運転する軽自動車は縫うようにして前を走る車の間を走り、テロリストの白いバンを探して加速を続けている。しかし、目的の車は見つからない。

 「見つかりました!」奥村の声が携帯電話の受話口から聞こえてきた。「野村さんの現在位置から700メートル離れた所を走っています。」

 「分かった。」

 奥村の報告通り、2台の白いバンは700メートル先を走っていた。前の車を縫うようにして進む野村と新村の車は加速を続け、約4分後に目的の車を発見して接近を試みた。距離が近づくと野村が助手席から身を乗り出し、守谷たちが乗っているバンに向けて発砲した。今回は後輪ではなく、車体に向けての銃撃であった。野村が動くと同時に新村は拳銃を抜き、銃身をサイドミラーに固定して援護射撃に出た。

 短機関銃から放たれた複数の銃弾がバンの後ろにドアに命中した。その内の2発が窓を砕き、二人の捜査官は車内にいる大男を見ることができた。突然のことに中田は驚いてアサルトライフルを持ち上げ、壊された窓から応射するために動いた。

 「ドアを開けろッー!」守谷が怒鳴りながら後部座席へ移動し、床に置いていたロケットランチャーを拾って構えた。

 激しい銃撃を受ける中、中田が後ろドアを開けて素早くアサルトライフルを発砲した。最初は狙いを定めることができなかったので、数発が軽自動車のボンネットに命中した。しかし、銃の反動で銃口が上がり、フロンドガラスの中心に縦一線の穴を開けた。一方、守谷はロケットランチャーの狙いを車の間を縫うよう走行している軽自動車の手前に定め、引き金を絞るタイミングを計っていた。

 軽自動車に乗る二人の捜査官はロケットランチャーを構える男を発見すると、心臓が縮まるような恐怖を感じた。野村が急いで助手席に戻ると同時に、新村がハンドルを左に切ってロケットランチャーの射角から逃れようとした。

 その時、額に切り傷を持つ男はゆっくりと引き金を絞った。強烈な後方噴射と共にロケットが発射され、その際に生じた大量の白煙が運転席と助手席を満たし、驚いた運転手は咄嗟に後部座席を振り返った。

 発射されたロケットは真っ直ぐ黒い軽自動車に向かって飛んで行ったが、標的が急ハンドルを切ったために命中はしなかった。それでも野村と新村の乗る車は道路に直撃したロケットの爆発と爆風を浴び、横転してガードレールに激突して止まった。その様子を見届けた守谷はロケットランチャーを床に投げ、何事も無かったかのように助手席に戻って行った。








 警察署に着いていた小田完治は応接室の中を忙しなく歩き回っていた。家族のことが心配で黙って座っていることができないのだ。

 ドアの横でそれを見ていたSPの真嶋も仲間のことが心配であったが、顔に出さないよう努めた。それでも警護対象者を見ている内に仲間を思う気持ちが強くなった。

 その時、応接室のドアが開いて小田の家族が入って来た。小田完治の姿を見るなり、緊張がほぐれたのか、彼の家族は目に涙を浮かべた。議員は素早く駆け寄り、妻と子供たちを抱き寄せた。彼らはすすり泣きながら身を寄せ合い、小田完治は小さく「無事でよかった」と呟いた。

 真嶋がほっとして胸を撫で下ろしていると、背後から肩を叩かれた。振り向くとホテルで彼と共に議員とその家族を警護した民間の警備員3人がいた。

 “柴田は?”真嶋は咄嗟に同僚の姿を探したが、見つからなかった。

 「柴田を見なかったか?」

 「いいえ。」近くにいたスーツ姿の警備員がSPに言った。

 “まだ現場にいるのか?”

 「つい先ほど連絡があったのですが…」同じ警備員が口を開いた。「すぐに応援が来るそうです。真嶋さんの無線機と携帯電話に繋がらなかったので、私の方に連絡がきました。」

 「そうか…」

 「応援が着き次第、議員とその家族の避難が始まることになっています。」

 「何所へ?」と真嶋。

 「丘珠空港(注:正式名は『札幌空港』)に行き、北海道を離れる手配が取られています。」

 「しかし、すぐに動いては…」

 「詳細は応援が来てからとなっています。それまで我々は待機だそうです。」








 杉本哲司は色褪せた黒革のアタッシュ・ケースを持ち、官邸の三階にある南会議室のドアをノックした。

 いつもと変わらない定例報告ならば心配はないのだが、現在進行形の北海道の件があるために多くの懸念があった。官房長官たちの意地の悪い発言ではなく、予算の削減や組織の縮小が議題として上がることを恐れている。

 『ネズミ取り』が創設されてから大規模テロは未然に防いできた。勿論、この機関が誕生する前から日本警察はテロ攻撃を阻止するために努力している。

 今までの調査で、2年前に菊池信弘と彼の思想に魅了された学生たちが起こしたテロ攻撃との関連性は見つかったが、まだ確証は得られていない。それでも当時の生き残りが数人いると考えられているため、東京支部にいるネズミ取りの分析官たちは彼らによる犯行の可能性が高いと見ている。北海道におけるテロ攻撃の動機は、自衛隊基地への攻撃を妨害した小田議員に対する報復と推測された。

 「どうぞ。」

 ドアの向こう側から声が聞こえてきたので、杉本がドアを開けて室内に入った。

 「進展は?」ネズミ取りの局長を見るなり官房長官の吉村吉彦が尋ねた。彼は楕円形テーブルの端の席に座っていた。官房長官の隣には首相補佐官の沼村直人が椅子に腰掛けている。

 「主犯の特定はまだできていませんが、2年前の事件との関連が見つかりました。」テーブルにアタッシュ・ケースを置き、その中から予め用意した資料を取り出して二人の前に置いた。

 官房長官と首相補佐官は資料に一瞥をくれると、一切手を付けずに再び杉本に目を向けた。

 「簡潔に頼むよ。もうすぐ記者会見なんだ。」と官房長官。

 「北海道の事件は、2年前の自衛隊基地攻撃事件に関与した人物によるテロ攻撃と思われます。そして、犯人は小田完治議員を狙っているようです。」杉本は求められたとおり、簡潔に述べた。

 「それは困るねぇ…」首相補佐官が呟いた。「あの事件は『火災』として処理されたんだ。今さら、『あれはテロでした』、と言えば有権者の支持を失いかねない。何か違う理由を考えるべきだ。」

 「確かに…」官房長官は隣に座る禿げ頭の男に同調した。

 “まだ政局に気を取られているのか…”杉本は黙って二人を見つめた。

 「できれば…小田くんの政策に反対する勢力の犯行として発表すべきだ。『右』でも『左』でも構わない。」首相補佐官は素晴らしい案を述べたと思った。

 「しかし―」杉本が意見を述べようとした。

 「声明の内容はこちらで決める。」吉村官房長官が遮った。「君は早く事件を解決しろ!」

 「分かりました。」








 目を覚ますなり、野村は飛び上がって腰のホルスターから銃を抜いて周囲を見渡した。彼は軽自動車の中ではなく、救急車内のストレッチャーの上にいた。

 「落ち着けよ。」大多和が後輩捜査官の銃を掴んで下ろさせた。

 「西野さんは?」野村が尋ねた。「白いバンは?」

 先輩捜査官は首を横に振った。「ドローンで探してる。お前はよくやったよ。」

 慰めの言葉を聞いても野村は自分が許せなかった。この時、彼は運転席にいた新村のことを思い出した。

 「新村は?彼女は無事ですか?」

 「負傷してたから、先に小木と一緒に支局の医務室に送ったよ。負傷と言っても、新村はちょっと深い切り傷と擦り傷、小木は肋骨を折っただけだ。奇跡的にお前は無傷みたいだが…」

 拳銃をホルスターに戻して野村はストレッチャーから下りようとした。その際に肩と腰に痛みが走ったが、動くのに支障がない程度であった。

 「あまり無茶するなよ。まだやる事があるんだ…」

 彼らを乗せた救急車は近くの病院に着いたが、大多和は野村を連れて病院内の駐車場へ向かった。先輩捜査官に促されて野村はグレーの乗用車に乗り、その車は数回の尾行確認を経てネズミ取りが利用している地下駐車場に入った。

 「お前にお土産があるらしい。」駐車場に車を入れるなり、大多和が言った。

 二人の乗る車が進んで行くと、ヘッドライトが駐車場の奥にいた二人の男を照らした。一人は体形に似合わないだぶだぶの服を着ており、彼の横にはうな垂れて床に座り込んでいる中年男がいる。

 大多和が車を停めるなり、野村は車を降りて中島と佐藤に近づいた。

 「大変だったみたいですね。」中島が笑みを浮かべて言った。

 「いや…私は…何も…」野村はテロリストを取り逃した事に憤りを感じていたが、表情に出さないように努めた。それに西野を救えなかった事に罪悪感を持っていた。

 「野村さん…」SAT隊員が柔らかな口調で話し始めた。「過ぎた事はどうしようもないです。あなたの仲間はテロリストに捕まりましたが、まだ生きてる。後悔は後に回して、今は彼の救出に専念しましょう。」

 “確かに…”若い捜査官は顔を上げて中島の顔を見た。

 「その手掛かりになると思って…」SAT隊員がうな垂れている佐藤の肩を軽く叩いた。「彼を持ってきましたよ。」

 「その男は?」野村の隣に並んだ大多和が尋ねた。

 「ホテル付近の建物から狙撃銃で小田議員を狙ってた男です。」

 「テロリストの仲間なんですか?」と野村。

 「そう考えるのが妥当でしょう。ホテル正面から突入して、標的をホテルの裏口まで押し出し、そこを狙う予定だと思いますね。」中島は佐藤を捕らえた後、藤木と現場にいた数人のSAT隊員から聞いた情報を元に自分の考えを述べた。「万が一、彼が単独犯であれば、議員が出入りするのが確実な正面入り口付近を見張ると思いますし…」

 「なら、色々と聞いたい事があります。」野村が佐藤に近づく。「色々と…」








 西野がテロリストに拉致されたとの報告を受けた黒田は、苛々しながらスパイウェアが常時送信してくる水谷の行動記録に目を通して怪しい動きの有無を調べていた。しかし、送られてくる情報に不審な点はない。

 “気付かれたか?”黒田は水谷がスパイウェアの存在に気付いた可能性を考えた。“そうなれば、これは時間の無駄か…。西野の捜索に集中すべきか?もし、アイツが内通者であれば、何も水谷に的を絞る必要も無い…”

 水谷は先ほどから通信記録を見ており、そこでいくつかの記録を何度も繰り返し閲覧している。また、彼は監視カメラの映像記録にもアクセスし、特定の時間帯の記録を入念に確認していた。

 “都合の悪い証拠を探しているようにも見えるが、記録を書き換えようとはしてない。”黒田は分析官の行動を見て思った。“逆にアイツは削除された物を修復しようとしているようにも見える…”

 その時、彼のオフィスにタブレットを持った奥村が入って来た。

 「水谷さんの行動を調べましたが…特に異常はありませんでした。」奥村がタブレットの画面を黒田に見せた。画面には水谷が使用した画像比較ソフトや音声解析ソフト、最近のニュースに関する閲覧履歴が表示されていた。

 「本当にこれだけか?」と黒田。

 「はい。」

 女性分析官は何故、上司がこれほどまでに水谷に拘るのかが理解できなかった。彼女は水谷の記録を調べながら、黒田の記録も調べていた。そして、そこには水谷よりも疑わしい記録が多かった。

 「もう少し遡って彼の記録を調べて欲しい。」

 「分かりました。」

 不満を顔に出しながら奥村は黒田のオフィスを後にし、自分の机に戻ると一目散にオフィスに籠っている上司の記録にアクセスした。








 携帯電話が鳴ると、大多和は野村たちから離れて電話に出た。

 「どうなってる?」電話は黒田からだった。

 「今、野村と中島という名のSAT隊員でテロリストの尋問をしています。が、テロリストの携帯電話から色々と情報が見つかっているので、もうすぐ終わると思います。」

 「そうか…」そう言うと、黒田は数秒沈黙した。大多和が代わりに口を開こうとすると、再び支局長の声が聞こえてきた。「話しは変わるが、西野は…アイツは本当に拉致されたのか?」

 大多和は黒田の質問に疑問を持った。“支局長は西野もテロリストだと思ってる?”

 「はい。救急車に乗せられる前に意識を取り戻した新村が、テロリストに連れ去られる西野について教えてくれました。野村も同じことを言ってます。私も西野が拉致されたと思います。」ネズミ取りの捜査官が淡々と述べた。

 「そうか…」

 「何かあったんですか?」

 「いや、何でもない。」

 「それでは尋問が終わり次第―」

 大多和が会話を切り上げようとした時、それを遮るように黒田が口を開いた。「尋問は君とSATに任せたい。野村には一度、こちらに戻ってきて欲しい。」

 「しかし―」

 「西野に関して確かめたいことがあるんだ。」ネズミ取りの支局長が強い口調で言った。

 「では、そのように伝えます。」捜査官の声には戸惑いが混じっていた。

 電話を切り上げると、大多和はノートパソコンと睨み合う野村と中島に近づいた。そのパソコンは佐藤が持っていたスマートフォンと接続されており、解読ツールを用いて電話内にある位置情報と暗号化されていたメールを確認していた。

 「野村、支局長がお呼びだ。」大多和が後輩捜査官の隣に並んだ。「後は俺が引き継ぐ。」

 若いネズミ取りの捜査官は驚きの表情を浮かべて大多和を見た。「今ですか?」

 「西野について聞きたい事があるそうだ。」

 「でも―」

 「支局長にも何か考えがあるんだろうさ。」首を傾げて大多和が言った。「それより、何か見つかったか?」

 「見つかりましたが…」納得の行かない呼び出しに野村は苛立ち、見つけた事を口にしたくなかった。

 「怪しい場所を2ヵ所見つけましたよ。」中島が二人の会話に割り込んだ。

 これに野村は驚き、さらに怒りを覚えた。できれば、この発見を条件に支局へ戻ることを延期させようとしていたのだ。

 「何所ですか?」大多和が中島へ顔を向けた。

 「銭函と手稲にある建物です。彼は襲撃後にこの2つの場所のどちらかに行く予定になっていたようですよ。」SAT隊員がノートパソコンの画面に表示されている2つの赤い点を指で示した。

 身体を前のめりにして大多和はパソコンの画面を見つめた。1つ目の建物は銭函に近い張碓という場所にあり、もう1つは人口が密集している手稲区の住宅地にあった。

 「どちらかの建物に西野がいるのか…」大多和が呟いた。

 「その可能性がある、の方が正確かもしれませんよ。」と中島。「報酬の受け渡し場所、または中継場所かもしれないですし。もしかしたら、拘束された時のための罠かも…」

 「なら、彼に話してもらいましょう。」野村が胸にある苛々を落ち着かせながら言った。

 三人はうな垂れている中年男に目を向けた。

 「無駄でしょう。」SAT隊員が再びパソコンに向き合った。ネズミ取りの捜査官たちは中島の態度に不信感を抱いた。

 「どうしてですか?」野村が尋ねる。

 「彼はこういう状況に慣れてる。この手のタイプは長期戦を好みます。まぁ、手荒な真似をして吐かせるのも手ですが、正確な情報を喋ってくれる保証はないです。確実なのは、今ある情報を元に行動することだと思いますよ。例え、罠であっても…」

 「一理あるが、それでも吐かせるべきだ。」大多和が食って掛かった。

 「それならネズミ取りさんの自白剤などを使うべきです。ここには無いけど…」

 中島の意見を聞いて大多和が野村と向き合った。「どうせ支局に戻るんだ。この男と一緒に戻って情報を聞き出してこい。それからSATに応援要請を出して出動準備を完了させてくれ。」

 野村は下唇を噛んで喉まで出かかっていた言葉を抑え、命令に従うことにした。若い捜査官は中島と共に佐藤の腕を掴んで立ち上がらせ、乗用車の後部座席に中年男を押し込んだ。

 「現場で待ってますよ。」運転席に乗り込んだ野村に中島が笑みを浮かべて声をかけた。

 野村は表情を変えずに「すぐに合流します」と言って駐車場を後にした。そして、彼と入れ替わるようにしてすぐ、1台の黒いバンが駐車場に入って来た。

 大多和と中島が腰のホルスターに収められた拳銃に手をかけたが、バンから下りてきた4人を見て手を離した。

 「遅くなってすみません」額に大きな絆創膏を付けたSAT隊員の荒井が言った。彼は守谷たちの襲撃で負傷したが、ホテル入り口付近の爆発で亡くなった仲間と拉致された西野のことを知ると、大多和に頼み込んで救出作戦のメンバーに組み込んでもらった。また、荒井は信頼できる同僚3人を連れてきた。

 「全然だ。装備は整えてあるな?」と大多和。

 「はい。」荒井がはっきりとした口調で返事した。

 「んじゃ、すぐにでも行けそうですね。」大多和の隣に並んで中島が言った。

 中島の姿を見るなり、4人のSAT隊員の表情が硬くなった。大多和は何が起こったのか分からず、隣のSAT隊員を見た。しかし、中島はただ笑顔を浮かべているだけだった。

 「洞爺湖ではお世話になりました!」荒井の横にいた桑野という隊員が一礼し、他の三人も彼に倣った。

 大多和は益々混乱したが、中島は相変わらず笑みを浮かべていた。








 意識を取り戻して目を開けようとした時、後頭部に激痛が走り、呻きながら西野は再び目を閉じてしまった。彼は痛む場所に触れようとしたが、両手の自由が効かない。しかし、脚は縛られていない。目をゆっくりと開けると、両手が縄で椅子の肘置きに固定されているのが見えた。

 「起きたか?」正面から守谷の声が聞こえてきた。

 西野が顔を上げようとした時、再び後頭部に激痛が走った。この時、彼は正面に座る守谷の姿を見た。蛍光灯が煌々と光る部屋は狭く、机と椅子が部屋の壁に積み上げられている。ふと目についた窓を見ると、拘束されている自分の姿が窓ガラスの反射で映っていた。外はもう暗く、窓の向こう側がどうなっているのか分からなかった。

 「焦るなよ。時間はたっぷりある。三須も議員を始末したら、こっちに来る。」

 “三須!?”

 「お前たちは死んだはずだ!」ネズミ取りの捜査官が激痛に耐えながら言った。

 「書類上な…」

 「俺はお前が死ぬのを見た。」

 それを聞いて額に小さな切り傷を持つ男が笑い出した。

 「なら、俺は幽霊か?」そう言うと、守谷は左拳を西野の左頬に叩き込んだ。衝撃の強さに捜査官の視界がぼやけた。「確かに俺はお前に撃たれ、そして、輸送機から落とされた…しかし、運が良く三須たちに救われた…」

 西野はまだ衝撃から立ち直れていなかった。ゆえに守谷が話しを続けた。

 「あの時から俺たちはお前への復讐を考えていた。しかし、三須は簡単な報復では物足りないと思い、前回よりも多くの資金と武器、人員の調達に動いた。計画はアイツが作り、俺がそれを実行した。お前を探し出すために三須は警察に入り、最終的にはお前も所属している組織に入った。俺がせっせと武器を買っている間にな…」

 “三須がネズミ取りに?”ようやく意識がはっきりしてきた西野が心の中で呟いた。

 「有り得ない。三須が簡単に入れるような―」

 「『背乗り』って奴で簡単に新しい身分が手に入ったのさ。」捜査官を遮って守谷が言った。「お前らの組織は警察よりも広いネットワークを持っていたらしく、三須はお前も同じ組織にいることを突き止めた。そして、そこで潜入捜査と小田完治の詳細を知った…」

 「俺と議員を狙ったテロでどれだけの命が失われたと思ってるんだ!」思わず西野が怒鳴った。

 「必要な犠牲だ。それに数で人の価値を決めるのは良くないぞ、小林…」守谷はワザと西野をかつての偽名で呼んだ。「人の価値はその人間の知性で測られるべきだ。」

 その理不尽な考えに西野は絶句した。

 「三須はお前を信頼していた。もしかすると、俺よりもお前に肩入れしていたかもしれない…」言葉を失っている捜査官を見た守谷は話しを続けることにした。「そんなアイツも、今じゃお前を殺したがってる。」

 「み、三須もここに、北海道にいるのか?」西野が言葉を詰まらせながら訊いた。

 すると、額に切り傷を持つ男がニヤリと笑った。「アイツはずっとお前の側にいたよ。」








 支局の駐車場に車を入れた野村は急いで後部座席にいる佐藤を降ろそうとした。彼はできるだけ早く中年男を他の捜査官に任せ、黒田との話しを終わらせたかった。

 佐藤の左腕を掴んで引っ張ろうとした時、背後から駆け寄ってくる足音を聞いて野村が振り返った。そこにはタブレットを持った奥村がいた。彼女は監視カメラで野村の到着を確認すると、駐車場まで走って来たのだ。

 「どうした?」と野村。

 小太りの女性分析官は肩で息をしており、捜査官が尋ねてもすぐに応えられなかった。

 「大丈夫か?」野村が中年男から手を離して奥村に近づく。

 「の、野村さんに、見て、欲しい物が、あります。」呼吸を整えながら女性分析官が言った。彼女はタブレットを持ち上げて画面を野村に見せ、野村は渋々その画面を覗き込んだ。「黒田さんに、水谷さんの行動記録を、調べるよう言われて、調べたんですが、不審な点は何も無かったんです。」

 「それで?」若い捜査官は話しの内容が掴めず、急いでいるにも関わらず話しを引き延ばす奥村に苛立った。

 「何度も何度も、似た様なことを言われるので、支局長が疲れておかしくなったと思って、逆に支局長の記録を調べたんです。そしたら、通信記録を消したり、逃亡後に死亡した堀内という男のいた、拘束室の監視映像を、改竄してる形跡があったんです!」

 「何故、そんなことを?」

 「もしかしたら、支局長は昇進の障害となる証拠を消しているのかもしれないです。または支局長がテロリストの―」

 唾を吐くような音が3度、地下駐車場内に響いた。その後、奥村に覆い被さるようにして野村が倒れた。女性分析官は突然のことに驚き、野村を支えようとしたが、彼の重さに耐えきれずに尻餅をついてしまった。好意を寄せていた相手が倒れ掛かってきたため、奥村の意識は野村に注がれ、顔を赤くしながら彼女の膝上に頭を置いて倒れている捜査官の顔を見た。

 「に、逃げ…ろ…」消え入りそうな声で野村が言った。上着の下に防弾ベストを着ていたので無傷ではあったが、銃弾を受けた背中に激痛が走っていた。

 「えっ?」奥村が聞き返そうと顔を野村に近づけた。

 ちょうどその瞬間、彼女の胸を2発の銃弾が襲った。被弾した女性分析官は衝撃に押されて背中から地面に叩きつけられた。呼吸困難に陥った奥村は口から血を吐きながら、苦しみと戦った。

 「余計なことを…」野村の背後から親しみのある男の声が聞こえてきた。その声の主はゆっくりと二人に近づき、奥村の頭に2発の銃弾を撃ち込んだ。

 ここでようやく野村は二人を撃った男の姿を見た。

 “小木さん…?”

 消音機付きの拳銃を持つ小木は奥村のタブレットを拾おうと身を屈めた。この隙に野村はホルスターに手を伸ばして拳銃を握った。

 再び唾を吐くような音が駐車場内に響き、後頭部から進入した銃弾が野村の頭部を貫通した。タブレットに気を取られていた小木は突然のことに驚き、拳銃を野村の死体に向けた。

 「ちゃんと頭を撃て。」小野田が鋭い眼光を小木に向けた。次に彼は消音機付きの拳銃を乗用車に乗っていた佐藤に向け、素早く3度引き金を絞った。2発が中年男の胸に命中し、最後の1発が頭部を捉えて後部座席が血で染まった。

 「あ、あぁ…」小木は小野田の勢いに圧倒された。

 「議員の行き先が分かった。急ぐぞ。」

 二人は予め用意していたグレーのSUVに乗り込んでその場を後にした。

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返報 14-1 [返報]


 「また会えましたね。」西野の隣に腰掛けるなり、藤木孝太が言った。

 西野は昨日出会った男の唐突な出現に少し動揺したが、すぐに気持ちを切り替えた。

 「髭を剃ったんですね。」藤木が隣に座る元警察官の顔を見て笑みを浮かべた。「その方が似合ってますよ。」

 そう言われると西野は俯いて、今朝剃ったばかりの頬を右親指で軽く触れた。

 「無駄話のために来たわけじゃないだろ?」ここに来た理由を思い出して元警察官が藤木の方を見た。

 「いきなり本題に入るのって、すごく堅苦しいでしょ?だから、ちょっと世間話しをしようかと思いまして…」

 西野は藤木の馴れ馴れしい喋り方が好きになれなかった。

 「しかし、お望みであれば本題に入りましょう。西野さんの答えを聞かせてください。」

 藤木の顔に浮かんでいた笑みが消えた。銀縁眼鏡のレンズ越しに見える彼の双眸は鋭く、先程とは打って変わって真面目な人間に見える。

 「逆に聞きたい事があるんだ…」西野が藤木から視線を逸らさずに言った。「俺はもう二度とあんな連中と関わりたくない。アンタも分かるはずだ。何でまだその仕事をやっていられるんだ?」

 予期せぬ言葉にネズミ取りの捜査官は首をかしげた。「良い質問ですねぇ~」

 西野は黙って藤木を見つめ続けた。

 「実は…」藤木が口元を微かに緩めて口を開いた。「似た質問を友人にしたことがあります。堅物な男でして…ものすごく仕事熱心なんですよ。彼に尋ねると、非常に臭い台詞を言いました。」

 横に座る元警察官が先を促す。

 「『守りたいものがあるから』だそうです。」藤木は西野の反応を見て先を続けることにした。「私だって西野さんの言う“あんな連中”とは関わりたくないです。でも、私たちが求めていなくても、彼らは来るんです。中には話しの通じる人たちもいますが、大半は聞く耳を持たない。彼らの中に“答え”があるからです。そんな人たちを野蛮な手段を用いてでも、止めなければならない時が来るかもしれません。そんな時にみんなが『誰かがやるから大丈夫』と考えていたら、いずれ私たちは大切な物を失うでしょう。簡単に言えば、『誰かがやらなきゃいけない事』だから、私は“あんな連中”と関わりを持つことにしたんです。」

 「しかし―」

 「無理強いはしません。」藤木が西野を遮った。「嫌なら嫌と言えばいいんです。」

 「後悔してないのか?」元警察官が視線を逸らさずに尋ねた。

 「してたら、ここには来てませんよ。」ネズミ取りの捜査官がベンチから立ち上がた。「もし、気が変わったら、15時までに空港に来てください。そこで待ってます…」


















14-1






 「も、守谷……?」西野は驚きを隠せなかった。

 名前を言われると額に小さな切り傷を持つ男がニヤリと笑う。「やっと思い出したか…」

 ネズミ取りの捜査官は咄嗟に右拳を守谷の顔面に繰り出した。しかし、相手は左手でそれを掴んだ。

 「あまり良い動きじゃないな。“あの時”の方が早かったぞ…」そう言うと守谷は西野の拳から手を離さずに、頭突きを捜査官の顔面に叩き込んだ。

 鼻頭に強力な一撃を受けた西野は気が遠くのを感じた。鼻の骨が折れ、両方の穴から血が流れ出た。

 「もうすぐ警察の増援が到着します。」守谷の隣にいた大男が言った。
 「そろそろ移動するか…」









 反射的に乗用車の陰に飛び込んだものの、野村と新村は襲撃者たちの激しい銃撃を受けて身動きが取れずにいた。

 雨の様に降り注ぐ銃弾は乗用車に無数の穴を開けると同時に窓ガラスを砕いた。ガラスの破片が身を丸くして隠れている二人の捜査官の上に落ち、あまりの恐ろしさに新村は震えた。しかし、涙を流すことはなかった。一方の野村は再装填を済ませて突進を試みようとしていた。

 “このままじゃマズイ…”

 その時、銃撃の勢いが弱まった。

 野村は敵の何人かが再装填を行っていると推測して車の陰から飛び出した。そして、発砲しながら前進しようとした時、彼は手榴弾を投げようとしている敵2人を見た。野村はすぐに引き返して隠れていた新村の右腕を掴んで立ち上がらせ、二人は姿勢を低くした状態で駆け出した。

 目出し帽で顔を隠している男2人は野村と新村の位置へグレネードを投げ、放たれた2つの手榴弾は綺麗な弧を描いて二人の捜査官がいた車の手前に落ちた。

 新村の腕を引く野村はできる限り遠くへ移動したかったが、仲間を連れながら逃げるのは難しく、離れることができても5メートルが限界であった。女性捜査官は状況が読み込めなかったが、背後から聞こえてきた破裂音を耳にしてやっと状況を理解した。

 手榴弾が爆発すると二人はしゃがみ、素早く襲撃者たちがいる方へ短機関銃の銃口を向ける。銃口の前には今まで遮蔽物にしていた乗用車があって敵の姿を見ることができない。しかし、二人は襲撃者の勢いが収まりつつあることに気が付いた。

 “撤収するのか?”

 野村は銃を構えた状態で中腰の姿勢を取って襲撃者たちの様子を伺った。そして、彼は大男が西野を右肩に担いで移動するのを目撃した。先輩捜査官の危機に野村は怒り、我を忘れて目出し帽を被った襲撃者たちに向けて発砲を開始した。

 突然のことに背後で待機していた新村は狼狽えたが、彼女も連れ去られようとしている西野を見つけ、野村の行動の真意を理解する事ができた。

 大男が西野をバンに押し込もうした時、スライドドアに小さな穴が開いた。何事かと振り向くと、発砲しながら接近してくる男女の姿を確認した。すると、大男の後ろにいた男がインド製のアサルトライフルを構え、野村たちに向けて引き金を引いた。

 「構うな。」そう言って、大男がバンに乗り込んだ。

 指示を受けた男は何度か発砲してからバンの助手席に乗り、素早く再装填を行った。彼と同様に急ぐ守谷率いる襲撃者たちは応射しながら、それぞれが乗って来たバンに乗り込んでその場を後にしようとしていた。

 焦る野村は走ってバンとの距離を詰めるも、途中でMP-5Kの弾倉が空になった。再装填する時間が惜しいため、男性捜査官は腰のホルスターからUSP拳銃を素早く抜き、走り去ろうとする2台の白いバンに向けて発砲した。一方の新村は置き去りに去れた車の陰に身を隠して再装填を行い、それから先輩捜査官の後を追った。

 2台の白いバンは野村たちの攻撃を気にもせずに加速して二人の捜査官から離れて行く。

 バンが曲がり角に入る直前、野村の背後から黒い軽乗用車が接近してきて彼の右横で停車した。

 「乗って下さい!」運転席には新村がいた。

 彼女は乗り捨てられていた軽自動車を見つけ、それを借りることにしたのだ。

 後輩捜査官が下した咄嗟の行動に野村は感心しながら、黒い軽自動車の助手席に乗り込んだ。そして、彼が素早くMP-5Kの再装填を行い始めると、新村はアクセルを勢い良く踏み込んで襲撃者たちの後を追った。








 中島が腰元で構えていた銃を佐藤の右脚に向けた瞬間、中年男がSAT隊員に飛び掛かった。

 男は両手で拳銃の銃身を掴み、素早くそれを中島の腹部に押し当てて銃口を逸らした。そして、間を置かずに佐藤は右膝蹴りをSAT隊員の股間に向けて繰り出した。

 蹴りが飛んでくる直前、中島は左脚を後退させながら腰を右に捻って佐藤の金的蹴りを回避し、素早く左掌底を中年男の胸に叩き込んだ。この掌底で中年男は掴んでいた銃から手を離しそうになったが、左足で踏みとどまって次の攻撃に出た。

 一方、SAT隊員はこの隙に銃口を動かして相手の脚を撃とうとしていた。あと数ミリで狙いが定まろうとした時に佐藤の頭突きが中島の右頬を直撃し、その弾みで引き金を絞ってしまった。狭い室内に銃声が響き、拳銃弾が佐藤の右脚をかすめて軽傷を負わせた。

 中年男が銃身を強く掴んでいたため、遊底の動きが封じられて空薬莢の排出が行われなかった。ゆえに遊底を引いて薬室に残っている空薬莢を抜かなければ、銃を正常に使用することはできない。

 仕方なく中島は銃から手を離して左と右の拳をリズミカルに繰り出し、自ら拳銃を抑えるために両手の自由を封じていた佐藤は2つの拳を顔面に受けた。素早く放たれた拳であったが、威力は中年男の想像を超えて重たかった。

 佐藤は掴んでいた拳銃から手を離して2歩後退した。できるだけ距離を開けて回復を試みたのだ。だが、中島の勢いは止まらなかった。SAT隊員は左前蹴りを中年男の股間目がけて繰り出した。そして、それを見るなり佐藤は右脚で中島の蹴りを払い、SAT隊員の左側へ回る。

 中年男の動き確認するや否や、中島は左裏拳を佐藤の左側頭部に叩き込んだ。続けてSAT隊員は裏拳の勢いを利用して左へ回転し、激痛に身体を右に傾けていた相手の左頬を右拳で殴った。

 次の攻撃を恐れる佐藤は咄嗟に両腕を上げて顔面を守り、それが仇となって防御が手薄になった左横腹に中島の右蹴りを受けた。予期せぬ衝撃に中年男は体勢を崩しそうになったが、なんとか右足で踏みとどまる。

 相手の動きなど気にせず、SAT隊員は左拳を佐藤の顔に向けて繰り出す。それを見るなり中年男は左手で相手の拳を弾き、向かってくる攻撃の軌道を変えた。続いて中島が右拳を放つと、佐藤は体を左に傾けて攻撃を回避し、伸び切ろうとしていた相手の右腕を挟むようにして両手を繰り出した。右掌底でSAT隊員の右手の甲を叩き、左手ではきつく拳を作って相手の腕の内側を叩いた。

 地味な攻撃であったが、中島の腕に軽い痺れが走った。関節技を警戒したSAT隊員が腕を引こうとした時、佐藤の裏左拳が中島の右側頭部を襲った。中年男は先ほど繰り出した左拳の勢いを利用して素早く攻撃したのだ。
 
 間を置かずに佐藤が右掌底を中島の顔面に入れようとした瞬間、外から大きな爆発音が聞こえてきた。二人の動きが止まり、1秒半ほど睨み合う形になった。
 
 この爆発音は守谷の撃った携帯式対戦車擲弾発射機(注:ロケットランチャー)が西野と荒井の後方にあった乗用車に命中した際に生じたものであった。

 “来たか…”体に走る痛みを感じながら佐藤は守谷たちの到着を予想した。しかし、状況が掴めない中島は野村たちのことが心配であり、急いで助けに行きたかった。

 焦る気持ちを抑えながらSAT隊員は再び動き出した。彼は防がれることを念頭に置きながらも左拳を素早く突出し、中年男は後ろに下がって攻撃を避けた。そして、後退した勢いを利用して右前蹴りを放った。

 蹴りが放たれるや否や、中島は素早く斜め右へ踏み出して相手との距離を縮める。その際に彼の横を佐藤の右蹴りが通り過ぎ、距離が近づくと中年男の顔に恐怖が広がった。

 佐藤は咄嗟に左肘を繰り出して接近してくる中島の顔面を殴ろうとしたが、SAT隊員はそれを右手で難なく防御した。そして、それとほぼ同時に彼は左手を突き出して中年男の右肩を掴み、相手を手前に引きながら突き上げるように左膝を佐藤の腹部に叩き込んだ。

 腹部を襲った激痛に耐えきれず、中年男は身を丸めて歯を食いしばって呻いた。しかし、中島は攻撃の手を止めようとはしない。SAT隊員は痛みと戦っている相手の首筋に向けて、左肘を振り下ろそうと左腕を上げた。

 その時、首筋に悪寒を感じた佐藤は思い切って中島にタックルした。突然の攻撃にSAT隊員はバランスを崩し、体勢を立て直そうと後ずさりながら中年男の上着を掴もうと動く。しかし、その直前に佐藤は両手で中島を突き飛ばして距離を開けた。勝ち目のない戦いだと判断した故の行動であった。二人の距離が開くと、中年男は腹部を抑えながら急いで部屋から廊下に飛び出した。

 素早く体勢を整えたSAT隊員が逃亡した男を追うために走り出すと、唾を吐くような音と金属が擦れる音が廊下から聞こえてきた。その後、中年男の呻き声と重たい何かが落ちる音を耳にした。彼は急いで自分の拳銃を拾い、遊底を引いて薬室に閉じ込められていた空薬莢を吐き出させた。中島は拳銃を構えながら素早く、そして、静かにドア枠の左横に移動して廊下の様子を確認した。SAT隊員が目にしたのは床に倒れて呻いている中年男の姿であり、その他には何も見えない。

 別方向の安全確認のため、中島は右手に握った拳銃を胸の辺りで構えると、素早くドア枠から顔を出し、脅威の有無を確認するなりすぐに室内に顔を戻した。一瞬のことであったので、人影しか見ることができなかったが、それで十分だった。SAT隊員は拳銃をホルスターに収め、両手を上げて廊下に出た。









 大多和と6人のSAT隊員が黒煙と焦げ臭さの漂う道路を通って、小型バスによって壊された正面玄関へ向かった。グランドホテルの上空では北海道警察とマスコミ各社のヘリが爆音を周囲に撒き散らしながら現場の様子を見守っており、地上の方は警察が黄色い規制線を張って被害の拡大を減らそうとしていた。それでも守谷たちは、その規制線の一つを突破して西野を攫いにやってきた。銃声や爆発音が単発的に人々の耳に入ってくるため、現場にはまだ緊張が走っている。

 黒田の命令を受けた大多和たちがホテルの車寄せに近づくと、座り込んでいる二人のSAT隊員を発見した。

 「大丈夫か?」二人に近づきながら大多和が尋ねた。

 「俺たちは…なんとか…」被弾した左腕を右手で抑えた藤田が消え入りそうな声で応えた。彼の隣にはうな垂れている近藤がいた。二人は他の隊員が全員死んだと思っている。

 「西野たちを見たか?」と大多和。

 「いえ…」藤田が首を横に振った。

 「すぐに救護班も来る。ここで待機しててくれ。」

 大多和と6人のSAT隊員は、テロリストによって破壊された正面ドアを通ってホテル内に進入した。まず始めに彼らの目に飛び込んできた物は突入に使用された小型バスだった。砕けた窓ガラスとドア枠の金属片が床に飛び散っており、奥に進んで行くと焦げや血が付着した破片があった。そして、さらに進んで行くと血の海を作る多くの死体を発見した。

 凄惨な光景を見た大多和は唇をきつく閉じ、湧き上がってくる恐怖心と戦った。彼の後ろにいたSAT隊員たちも現実離れした光景に怯んでいたが、それと同時にこのような行為をしたテロリストに怒りを覚えた。

 彼らは死体を踏まないように前進したが、目指している大ホールへ続くエスカレーターは両方とも死体で埋め尽くされていた。

 “許してくれ…”

 周辺を警戒しながら、できるだけ死体を踏まないように2階の大ホールに辿り着くと、再び血の海で横たわる多くの死体を発見した。何人かはまだ生きており、呻き声や助けを求める低い声が大多和たちの耳に届いた。ネズミ取りの捜査官は二人のSAT隊員に生存者の応急手当てを頼み、残りの4人を連れて大ホールに入った。

 引っくり返ったテーブルと椅子などで散らかったホールに入ると、大多和の目に懐かしい人物の顔が映った。

 「小木!」

 名前を呼ばれた小木が広瀬の死体から頭を上げて周囲を見渡した。

 同僚との距離が縮まるに連れて大多和は、彼の側に横たわる生気を失った広瀬と座り込んでいるパンツスーツ姿の女性の存在に気付いた。

 「西野は?」小木の前に来るなり大多和が尋ねた。

 「テロリストを追いに行った。」西野と荒井が走っていた方を指差して小木が言った。

 「広瀬さんは…?」

 「死んだよ…」小木の目は広瀬の死体に釘づけであった。

 「そうか…」そう言うと大多和は先輩捜査官の死体をしばらく見つめた。「俺は西野を追う。応援が来るまで、ここで待機してくれ。」

 「わかったよ…」

 「すぐ戻る…」小木の肩を軽く叩いて励ますと、大多和と4人のSAT隊員は西野たちが向かった方へ走り出した。








 狭い小道を縫うように白い2台のバンが進み、その後を黒い軽自動車が追っている。

 小道を抜けると、規制線と4人の制服警官が3台の行く手を阻んだ。しかし、テロリストたちの乗るバンは気にせず規制線を突破し、その際にバンを止めようとした制服警官2人が轢かれて道路脇に弾き飛ばされた。

 新村は規制線の直前に車の速度を落とし、「退いてください」と叫びながら制服警官たちに道を開けるよう左手を振った。彼女の声は届いていなかったが、轢かれた仲間を見た警官たちは軽自動車の接近を見るなり道路脇へ急いで避難した。二人の捜査官を乗せた軽自動車は規制線を越えると、加速して西野を連れ去った白いバンの後を追った。

 3台の車が小樽運河沿いの片側2車線の道路に入った。野村は助手席から身を乗り出し、短機関銃を構えると11メートル先を走る白いバンに向けて発砲した。狙いは後輪であったが、角度の悪さと手の震えでバンの車体と道路に銃弾が当たった。

 「距離を詰めろッ!」野村が運転席にいる新村に向けて言った。

 女性捜査官がアクセルを踏み込み、それと同時にバンの斜め後ろへ車を移動させた。

 銃撃を受けた白いバンの運転手はサイドミラーで追跡者の姿を確認すると、ルームミラー越しに後部座席にいる守谷を見る。「金魚の糞みたいに付いて来る車がいます。」

 「余興にはなるだろう…」守谷がニヤリと笑って言った。

 大男の中田が足元に置いていたロケットランチャーを持ち上げ、バンの後ろドアに手を伸ばそうとした時、額に切り傷を持つ男がそれを制した。

 「それは議員のために残して置け。こっちの方が面白いと思うぞ。」守谷は足元の鞄から手榴弾を取り出した。

 中田が小さく頷いてバンの後ろドアを開けると、守谷は手榴弾の安全ピンを抜いて外へ放り投げた。深緑色の球体は地面に音を立てて落ち、惰性で勢い良く後方へ転がって行った。

 テロリストの動きを見た野村は急いで助手席に戻り、ハンドルを左に切った。軽乗用車は縁石を乗り越えて歩道に乗り上げ、その直後に手榴弾が爆発した。ハンドルを切って逃げていなければ、手榴弾は車の真下で破裂していた。

 「上手く逃げたな…」守谷が再び手榴弾を取り出して安全ピンを外して歩道の方へ投げた。

 一方、新村は再び道路へ戻るためにハンドルを操作し、野村はテロリストたちの動きに注視した。

 「手榴弾に気を付けろ!」バンから目を離さずに野村が言った。しかし、彼は2つ目の手榴弾の存在に気付けなかった。

 「分かりました。」新村が再びアクセルを勢い良く踏み込む。

 その時、歩道で2つ目の手榴弾が爆発し、その破裂で生じたアスファルトの破片が黒い軽自動車の車体に降り注いだ。

 「クソッ!!」野村が悪態をついた。

 守谷は再び手榴弾を道路へ放り投げた。しかし、今度は間を開けずに次の爆弾を道路へ放った。1つ目のグレネードが軽自動車の2メートル手前で爆発し、その際に爆風と破片を浴びた軽自動車はバランスを崩して、新村はハンドルを握る手に力を入れなければならなかった。2つ目の手榴弾が爆発する寸前に野村は、ハンドルに右手をかけて左へ切って再び歩道へ逃げた。

 間一髪で手榴弾の上を通過することは免れたが、車体の右横に強烈な爆風を浴びた。車内にいる二人の捜査官は無傷であったが、軽自動車の方は爆風と破片の影響で車体は塗装も剥げた上に凸凹になっていた。窓も手榴弾とアスファルトの破片によって所々傷が付いている。

 「しぶといな…」歩道へ逃げた軽自動車を見て守谷が言った。彼は最後の手榴弾を鞄から取り出し、中田の方を向く。「車を撃て。」

 大男の中田はインサス(注:別記はINSAS [新インド小火器システム、Indian New Small Arms System])のアサルトライフルを構えると、歩道から道路に戻ってきた軽自動車に向けて発砲した。

 「頭を下げろッ!」新村にそう言うと、野村は怯まず助手席から身を乗り出して応射した。彼が予想した通りに中田は新村に狙いを定めており、銃弾は運転席側の窓に集中していた。白いバンは銃撃を受けると蛇行運転を始め、野村の銃撃を避けようとした。

 フロントガラスを突き破って頭上を通過する弾丸に恐怖した新村は、アクセルを踏む勢いを落とし、守谷たちとの距離が開き始めた。

 「加速しろッ!!」バンになるテロリストに向けて発砲する野村が怒鳴った。しかし、新村はアクセルを踏むことができなかった。

 「潮時だな…」守谷が手榴弾の安全ピンを抜き、軽自動車との距離が開き過ぎる前に手榴弾を落すようにして外へ投げた。








 「つまり、我々の中にテロリストの協力者がいると?」椅子の背もたれに寄りかかっていた黒田が尋ねた。

 「そうです。」水谷が真剣な眼差しで上司を見つめた。

 “広瀬も似た様なことを言っていたな…”目の前に座る分析から目を逸らさず、黒田は数時間前にした広瀬との会話を思い出した。“しかし、アイツは西野と共に消えた。”

 水谷を内通者だと思っていたネズミ取りの支局長は、分析官からの自白を予期していたが、目の前の男も「内通者の存在」を仄めかしてきた。直感で“モグラ”の存在を疑う広瀬とは違い、分析官の水谷は内通者の存在を疑う具体的な証拠を列挙した。しかし、どれだけ具体的なことを言われても黒田は信じられなかった。彼は水谷が自分の疑いを晴らすために嘘をついていると思ったのだ。

 “泳がせてみるか…”

 「すぐに戻る。」ネズミ取りの支局長が拘束室を出て、隣の部屋に入った。その部屋からマジックミラー越しに拘束されている水谷を見ることができる。黒田は部屋にあったノートパソコンを起動させ、自分のアクセスコードを使ってスパイウェアをインストールした。彼は一度電源を切って、ノートパソコンを水谷のところへ持って行った。

 「お前の言う証拠を見せてくれ。」黒いノートパソコンを分析官の前に置いて黒田が言った。

 「分かりました。」

 水谷がパソコンを起動させて作業に取り掛かり、ネズミ取りの支局長はその様子を椅子に座って見守った。事前に仕掛けたスパイウェアによって、水谷の動きは黒田のパソコンに転送される。目の前にいる分析官が裏切り者かどうか、それである程度の事が分かると黒田は思った。

 その時、拘束室のドアが開いて奥村が入って来た。「お話しがあります。」

 “いいタイミングだ。”と黒田は思った。彼が部屋を後にすれば、水谷が何かしらの行動に出る可能性がある。

 「どうした?」ネズミ取りの支局長は奥村と一緒に部屋を出た。

 「小田議員とその家族の避難が完了しました。議員は現場付近の警察署で休んでいて、家族もすぐ同じ場所に到着するそうです。」

 部下からの報告を聞いて黒田は胸を撫で下ろした。「無事で何よりだ。それで西野たちは?」

 「まだ確定した情報ではないのですが…」自信が無いためか、奥村の声が小さくなった。「現場にいたSAT隊員によると、西野さん、広瀬さん、小木さんはテロリストと交戦していたようです。」

 “また面倒くさいことになったな…”心の中で黒田が呟いた。“アイツらはテロリスト側ではないのか?”
 
 「そうか…新しい情報が入ったら、また報告してくれ。」

 「分かりました。」奥村が自分の机に戻るために走り出した。

 「奥村ッ!」黒田が部下を呼び止め、急いで駆け寄った。「過去24時間の水谷の行動を調べてくれないか?」

 「でも…」

 「忙しいと思うが、急ぎで頼む。」
 







 「お邪魔でしたか?」藤木が笑みを浮かべながら尋ねた。彼の隣には小柄の女性が立っており、彼女の右手には消音器が取り付けられたUSP拳銃が握られている。

 「議員の近くにいた方がいいじゃないのか?」挙げていた両手を下げて中島が言った。

 「議員はもう安全な場所に移動しましたし、私は“彼”に用があるので…」藤木が這って逃げようとしている中年男を指差した。

 「俺もアイツに用がある?」と中島。

 「何故です?」藤木は中島の意図を理解しながらも尋ねた。

 「アイツの仲間に会いたいのさ。」

 「前にも言いましたが、あなたはこの件から―」

 「分かってるさ…」SAT隊員が藤木を遮った。「でも、こんな機会を逃すなんてことはできねぇよ。」

 元公安警察の男は中島に同情しており、もし自分が同じ状況に立たされれば、同じく復讐を考えるだろうと思っている。

 「気持ちは分かりますが、危険なことですよ。特に何所に敵がいるか分からない状況下では…」

 「だから、あの男に聞くのさ。」逃げようとする佐藤に歩み寄りながら中島が言った。

 「テロリストの居所の話しじゃないですよ。私が言っているのは、ネズミ取りの中にいる内通者のことです。」

 抵抗する佐藤の右手首を掴んで時計周りに捻り上げると、SAT隊員はすぐしゃがみ込んで中年男の右腕を相手の背中に押し当て、素早く左腕を掴んでテロリストの両腕を後ろで固定した。

 「何か縛る物はあるか?」と中島。

 すると、藤木の隣にいた小川がSAT隊員に近づき、上着の下から結束バンドを3本取り出して手渡した。

 「ありがと。」中島は手慣れた手つきで佐藤の両手首を縛り上げ、次に残りの2本で中年男の左右の膝上をきつく縛り上げた。小川が佐藤の両脚のふくらはぎを撃ったので、出血している箇所の上を閉めて止血を試みたのだ。「それで…その内通者ってのは誰なんだ?」

 「それが分かれば、苦労しないですよ。だから、私は小川ちゃんと二人で密かに行動してるんですから…」

 「目星は?」立ち上がって中島が問い掛けた。

 「付いてますが…知りたいんですか?」

 SAT隊員は黙って藤木を見つめた。元公安の男は顔に浮かべた笑みを崩さなかったが、一度、俯いて再び中島を見た。

 「野村信一と水谷洋平です。」

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13-7





 何も起こらなかった。

 確かに菊地は引き金を引き、撃鉄も落ちた。しかし、弾は発射されなかった。

 大学教授がもう一度引き金を絞ろうとした時、西野が素早く菊地にタックルして転ばし、銃を奪い取ろうとする。初老の老人は背中を強打したが、銃を守ろうと必死に抵抗した。

 その時、守谷が西野の右足首を掴んで菊地から引き離した。潜入捜査官は突然のことに驚いたが、すぐに左足を突き出して左腕を被弾した男の右腕を蹴った。それでも守谷は怯まずに西野を菊池から引き離すと、右踵を捜査官の腹部に叩き込んだ。激痛によって西野の肺から一気に空気が飛び出し、両手で腹部を庇いながら体を右によじった。

 菊地信弘は北朝鮮製のマカロフの遊底を引き、不発弾を弾き出して再び銃口を西野に向ける。一方、大学教授が銃を向けようとしていた時に西野は落としたSIG拳銃を見つけ、守谷の踵落としを回避すると同時に右へ回転し、そして、拳銃を取った。
 
 慎重に狙って撃ったにも関わらず、菊池の銃から放たれた銃弾は西野を捕らえることができなかった。彼はもう一度西野へ向けて発砲しようとする。だが、守谷が捜査官に接近したために引き金にかけていた指から力を抜いた。

 守谷が接近するのを見ると、西野は銃を敵に向けて引き金を引いた。しかし、狙いが甘く、3発の内2発が額に傷を持つ男の左肩上の空気を切り裂き、最後の1発が守谷の左肩を捕らえた。ここで拳銃の弾が尽きた。

 左腕から血を流す守谷は雄叫びを上げて西野に襲い掛かり、右手で捜査官の首を絞めた。男の力は強く、酸素を求める西野がいくらもがいてもビクともしない。咄嗟に捜査官は弾の切れたSIGの銃床で守谷の額を殴った。この攻撃で塞がっていた額の傷が開いて血が噴き出し、西野の首を絞める手の力が少し緩んだ。捜査官は再び銃床で男の額を殴った。今度は先ほどよりも力を込めて殴り、傷口から飛び出した血が西野の顔に降り注いだ。守谷は呻きながら後退し、額から落ちてくる血によって視界を奪われた。

 次に西野は弾の切れたSIGを菊池に投げつけ、距離を縮めると菊地の拳銃を無理矢理取り上げた。そして、大学教授の腹部に向けて2度撃ち、続いて血を拭って目を開けようとしている守谷に銃口を向けて2度引き金を絞った。菊池はその場に座り込み、守谷はバランスを崩して転び、その際に後ろへ転がりながら輸送機から落ちた。

 素早く西野は操縦席へ銃を向け、一言も警告を発せずに操縦者の頭に1発の銃弾を叩き込んだ。操縦士の血が窓と計器に降り注ぐ。

 続けて副操縦士の頭を撃ち抜こうとした時、菊池が立ち上がって学生を守ろうと右手を銃口の前に伸ばした。捜査官の発砲した銃弾が菊池の右人差し指と中指を吹き飛ばし、これによって弾道が逸れて計器に命中した。輸送機は離陸体勢に入っていたが、操縦士の死と副操縦士の混乱がそれを困難にしている。

 潜入捜査官は大学教授を押し退けて副操縦士を撃った。撃たれた学生は即死し、床に叩きつけられた菊池は虫の息であった。

 操縦士を失った輸送機であったが、死体が操縦桿を左に傾けたために急激に傾き、そのまま基地にあった建物に激突した。




















 「この一件は火災事故にすべきだろう…」

 内閣総理大臣が突然口を開いた。それまで彼は閣僚たちの話しを聞いているだけで一言も発していなかった。
 
 閣僚やその場にいた関係者はただ唖然としていた。彼らは数時間前に自衛隊基地で起こった出来事について話している。
 
 「しかし、総理…」官房長官の小田完治が右隣にいる異常なほどに痩せこけている総理大臣に言う。「これほどの事となれば…」
 
 「下手な混乱を生むのは良くないだろう。違うか、小田?」

 「この件を隠蔽することは不可能かと…それにこれは公表すべきことです。」

 総理が小田の方に体を向けると机に左肘をついて身を乗り出した。「お前、これが絶好のチャンスだと思っているだろ?」

 小田は目の前にいる男が言っていることが理解できなかった。それは他の閣僚たちも一緒であった。

 「対テロリスト機関…」総理が自分の椅子に戻る。「これを作るには絶好の機会だ。それにお前、この事件が起きる前に何かコソコソしていたな。お前、何か知っていたんじゃないか?」

 室内にいた全員の目が小田に集まる。小田は心臓が縮まるような感覚に襲われたが、表情を変えずに総理大臣から目を離さなかった。

 “公安に通報したのが漏れたのか?しかし、それだけでは―”

 突然、総理大臣の顔に笑顔が広がった。「冗談だよ。」

 室内を満たしていた張り詰めた空気がこの一言で薄くなり、小田は笑みを総理に返すと机の上に置かれた書類挟みへ視線を戻した。

 “どうやら違ったようだ。”

 「個人的に…」総理が再び口を開く。「君の案には賛成だよ。アメリカも賛成している。他の国々も。でも、対テロ機関を公のものにすることには反対だ。こういうものはできるだけ、秘密にすべきだ。」

 「しかし―」小田が総理の話しを遮る。

 総理が官房長官を睨みつけた。

 「私は君の案を進めるつもりだ。しかし、国会では話し合わない。野党は確実にこれに反対するだろう。それに私はもうすぐ引退する…」

 “そういうことか…”総理の意図を読み取った小田は口を噤むことにした。“全て私に負わせるのか…”








 菊池たちが引き起こしたテロ攻撃は、「自衛隊基地で発生した火災」として報道された。

 しかし、近隣住民は爆発音と銃声を耳にしており、それらの情報はソーシャルメディアを通じて広く日本、そして、世界中に伝わった。

 政府は野党とマスメディアに追及されたが、「爆発音と銃声のようなものは、火災によって生じた音であって、まことしやかに囁かれている自衛隊とテログループによる戦闘ではない」と否定した。その後、数か月に渡って報道されたが、世間の関心事は別のスキャンダルへ移り、この自衛隊基地攻撃は次第に人々の記憶から薄れて行った。

 ここまでが表向きの話しである。

 事件後、防衛省はすぐに警察庁を責め、基地内への警察関係の立ち入りを拒否した。この対応の背景には公安警察主導の潜入捜査があった。

 航空自衛隊入間基地で潜入捜査官だと名乗る男が拘束されたことが発覚すると、防衛省は警察庁の怠慢に怒りを覚えた。彼らは警察庁がテロ攻撃と潜入捜査の情報を共有していれば、防げた事件だと信じて激しく抗議した。

 一方の警察庁は防衛省の主張を否定した。事実、彼らはテロ攻撃の情報を掴んでいたが、その標的までは掴んでいなかった。ゆえに潜入捜査官を2名送り、詳細な情報を入手しようとしていたのだ。しかし、テログループの警戒心の高さと妨害があったために攻撃標的を事前に知ることができなかったと報告した。

 防衛省は警察庁の報告を詭弁とし、入間基地の捜査から警察を排除しようとして両者の間で激しい言い合いが始まった。だが、政府からの要請もあり、両機関は表面上捜査協力を約束し、争いに終止符を打つことにした。








 「吉崎美由紀さんはいますか?」

 受付にいた女性が顔を上げると、短髪に髭面の若い男性が見えた。髪は短く整えられているのに、顔の半分が髭で覆われている。その男は埃を被った灰色のネルシャツと色褪せたジーンズを身に纏っていた。

 「どちら様ですか?」若い受付担当の女性が作り笑いを浮かべて尋ねた。

 「西野、西野史晃です。」

 「ご用件―」

 作り笑いを浮かべながら女性が尋ねようとした時、彼女の隣にいた先輩らしき女性職員が西野顔を見て口を開いた。

 「吉崎さんは亡くなりましたよ。」

 西野は目を見開いて30代半ばに見える女性職員の方を向いた。

 「先月のことですよ。知らないん―」

 学生として大学に潜入していた男は眩暈を憶え、女性の声を聞く余裕もなかった。

 “美由紀が死んだ…?”








 棺の中で横たわる三浦大樹の顔は綺麗に整えられていたので、誰も彼の顔に薄く残っている切り傷や内出血に気付くことはなかった。

 大勢のSAT隊員や同期の警察官も忙しい中、三浦の葬儀に駆けつけてきた。その中には中島とその家族も含まれている。しかし、弟の様に可愛がっていた後輩の死を中島はまだ受け入れられなかった。

 “まだ何所かで生きているに違いない。きっと、あの人懐こい笑顔を浮かべて戻ってくる。これも捜査の一部だ…”中島はそう思いたかった。

 「ねぇ、お父さん…」5歳になる息子が中島の左手を引いた。「三浦の兄ちゃん、何で寝てるの?」

 後輩の死を受け入れたくない男は息子の問いに戸惑い、それと同時に込み上げてくる涙を必死に抑えた。

 「お兄ちゃんは…」声を出すと涙が出そうになり、中島はここで言葉を飲んだ。そして、自分でも認めたく言葉を口にした。「お兄ちゃんは、天国に行ったんだよ…」








 『今の自分』に嫌悪感を抱く西野は吉崎美由紀に会えば、『昔の自分』に戻れると思った。再び彼女と一緒になり、新しい職を見つけ、結婚し、子供を授かり、一緒に年老いて幸せに暮らしたかった。彼は『普通の人生』を送りたいのだ。

 “事情を話せば分かってもらえる…”西野はそう思った。“警察官を辞めれば、もうあんな連中と関わることもなくなる…”

 しかし、吉崎美由紀はもうこの世にいない。西野が潜入捜査後に抱いていた希望の光はもう存在しないのだ。

 西野は愛した女性の死因を探った。皮肉なことに彼が潜入捜査官になる際の訓練が、この調査の役に立った。まずは吉崎美由紀の死に関する情報を探し、地元新聞紙に書かれていた「女性会社員の自殺」に関する記事で彼女の名前を見つけた。小さな記事であったために詳細なことは書かれていなかったが、死亡した場所と日時は特定できた。

 次に彼は公開されている吉崎のSNSを隈なく調べた。投稿された文章、写真、動画などに目を通して手掛かりを探すも、特に目立ったことは何もない。また、SNSで見つけた投稿の大半が食事や友人たちと遊んでいる写真と動画であった。

 “美由紀は自殺するような人じゃない…”

 吉崎が登録しているSNSサイトで西野は適当な名前でアカウントを複数作成し、新聞記者やアンケート業者を偽って吉崎美由紀の友人たちにスパイウェア付きのメッセージを送った。これでメッセージを開けば、スパイウェアが作動して開封者のデータを見ることができる。意外と引っ掛かる人が多く、その中には新聞記者を装ったメッセージに真摯に答えてくれる人もいた。

 この調査で分かったことは、吉崎美由紀が上司の角田陽平という男に迫られていたということであった。西野はすぐに角田を調べ上げ、彼の携帯電話とパソコンをハッキングし、吉崎に繋がる情報を求め、元警察官は見つけた。吉崎からのメールは削除されていたが、彼自身が送ったメールの方はあまり手が付けられていなかった。

 西野はすぐに送信メールをコピーして読み、角田が執拗に吉崎を食事や飲みに誘っている事実を見つけた。吉崎の友人や同僚たちから似た話しを得ていたので、このメールはその情報の裏付けとなった。それに角田陽平は警察からも容疑者として目を付けられていたので、西野は彼が犯人だと断定した。

 既に標的の行動確認を終えていた西野は、角田の帰宅時間が迫るとすぐに彼の自宅に電話をかけ、角田陽平が病院に運ばれたと電話に出た男の妻に嘘を言った。そして、その数分後に子供を連れた角田の妻がマンションから飛び出してきて、タクシーを拾うのを西野は見た。タクシーが見えなくなると、元警察官は落ち着いた足取りで角田一家の住む部屋に向かった。








 「この二人か…」机に置かれた2つの写真を見て小田が呟いた。

 官房長官の前に座る杉本哲司は何も言わず、彼が並べた西野と三浦の顔写真を一瞥した。

 「二人は…今どこに?」写真から顔を上げて小田が尋ねる。

 「一人は亡くなり、もう一人は行方不明です。」杉本が最初に三浦の写真を、次に西野の写真を指差して答えた。

 「遺族に死因を告げたのか?」

 「いいえ。機密情報であるため、訓練中の事故死という扱いにしました。また、三浦巡査部長の交際相手であり、死亡した高橋恭子は別件で事故死になっています。」手元に置いていた書類を見ずに杉本が言った。

 「もう一人の行方不明の方は?」

 「行方不明と言いましたが、既に発見して部下を派遣しています。」

 「彼を引き入れる予定なのか?」小田が口を「へ」の字に曲げて訊いた。

 「はい。」頭に白髪が混じっている杉本が頭を縦に振った。「残念ながら、彼はもう“こちら側の人間”です。それにこれは彼のためです。」

 「本当にそう思うか?」官房長官は疑いの目で杉本を見た。

 「彼は生きる“目的”を失い、いずれ自殺を試みると思います。私は彼に新しい目的を与えたいのです。そうすることが、彼のためだと思います。」








 海辺にある公園で西野はベンチに座っていた。

 街は黎明の色に染まっており、たまにカモメや鴉の鳴き声が聞こえてくる。西野はその鳴き声を無視して波の音に耳を澄ませていた。彼の視界に入るのは海と転落防止用の柵しかない。古びたジーンズから彼はポケットナイフを取り出した。

 “これでいいんだ…”

 「ちょっと若すぎるんじゃないですかね?」

 紺色のコートを羽織った男が西野の隣に座った。西野は驚いてナイフを落としそうになった。

 「いや~、いい場所ですね。東京にもこんな場所あればいいのに…」男は銀縁眼鏡をかけており、コートの下にはコートと同じ色のスーツを着ている。

 「誰だ?」

 「私ですか?」

 男はコートの内ポケットから名刺を取り出して西野に見せた。名刺には『日本交通保安協会 藤木孝太』と書かれていた。

 「自己紹介はこんなもので…少しお話しをしませんか?」

 「話し?」

 「そうですよ。あなた、自殺しようとしてたでしょ?もったいない!命は大事にしないといけませんよ。」

 男の話し方に苛立ってきた西野は立ち上がった。

 「あなたが自殺を選んだら美由紀さんが悲しむと思いますよ。」銀縁眼鏡の男が呟く。

 これを聞いた西野はベンチに座る男を睨みつけた。

 “当たりだ!”藤木は自分を睨みつけている男を見てそう思った。

 「話しを聞いてくれるつもりになりましたか?」

 「その名前をもう一度言ってみろ―」

 「『殺すぞ!』ですか?」藤木が西野を遮って言った。「私がここに来た理由はあなたとケンカするためじゃないですよ。大切な人を亡くしたのはあなただけじゃない。」藤木の脳裏にある男の姿が浮かんだが、すぐに気持ちを切り替えた。「座ってくださいよ。そうじゃないと、変な奴らが出てきますよ。」

 藤木の言葉を聞いて西野はようやく囲まれていることに気付いた。3メートル前方に一人スーツを着た男、5メートル先の背後にもスーツ姿の男が一人。西野は大人しくベンチに座ることにした。

 「ありがとうございます。早速ですが、本題に入りたいと思います。あなたの経歴を読ませてもらいました。私の上司はあなたを非常に気に入っていて、できれば明日からでもあなたに働いてもらいたいと言っています。」

 「人違いだろ?俺は―」

 「西野史晃さん。元巡査部長。一年の潜入捜査後に辞職。その後は行方不明…となってましたが、意外とすぐにあなたを見つけることができました。」

 「天下り機関が元警察官に何の用だ?もっと補充すべき役人がいるだろう?」と西野。

 「ただの天下り機関だったら、あなたをスカウトするために東京からわざわざ来ませんよ。」

 「だったら何だ?」

 「秘密です。もし、こっち側の人間になれば全てを教えることができます。」

 「詐欺師にしては手口が下手だな。」

 藤木が笑みを浮かべた。「国家機密をそうそう漏らすことはできません。それにあなたを騙すつもりなんて微塵もない。」

 「じゃ、何が目的だ?」

 「目的はあなたをスカウトすることです。」

 「違う。俺が聞いているのはお前らの魂胆だ。」

 「『魂胆』…」銀縁眼鏡の男が西野から海へ視線を移動させる。「西野さん、あなたなら分かると思いますよ。」

 「話しをはぐらかすな。」

 「してませんよ。では単純に言いますと…この国はもう安全ではないんです。あなたも知っているでしょ?」

 西野の脳裏に菊池信弘や三須たちの顔が浮かんだ。

 「それに…頭の狂った連中のせいで、誰かが泣くところなんて見たくないんですよ。」

 西野は何も言わなかった。しかし、彼は藤木の意図を理解していた。

 “対テロ機関を新たに創設しようとしているのか…”

 「この国はあなたのような人を求めています。私と一緒に東京に来てくれませんか?」

 古びた服を着た西野は無言のまま海を見続けた。

 藤木はコートのポケットから携帯電話を取り出し、西野が来ているネルシャツの胸ポケットにそれを滑り込ませた。

 「返事は次回でも結構です。その携帯に私の番号が入っているのでいつでも連絡できます。良い返事を期待しています。」そう言って藤木がベンチから立ち上がる。

 「ちょっと待て!」公園から立ち去ろうとした藤木を西野が呼び止める。「俺は無理だ。もう俺は…そっち側の人間じゃない…」

 「それを決めるのは私の上司です。あなたじゃない。あなたが誰を殺して山に捨てたことなんて、私にとっては別に問題じゃない。それに…」藤木が西野に近づく。「部下を強姦し、妊娠したことを知るなりビルの屋上から突き落とした人が消えたって…困る人は少ないでしょ?」

 「何で―」

 「ご安心を。私はあなたの味方です。人間誰しも頼れる人間が必要ですよ、西野さん。私はその内の一人です。」















 全てを話し終えると、藤木は溜め息をついた。

 “喋りすぎたかな?”

 話しを聞いていた中島は砂場で遊ぶ娘を見守っていたが、隣に座る男が口を閉じると視線だけを藤木に向けた。

 「残党狩りはいつだ?」SAT隊員の声は落ち着いていた。しかし、彼の胸は高鳴っている。

 「話しを聞いてなかったんですか?あなたはこの事件に関わるべきじゃない。」

 「お前に止める権利も義務もないだろ?」

 「ありますよ。」ここでネズミ取りの捜査官は口を閉じた。「これ以上、知り合いを失くすのはツラいですよ…」

 これを聞くと中島は鼻で渡った。「まだ隠し事があるみたいだな…」

 「まぁ、それは次回にしましょう。」ベンチから藤木が立ち上がった。「もし…もしも、奴らと対峙することになったら…その時は分かってますよね?」

 「分かってるよ。」ネズミ取りの捜査官を見ずにSAT隊員が返事した。言い合いを避けるために言ったことであり、本心では別のことを考えていた。

 “対峙することになれば、その時は全力でぶっ潰す…”




















 目覚めると、天井に広がる大きな黒い汚れが見えた。室内はカビ臭い上に肌寒くて薄暗かった。

 守谷は起き上がろうとしたが、左腕と腹部に走った激痛で上体を起こすこともできない。仕方なく頭を動かして室内の様子を調べた。畳三畳分の部屋で彼が横たわっているベッドしか家具はなく、天井から小さな豆電球が1つぶら下がっている。

 彼から見て右側にあるドアが開き、三須が入って来た。目覚めた守谷を見るなり三須は口元を緩めて友人に近づいた。

 「起きたか?」

 「あぁ…ここは?」

 「病院だよ。違法な病院だけど…お前は運が良いよ。無理を言って中田に戻るように言い、車で滑走路に侵入しようとした時に道路の真ん中で倒れていたお前を見つけた…」

 「先生はどうなった?」守谷が右肘をついて身を乗り出した。彼の額は包帯で巻かれており、傷のある部分が少し赤く染まっている。

 「あまり動くな。傷はまだ塞がってない。」

 「答えろ!先生はどうなった!?」声を荒げると、腹部に激痛が走って守谷は再び横になった。

 「先生は…亡くなった…」三須の声には落胆の響きが含まれていた。「輸送機の操縦ミスだろう…政府はあれを火事と言って―」

 「操縦ミスじゃねぇよ。あれは小林のせいだ…アイツも裏切り者だった…」

 「どういうことだ?」

 「小林がいきなり格納庫にやってきて撃ってきた。俺と寺尾を撃ち、先生にまで襲い掛かった…奴も警察の手先だったんだ…」

 三須は信じられなかった。彼は西野を非常に信頼しており、心強い味方の一人だと思っていた。

 「本当に小林だったのか?」大学院生は守谷の間違いだと信じたかった。

 「確かだ。アイツと殴り合い、撃たれた…お前も俺の傷を見ただろ?これは小林の仕業だ!」

 信頼する友人の言葉を聞いて三須は色々と考えを巡らせた。

 “事実を確認する必要がある…”

 「何を考えてる?今すぐに仇を―」

 三須が右手を上げて守谷を制した。「感情的になるな。そこがお前の欠点だ。」

 そう言われて守谷は口を噤む。

 「仇は取る。だが、その前に準備が必要だ。今まで以上の準備が…」

 「何か考えがあるのか?」

 「ある。だが、時間が掛かる。」

 「もたもたしてる時間はないぞ!」

 「分かってるよ。」半ば呆れ気味に三須が言った。「大丈夫。奴らにはちゃんと報いを受けさせるさ…大きな報いを…」

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13-6







 三須に付き添われてトイレから戻ってきた西野は、水で満たされたバケツに携帯電話を放り込む複数の男女を目撃した。

 「あれは?」三浦の死からまだ立ち直れていない西野が三須に尋ねた。

 「準備だよ。計画が早まってね…」

 この言葉に西野は驚き、心臓が激しく動悸した。

 「早まった?」

 「君も見ただろ?あのネズミのせいで、先生が計画を明日の夜に早めたのさ。」

 “大原さんに知らせないと…”

 西野がそう思っていると、守谷が近づいてきた。

 「お前の携帯もバケツに入れろ。」

 「SIMカードを抜いてもいいか?大事な連絡先が―」

 「連絡先なんてどうでもいい。ぶつぶつ言ってないで、早くしろ!」

 守谷に怒鳴られて潜入捜査官は渋々スマートフォンを上着のポケットから取り出し、それをバケツに満たれた水の中へ落とした。沈んで行く携帯電話を見つめていると、三須が西野の左肩に手を置いて潜入捜査官に微笑みかけた。

 「何事にも犠牲は付き物だよ、小林くん。それにデータなら、あとで簡単に修復できる。」

 三須の慰めを聞いても西野は何も言わなかった。彼は連絡係との緊急連絡先を思い出すのに必死だった。始まりと終わりの数字は憶えているが、真ん中2桁の数字が思い出せないのだ。

 「先生が来たぞ。」守谷が三須と西野に呼びかけた。

 「菊地先生に会うのは初めてだったよね?」三須が西野に訊く。

 「はい…」潜入捜査官はまだ電話番号を思い出そうとしている。

 「緊張しなくても大丈夫さ。」西野の表情を見て三須が言った。「先生はとてもいい人だよ…」








 潜入捜査官からの連絡が途絶えて二人の連絡係は動揺し、机に置いている携帯電話を凝視することしかできなかった。

 「正体がバレたのか…?」三浦の連絡係である山中が呟いた。

 「いや…」大原が首を横に振る。「45分前までは西野と連絡が取れていた。」

 「その後に捕まったかもしれないだろ!」山中が声を荒げた。

 「分からない。もう少し待ってみよう。」

 「係長に連絡した方が良さそうだ。問題が大きくなる前にしないと…」三浦の連絡係は頻りに体を震わせていた。

 大原は同僚の状態の方が心配だった。

 「もう一度、西野の位置情報を確認してみないか?」と山中。

 「無駄だと思うが…」

 「やってみる価値はあるだろ?」

 「わかったよ…」大原がスラックスのポケットからスマートフォンを出した。








 学生たちは半円を描くようにして菊池信弘を取り囲み、大学教授の言葉に耳を傾けていた。

 「これから6つのグループに分かれてもらい、それぞれ別々の場所で車を借りてもらう。」

 「目的地は何所ですか?」と学生の一人が尋ねた。

 「埼玉県の入間市だ。」守谷が菊池の代わりに答える。

 「何故、早まったんですか?」別の学生が菊池に向かって訊く。

 「準備は既に整っていた。そして、もう待つ必要は無いと思ったからだよ。」大学教授は三浦の件を言わなかった。学生たちが警察の潜入捜査を知れば士気が下がると思ったのだ。「詳細は後でGメールの下書きに書き込んでおくので、各自で確認して欲しい。」

 “Gメールの下書き?”西野はその存在を知らされていなかった。

 彼がメールアカウントの存在に疑問を持っていると、三須が黒いゴルフバッグ2つを菊池のいる机の前に置いた。

 「各グループに同じゴルフバッグを2つずつ持って行ってもらう。一つには普通のゴルフグラブ、もう一つには武器と簡単な銃器の取扱説明書が入っている。」菊池がゴルフバッグを指差しながら説明する。「私からは以上だ。健闘を祈る…」

 大学教授がその場を後にすると、三須が菊池のいた場所に立った。

 「これから少額だが、活動資金を渡す。それで乗り物を借りるんだ。」上着の内ポケットから三須が6つの封筒を取り出して机の上に並べた。「それから無線機も提供する。周波数はGメールを確認してくれ。」

 「Gメールのアカウントを知らないんですが…」と西野が声を上げた。

 「すぐに教えるよ。」と三須。








 大原がスマートフォンから顔を上げ、答えを待っている同僚を見た。

 「ダメだ。全く反応がない。もしかしたら、電源を切ってるかもしれない。」

 「やはり捕まったか…」冷や汗を額に浮かべている山中が言う。
 
 「分からない。それに三浦の安否だってまだ―」

 「三浦は捕まったさ!あの連絡は救助要請だった!三浦は捕まって殺されたに違いないッ!そして、彼が西野のことも話せば、西野も捕まって殺される…」

 山中の叫びに大原は動揺した。“ありえるな…”

 「係長に連絡して三浦と西野が言っていた連中の拠点に乗り込もう。そうすれば、十分な証拠も掴めるはずだ!」

 “できれば避けたいことだが…”

 「分かった。係長に連絡して連中を捕まえるか…」大原が再び携帯電話に目を戻し、番号を入力し始めた。








 6つのグループが編成され、西野は『野坂』という男が率いるグループに入った。この班には他に『小出』、『糸井』、『大久保』の三人がおり、彼らは西野と野坂同様に京都大学に所属している学生であった。

 潜入捜査官は隙を見て連絡係の大原に電話しようとバケツから携帯電話を取り出したが、それは既に壊れていた。彼は静かにそれをバケツに戻し、自分のグループへ急いだ。

 「糸井が車を借りに行った。アイツが戻るまで俺たちは待機だ。」坊主頭の小出が言った。彼は今日のために髪を切った。この男にとって散髪は気を引き締めるための行為なのである。

 「他のグループは?」周囲を見渡して西野が尋ねる。

 「それぞれ車を探しに行ったよ。同じ場所にいても怪しまれるだけだし…」大久保がスマートフォンを見ながら言った。

 「そう言えば…あの男は…どうなったんだ?」恐る恐る潜入捜査官が訊いた。

 「あの男?」と小出。

 「守谷さんに始末された奴か?」大久保が西野を見る。「アイツは女がいる場所に連れて行かれたよ。自殺したように見せるらしい。」

 “女…?”西野は何のことだか分からなかった。

 「あの男の他に誰か殺されたのか?」潜入捜査官が大久保に尋ねた。

 「何も知らないんだな…高橋って男は警察のイヌで、それの元締めが女警察官だったんだ。」

 “彼の連絡係は男性だったはず…殺された女性は何者だ?”

 西野は詳細な情報が欲しかったが、これ以上の詮索は疑惑を生むと考えて口を噤んだ。








 二人組の男は視線だけ周囲に配って警戒しながら10メートル先にある建物の裏口に近づいた。男たちは共に黒いスーツ姿でその下に白いシャツを着用し、ネクタイはしていない。

 彼らは裏口の横に立つと上着のボタンを外し、右裾を後ろへ押しながら腰のホルスターに触れた。そして、拳銃の銃把を掴んで静かに引き抜き、次に左手で上着の左ポケットに入れていた短い消音機を取って銃口に捻じ込んだ。

 「配置に着いたか?」男たちの右耳に差し込まれているイヤフォンから大原の声が聞こえてきた。

 「甲班、配置に着いた。」黒いUSP拳銃を腰に押し当てて待機している七三分けの髪型の男が応えた。拳銃とスーツの色が同色なので、遠くから見れば彼が銃を持っているとは分からない。

 「乙班、こちらも配置に着いた。」別の班の声がイヤフォンを通して聞こえてきた。こちらの班は正面入り口の付近にいる。

 「できれば発砲するな。三浦と西野の保護が優先だ。」

 「了解。」

 そう言うと、七三分けの髪型をした男が後ろを振り返った。彼は左手を顔の横に置いて指を三本立てた。男の後ろにいた眉毛の太い同僚はUSPの撃鉄を下ろしてカウントを見守った。

 3…2…1…

 ドアノブを回して先頭に立つ男が室内に侵入した。両脇をしっかり締めて銃を小さく構える二人は壁沿いに移動し、ドアがあると静かに素早く室内を確認して前進した。しかし、全く人気がない。室内には塩素の強い匂いが漂っている。

 進んで行くと二人は乙班と合流した。合流後、前進を続けると異臭が彼らの鼻を突いた。西野と三浦を探しに来た公安機動捜査隊のメンバーは異臭の発生源を求めて地下室へと進んだ。道中で彼らは強い消毒液の臭いを嗅いで咽そうになり、地下室のドアを開ける時には目に涙が溜まっていた。

 ドアの向こう側には首を吊った男性と血の海の中で倒れる女性の遺体があった。

 急いで七三分けの髪型の男が首吊り遺体の顔を懐中電灯で照らして確認する。顔が酷く腫れ上がっていたが、男は写真の顔を記憶していたので、それが保護対象者であることに気付いた。

 “遅かったか…”

 すると、眉毛の太い男が折り畳みナイフを取り出して三浦の首を圧迫している縄を切った。すぐに七三分けの髪型の男が三浦の死体をしっかりと掴んで静かに床に寝かせる。

 一方、乙班は三浦の交際相手であった高橋恭子の顔写真を取って大原に送信した。彼らは彼女の存在を知らなかったので、高橋がテロリストの仲間かと思った。

 「三浦大樹の遺体を確認。また、身元不明の女性の遺体も発見しました。」七三分けの男が大原に報告する。

 報告を受けて大原は言葉を失った。“やはり死んでいたか…”

 「零、聞こえていますか?」七三分けの男が尋ねる。大原たちのコードネームは『零』であった。

 「き、聞こえてる…」ようやく大原が口を開いた。「二つの遺体を運び出してくれ。先程の場所で合流しよう。」

 「了解。」








 6時間を超える長距離運転を経た菊池たちのグループは、二手に分かれて埼玉県の入間市と狭山市のビジネスホテルで準備を整えている。

 菊池と行動を共にする三須が大学教授の利用しているツインベッドルームにゴルフバッグを持って入って来た。彼は慎重に縦長の鞄をベッド横に置き、中に入っていた長い布をベッドの上に敷く。続けて三須は鞄の中から武器を取り出して、ベッドに敷いた布の上に並べ始めた。

 「私の分はいらないよ。」菊池がテレビの電源を入れて言った。これは銃器の可動テスト音を少しでも消すためであった。

 「しかし、拳銃だけでも―」

 「いらないよ。」

 これ以上言っても無駄だと思った三須は口を閉じて黙々と弾倉の込められていない武器を布の上に並べる作業を続けた。そして、全ての武器を並び終えた頃に行動を共にする4人の学生が二人のいる部屋に来た。彼らはベッドの上にきちんと並べられている武器を見て胸を高鳴らせた。

 “遂にこの時が来たんだ!”

 学生たちは割り当てられた銃器を手に取って動作の確認作業を行う。遊底を何度か引いたり、引き金を絞ったり、空の弾倉を出し入れするのが主な確認であり、分解して掃除をするようなことはしなかった。

 この作業を終えると彼らは空の弾倉に銃弾を詰め込み始めた。ロシア製のマカロフ拳銃を模した北朝鮮製の拳銃のように装弾数の少ない物であれば、比較的簡単に銃弾を詰め込める。しかし、AK-47を模造した中国製の56式自動歩槍やフィリピンで密造されたUZIのコピー品などはそう簡単に弾を込めることはできない。弾倉内のバネが強力なので、詰め込み作業中に右親指が赤くなって手を休める学生も多かった。

 武装の準備は他のホテルでも行われており、西野も共に行動する4人の男と弾倉に銃弾を詰め込んでいた。西野以外の男たちは短機関銃または突撃銃を求め、潜入捜査官は残っていたマカロフ拳銃を模した北朝鮮製の拳銃をあてがわれた。

 その後、準備作業を終えた学生たちはそれぞれの部屋に戻って眠ることにした。しかし、彼らは遠足前夜の子供のように緊張して眠ることができず、スマートフォンでGメールに書かれている計画書に何度も目を通した。

 西野はこれが最後の機会だと思い、室内に備え付けられていた電話で連絡役の大原に電話しようとした。大原の電話番号を頭の中で復唱しながら受話器に手を伸ばすと着信音が鳴り、潜入捜査官は驚いて伸ばしていた右手を引っ込めた。突然のことに西野は驚いて固まってしまったが、すぐに受話器を取り上げた。

 「もしもし?」と西野。

 「小林くんかい?」

 電話は三須からであった。彼は西野が所属するグループの野坂からメンバーの部屋番号を聞いており、各グループのリーダーたちと最後の会話も終えていた。

 「はい。どうしました?」

 「少し話せるかな?今、君のいるホテルのロビーにいるんだ。」

 「今から行きます…」そう言って西野は電話を切った。








 その頃、2台の白いバンが入間市に到着した。1台は守谷が運転しており、もう1台は中田という男が運転していた。それぞれ別のルートを使い、そして、予約した別々のホテルの地下駐車場にバンを停車させた。

 バンの積荷は硝安油剤爆薬ことアンホ爆薬であった。爆弾はプラスチック製の30Lサイズのドラム容器に入れられており、それは食器などの家庭用品が収められた段ボールの下に隠すように積まれていた。無関係な段ボールを積んだ理由は引っ越し業者と偽るためである。各バンに積まれている爆薬の数は10個、合計で20個である。三須と守谷はこれだけあれば、撹乱と防護柵の破壊ができると思っていた。

 目的地に到着すると、守谷と中田はチェックインを済ませて仮眠を取ることにした。








 「そんなに驚かなくてもいいだろ?」笑みを浮かべて三須が言った。

 西野と三須は潜入捜査官が宿泊するホテルの周辺を歩いている。三浦の一件から守谷は疑心暗鬼になっており、小林と名乗る男も警察が送り込んできたスパイだと思っていた。ゆえに彼は西野の動向を探るよう三須に頼んだ。

 大学院生は何度か角を曲がったり、カーブミラーを使ったりして不審人物を探したが、彼の注意を引くような発見は無かった。

 「ただ格納庫まで走り、先生たちと合流する。君のグループ仲間は囮だ。言うなら、磁石。彼らが注意を引いてる間に格納庫へ行く…驚くことはないだろ?」

 「彼らを見捨てろと?」西野が三須の横顔を凝視する。

 すると、三須が鼻で笑った。「そうじゃないよ。彼らの犠牲は必要不可欠ことだ…彼らは英雄になるんだ。そして、君もね…」

 「でも…」

 「心配いらないよ。小林くんは自分の心配だけすれば良いんだ。」

 しばらく二人は黙ったままホテルの周りを歩き、尾行確認を終えた三須は西野とホテル前まで移動した。

 「それじゃ…」大学院生が右手を上げて別れを告げ、背中を西野に見せた。

 「三須さん!」

 潜入捜査官が呼び止め、三須が振り返る。

 「絶対にやらなきゃならないことなんですか?」西野の声は震えていた。恐怖というよりも、それは怒りによって引き起こされた震えであった。

 三須は数秒間、西野の双眸を見つめた。大学院生の目には何の感情も浮かんでおらず、ただ潜入捜査官の正義感に燃える目を見るだけで何も言わなかった。西野が再び問い掛けようとした時、三須が右口角を少し上げて頭を縦に振った。そして、大学院生は自分の宿泊しているホテルへ戻って行った。
 
 西野は急いでホテルへ戻り、ロビーにあった公衆電話まで走った。財布から10円を取り出して暗記した大原の電話番号を入力する。周囲に目を配りながら潜入捜査官は受話器から聞こえてくる呼び出し音に耳を傾けた。機械音が永遠とも思えるほど西野の右耳に響き、急ぐ彼は左手人差し指で何度も灰色の公衆電話の頭を叩いた。ようやく「カチッ」という音が聞こえ、次に大原の声がした。
 
 「もしもし?」
 
 「大原さんですか?」西野が問い掛ける。
 
 これには大原も驚いた。「西野か?何所にいる?何があった?」
 
 「今、埼玉の入間にいます。携帯電話が―」
 
 「何やってんだ、小林?」

 話しに夢中になっていた潜入捜査官は周辺警戒を怠っていたため、背後から近づいてくる男の存在に気付けなかった。後ろを振り向くと、大量のお菓子と数本の1.8Lの炭酸飲料の入った買い物袋を持つ小出が見えた。西野は焦って受話器を元の位置に戻し、買い物帰りに見える仲間の方へ体を向ける。

 「母親に電話してたんだ。親父が入院してるから…」西野が適当な嘘を述べた。

 「そうか。大変だな…」小出はあまり西野の行動を気にしていなかった。「ちょうどいい。みんな、眠れそうにないから野坂さんの部屋にこれから集まるんだけど来る?菓子もあるよ。」坊主頭の小出が買い物袋を持ち上げて西野に見せた。

 「行くよ。」潜入捜査官は動揺を隠しながら言った。

 「みんな待ってるから急ごう。」








 “埼玉?入間?携帯?”

 大原は西野から聞きたい事が山ほどあったが、潜入捜査官からの電話は途中で切られてしまった。彼にとって西野から連絡は吉報であった。西野はまだ生きており、埼玉の入間市にいる。声のトーンから急いでいる感じはあったが、怯えている様子は感じられなかった。つまり、西野の偽IDはまだ有効である可能性が高い。

 「西野は何と?」山中が尋ねた。

 「埼玉の入間にいると言っていた…」大原が携帯電話を机に置く。

 「急いで行こう。まだ機捜の奴らもいる。」

 「だな…」








 深夜2時8分28秒。

 小熊が率いるチームは航空自衛隊入間基地の正門、『道上』という男のグループは稲荷山門の近くに車を停めて来たる時を待っていた。

 “あと2分…”

 それぞれが携帯電話で時刻の確認をして胸を高鳴らせ、銃把を握る手に力を入れた。

 2時9分00秒。

 小熊と道上が合図を出さなくても、学生たちは装備を持って車から降りた。各グループに所属する運転手はギアをニュートラルに入れてから車を降り、シートベルトでハンドルを固定すると座席の下に置いていた耐火煉瓦を手に取った。彼らのグループが持つ車はセダンタイプであって奇襲向きではない。しかし、彼らに別の車を用意する暇はなかった。

 2時9分37秒。

 各グループの運転手が再び車のギアをドライブに入れ、乗用車がゆっくりと進み始める。すると、運転手は車のドアを左手で抑えながら、重さ3.7kgの煉瓦を恐る恐るアクセルペダルの上に落とすようにして置いた。煉瓦の重さでペダルが押され、乗用車は加速して入間基地の門目がけて走り出した。

 2台の乗用車は別々の場所でほぼ同じタイミングで走り出し、風圧によって運転席側のドアが閉まる。これを見た小熊と道上を除く学生たちはポケットに入れていた手榴弾の安全ピンを抜き、乗用車が目的のゲートに激突すると手榴弾を車へ放り投げた。

 そして、手榴弾が投げられると同時に小熊と道上は発煙筒を着火させ、門に激突して動けなくなっている車の方へ飛ばした。手榴弾の破裂と同時に発煙筒が車の上に落ち、乗用車のトランクに積まれていたアンホ爆薬が爆発した。
 







 2時10分17秒。
 
 滑走路に面した道路で待機していた4つのグループが爆発音を耳にした。

 各グループは約70mの間隔を開けて待機しており、爆発音を聞くと一斉に学生たちは運転手を残して車から飛び出した。彼らの手には銃が握られており、外に出るなり遊底を引いて初弾を薬室に送った。

 一方、残された運転手はギアをニュートラルからドライブに入れてアクセルペダルを勢い良く踏み込んだ。4台の車は基地と道路の間にある金網フェンスに向かって突撃し、地面に埋まっていたフェンスを弾き飛ばして敷地内に侵入した。

 2時10分59秒。

 学生たちが切り開かれた入り口に向かって走り出した。

 拳銃を右手に持つ三須が仲間の後を追いかけようとした時、菊池に左腕を掴まれた。何事かと大学院生が振り返る。

 「君にはまだやる事がある。」

 そう言うと、菊池信弘はスタンガンを三須の胸に押し当てて電源を入れた。スタンガンからバチバチと電流の流れる音がし、大学院生は体を痙攣させて地面に崩れ落ちた。

 三須は尊敬する大学教授の顔を見上げ、目で「何故ですか?」と訴えかけた。

 「歴史には“証人”が必要なんだよ。」菊池は意識を失いかけている学生の手から銃を奪った。そして、大学教授は背後で待機していた中田という学生の方を向く。

 「三須と君はここから逃げるんだ。全てが終わった時、あの声明文を公開してくれ。」

 菊池の話しを黙って聞いていたプロレスラーのようにがっしりした体格の中田は、頭を縦に振って三須を右肩に担ぐとその場を後にした。








 2時11分00秒。

 爆発音とそれに続いて生じた銃声を聞いた自衛隊たちが応戦に出た時、西野の所属するグループが大久保の運転する車によって切り開かれた入り口に向かって走り出した。

 戦う気のない西野は拳銃をベルトに差し込んで仲間の後を追い、どのようにして彼らを止めようか考えていた。

 金網フェンスから10m程離れた場所で大久保が車を停め、走ってくる仲間と合流する。

 「発煙筒は?」長身の野坂が大久保に尋ねた。

 「お前が持ってんじゃねぇのか?」目を大きく開いて茶髪の大久保が問い返した。

 「持ってはいるが…」

 「じゃ、問題ないだろ!」

 野坂は大久保の態度が気に入らなかったが、ここで彼と争う気はないので渋々ショルダーバッグから発煙筒を取り出した。

 その時、彼らの顔を眩い光が襲った。

 「そこで何をしてる?」光の方向から声が聞こえてきた。

 西野たち5人が顔を照らす光を手で遮りながら、声の主を確認する。そこには懐中電灯と自動小銃を持つ自衛隊員が1人いた。自動小銃の銃口はまだ下に向けられており、西野たちをまだ脅威とは認識していない。

 しかし、襲撃者たちは違った。パニックに陥った小出は雄叫びを上げながら持っていたAK-47の模造銃を腰で構え、銃口を自衛隊に向けると引き金を絞った。

 異変に気付いた自衛隊は懐中電灯を落して地面に伏せ、素早く右へ回転して銃弾から逃れようと動いた。本物のカラシニコフ自動小銃に似た乾いた断続的な銃声と共に無数の銃弾が発射され、狙っていた隊員がいた場所の空気を切り裂いた。

 小出は銃が弾倉を食い潰すまで引き金を引き続け、標的が移動しても同じところばかり撃っていた。だが、他のメンバーはそれぞれ銃を構えて自衛隊員の後を追うようにして発砲した。

 数発が移動する隊員の腕や脚をかすめ、4発が防弾ベストに命中した。ここまでは致命傷に至るダメージを受けなかったが、彼が立ち上がろうとした時に再装填を終えた小出の自動小銃が再び火を噴いた。銃弾が右の腕と肩に命中して自衛隊員は突き飛ばされたように地面に叩きつけられた。

 止めを刺す機会であったが、西野を除く全員弾切れであった。彼らは急いで新しい弾倉を銃に入れようと動き始める。

 これを見た潜入捜査官は素早くベルトに差し込んでいた拳銃を抜き取り、手前にいた小出の背中に向けて3度引き金を絞った。反動によって拳銃が跳ね上がり、最後の1発は小出の後頭部を撃ち抜いていた。

 『菊池たちを止める』ことで思考が一杯になっていた西野の咄嗟の行動であった。

 菊池たちの無力化。それが彼の導き出した答えであった。

 背後からの攻撃に野坂、大久保、糸井が驚いて装填の手を止めて振り返った。

 躊躇することなく西野は銃口を小太りの糸井に向け、引き金を絞る。今度は反動を考慮して引き金を2度引いた。

 照星、反動、照星、反動。

 2つの銃弾は糸井の胸を捕らえ、被弾した男は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 突然の裏切りに激怒した大久保が、持っていた短機関銃を投げ捨てて西野に襲い掛かった。潜入捜査官は慌てながらも銃口を大久保に向けて引き金を絞る。初弾は接近する男の左肩をかすめたが、続けて放たれた2発目が彼の顎を、そして、3発目が左頬を捕らえた。怒りに燃えていた大久保は地面に倒れると同時に絶命した。

 ここで西野のマカロフを模して作られた拳銃の遊底が後退し、再装填の必要性を彼に伝えた。西野が予備弾倉に手を伸ばした時、何かが頭上の空気を切り裂いた。ふと顔を上げると、短機関銃を構える野坂が見えた。

 「この裏切り者がッ!」

 長身の男が引き金にかけた指に力を入れると同時に3発の銃声が聞こえ、西野を撃とうとしていた野坂がうつ伏せに倒れた。

 死を覚悟した西野であったが、突然のことに彼は状況が呑み込めなかった。しかし、野坂が倒れたことによって、彼の陰になっていた存在が潜入捜査官の目に映り込んだ。仰向けに倒れた状態で左手に拳銃を持つ自衛隊員がおり、その銃口は西野に向けられている。

 暗がりであったので互いの顔を見ることはできなかったが、西野は自衛隊員の鋭い視線を感じた。そして、潜入捜査官は弾の切れた拳銃を地面へ放り投げた。彼は撃たれても仕方のないところまで来てしまったのだ。

 菊池や三須をもっと早くに止めることもできたかもしれないが、彼は恐ろしくて連絡役に強い進言を行わず、許されるのならば逃げ出したかった。三浦を救う手立てもあったかもしれない。しかし、西野は何もしなかった。

 銃声を期待していた西野であったが、自衛隊員は黙って銃口を潜入捜査官に向けるだけで引き金を絞ろうとしない。彼は迷っていた。西野は敵であるが、自分の命を救ってくれた。しかし、逃がす訳にはいかない。

 多くの血を失った自衛隊員は疲れて銃を持つ左手を下ろした。銃を下ろしてはいけないが、腕が休みを求めていた。

 覚悟できていると思っていても、自衛隊員の動きを見て西野は安堵し、胸を撫で下ろした。

 その時、西野と自衛隊員は金属音を耳にして、音のした方を一斉に見た。そこには右手に手榴弾を持つ野坂がおり、彼は口から血を流しながらも不気味な微笑みを浮かべて潜入捜査官を見つめていた。そして、西野が伏せた瞬間に手榴弾が破裂した。

 奇跡的に潜入捜査官は手榴弾の破片を回避できたが、野坂の血と肉片を浴びた。血を見て西野は同じ潜入捜査官であった三浦のことを思い出し、激しい吐き気に襲われて咽た。

 “クソッタレ…”

 立ち上がって野坂の亡骸を見下ろした西野は心の中で悪態ついた。彼は思い出したように自衛隊員の所へ駆け寄り、この時になってようやく隊員の顔をはっきりと見ることができた。その自衛隊員は西野よりも若く、20または21くらいに見えた。

 若い自衛隊員は自分の右隣で両膝をつく西野を見るなり、左手で潜入捜査官の上着の胸部分を掴んだ。

 「助…けて…」消え入りそうな声で隊員が言った。

 「すぐに助けを呼ぶ。」

 そう言って、立ち上がろうとすると若い隊員が強く西野を引っ張った。

 「行かないで…」

 この時、西野は手榴弾の破片が自衛隊員の守られていない下腹部に刺さって、大量の血が流れていることに気付いた。

 「すぐに戻って来る。だから、ここでじっと―」

 自衛隊員を落ち着かせて助けを呼ぼうとしたが、その前に潜入捜査官は若い隊員の両目から生気が消え、頭がだらりと地面に落ちた。西野は自衛隊員が意識を失っただけだと思い、何度も体を揺すって起こそうとした。しかし、若い隊員が目覚めることはなかった。

 見ず知らずの自衛隊員であったが、西野の胸は悲しみで締め付けられて目に涙が溜まった。潜入捜査官は再び死亡した三浦大樹のことを思い出し、自分の無力さに苛立った。そして、この苛立ちが彼の中に存在していた何かを砕いた。
 
 2時13分24秒。








 2時14分16秒。

 航空自衛隊は小熊と道上たちが思うほど容易に足止めできる存在ではなかった。奇襲であったにも関わらず、彼らは4分足らずで制圧されてしまい、全員死亡した。

 その頃、菊池は守谷のグループと合流して目的の輸送機がある格納庫へ急いでいた。他の生き残っていたグループも同様に格納庫に急いでいたが、彼らは運悪く複数の自衛隊員に遭遇して戦闘し、呆気なく無力化された。ゆえに守谷は時間稼ぎのため、自分のグループメンバー4人を自衛隊員が密集している地域に送り込んだ。

 C-1中型輸送機は暗い格納庫の中で眠っていた。菊池たちは全長29mあるこのターボファンエンジン搭載の機体を探し求めており、これを使って人々を覚醒させようと目論んでいる。

 彼らの計画は実に単純な物であった。輸送機を盗み、それで首都東京へ飛ぶ。

 特に標的などは決めておらず、燃料が切れるまで人口密集地域を飛ぶ考えであった。東京へ行く時もできる限り重要施設や街の上を通り、目的地に着けば飛べなくなるまで旋回を繰り返す。これは菊池と三須で考えた方法であり、輸送機を撃ち落としても、それが東京に落ちても大学教授が無能だと思っている政府に大きなダメージを与えることができる。また、この攻撃によってテロに対する警戒を高めることができると彼は思っていた。

 “詩織とあの事件で亡くなった犠牲者たちのために…”

 学生たちが輸送機の発進準備を始め、菊池はこれから起こることに興奮して両脚を震わせた。

 「先生…」守谷が大学教授の横に並んだ。「他のグループとの交信が途絶えました。つまり…」

 「いいんだ。」菊池は俯いて右手に持つ拳銃を見た。「彼らは英雄だ。歴史がそれを証明する。」

 「そうですね…」

 「そろそろ出発かな?」

 「はい。」

 二人は後部ハッチから輸送機に乗り込み、守谷が見張りとして残した1人にも乗り込むように手招きした。見張りをしていた男が自動小銃を抱えて走り出すと、乗用車が格納庫の裏口を突き破って侵入し、C-1の後部ハッチ左部分に激突して停車した。
 

 突然の出来事に驚いた菊池たちは銃を乗用車に向けて様子を伺う。しかし、車から降りてくる者はいない。彼らが銃を下ろすと同時に銃声が格納庫内に響き、守谷が先に襲撃者の姿を確認した。

 “小林ッ!!”

 額に青筋を浮かべた守谷は持っていたUZI短機関銃の模造銃を西野に向けて引き金を引いた。
断続的な銃声が聞こえ、潜入捜査官は素早く左へ飛んで守谷の射角が逃げた。彼の右手には北朝鮮製の拳銃、左手には亡くなった若い自衛隊員のSIG拳銃が握られている。

 右残弾4。左残弾7。

 慎重に行動しなければ、菊池たちを止めることはできない。

 「出せ!出すんだッ!!」大学教授が操縦席にいる学生たちに向かって叫んだ。

 操縦席と副操縦席にいる学生がマニュアルを見ながら後部ハッチを閉めようとするも、西野が突入に使用した車がそれを妨害していた。仕方なく彼らはハッチを開けたまま飛ぶ決断を下した。

 西野の後を追うように銃弾が床や格納庫の壁に命中し、潜入捜査官は急いで後部左ハッチに激突させた車の陰に飛び込んだ。それと同時に守谷の短機関銃が弾切れとなり、彼は再装填する代わりに隣で呆然としていた見張りからカラシニコフ自動小銃の模造銃を取り上げ、西野が隠れている車に向けて発砲した。

 C-1中型輸送機がゆっくりと滑走路に向かって動き出す。

 潜入捜査官は激しい弾幕に身動きができず、飛行機が動き出すと次第に焦りが生じてきた。

 “逃がすか!”

 自動小銃が火を噴く中、西野は遮蔽物から飛び出して輸送機の中に向けて4度発砲する。両方の拳銃から2発ずつ放たれ、その内の1発が守谷の左腕に命中し、他の3発は輸送機の壁にめり込んだ。

 右残弾2。左残弾5。

 被弾した際に額に小さな切り傷を持つ男は、激痛に抗う事ができず、発砲している銃を左斜め下に下ろしてしまった。この時、1発の銃弾が西野の左腿をかすめ、その部分のジーンズが血で染まる。

 西野は輸送機に飛び乗りながら再び2つの拳銃を発砲し、北朝鮮製のマカロフの弾が切れた。彼が発砲する直前に守谷は急いで伏せ、丸腰であった見張りの胸に潜入捜査官が放った全ての銃弾が命中した。撃たれた男はその衝撃で後ろに倒れた末に息を引き取った。

 右残弾0。左残弾3。

 輸送機が滑走路に入り、加速を開始した。

 “これを止めるには操縦者を撃つしかない。”

 潜入捜査官が拳銃を操縦席に向けた時、守谷が立ち上がって西野を輸送機の壁に叩きつけた。
機内の隅で丸くなっていた菊池は自分も加勢するべきだと思い、拳銃を裏切り者である西野に向ける。しかし、守谷が邪魔で撃てなかった。

 西野を壁に叩きつけると、捜査官は拳銃を落してしまった。素早く守谷は距離を取って自動小銃を西野に向ける。咄嗟に潜入捜査官は自動小銃のハンドガードを下から両手で包み込むように持って銃口を上へ移動させ、それと同時に守谷が引き金を引いて輸送機の天井に複数の穴を開け、そして、弾倉が空になった。守谷は西野を突き飛ばし、自動小銃の銃床で殴り掛かった。

 潜入捜査官は急いで左に逃げて攻撃を回避した。しかし、そこで彼はぎこちなく両手で拳銃を持つ初老の大学教授と対面した。

 菊池は西野に銃口を向け、ゆっくりと引き金を絞った。

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返報 13-5 [返報]

13-5




 家の中を隈なく探したが、菊池夫妻は娘を見つけることができなかった。

 パニックに陥った妻の清子は度重なる疲労で倒れ、信弘は妻のために救急車を呼ぶとすぐ警察に電話して娘の捜索を求めた。一刻も早く娘を探したかったが、彼は救急車が到着するまで妻の手を握って娘の無事を祈った。

 息子や近所の人々に助けを求めることもできたかもしれないが、信弘も妻の貧血と娘の失踪でパニックに陥っていたので、そこまで考えることができなかった。

 “どうしてこんなことに…”

 10分後に2人の救急隊員がやってきて妻の清子を救急車に乗せ、救急隊員の一人が信弘に同乗を促した。すると、2人の制服警察官が狼狽している初老の大学教授に近づいてきた。

 「菊池信弘さんですか?」背の低い制服警察官が尋ねた。

 「はい。」信弘が二人組の警察官の方を向く。

 「娘さんの件で確認して欲しいことがあるので、ご同行願いますか?」

 菊池信弘は一度救急隊員の方へ向き直り、「すみませんが、後で合流します」と言った。

 すると、救急隊員は搬送先の病院名を告げて病院へ急ぎ、菊池は2人の警察官と共に警察署に向かった。









 

 冷水を顔に浴びせられて三浦が目を覚ました。

 彼に冷水を浴びせた守谷は空になったプラスチックのバケツを床に放り投げ、横たわる三浦の顔を覗き込んだ。SAT隊員は湿気の多い薄暗い部屋で両手を後ろ手に縛られており、腕を動かしてみたがビクともしなかった。
 
 「起きたかい、大ちゃん?」薄ら笑いを浮かべて守谷が言った。三浦の肘打ちによって生じた額の切り傷の出血はもう止まっており、傷は小さな赤い一筋の線になっていた。
 
 「恭子は何所だ?」三浦は恋人の安否が気がかりであった。

 「お前の後ろにいる。」

 SAT隊員が後ろを向こうと動くなり、守谷が彼の髪を掴んで手前に引っ張った。

 「まだ話しは終わってないぞ。お前は何者だ?」

 「俺はただの―」

 「そうじゃない。」守谷が三浦の話しを遮った。「知りたいのはお前の“正体”だ…」

 「だから、俺は―」

 三浦が再び喋り始めると、額に真新しい切り傷を持つ守谷が上着のポケットから黒い二つ折りの財布に似た物を取り出した。そして、男はそれを開いて拘束されているSAT隊員に見せた。それは高橋恭子の警察手帳であった。

 「あの女に俺たちを探るように唆されたか?お前なら簡単にあの女の誘惑に負けるだろうな…ところで、あの女、高橋恭子はヤってる時にどんな声を出すんだ?それとも御褒美はまだだったかな?」

 守谷の発言に三浦は苛立ち、額に青筋を浮かべた。

 「それ以上言ってみろ…後悔することになるぞ…」

 「そうかな?」守谷が三浦の髪から手を離す。「俺はこう見えてもやさしいんだ…」額に切り傷を持つ男は右足でSAT隊員を押して高橋恭子の方を向かせた。

 高橋は彼から2メートル程離れた場所で三浦と同じように両手を後ろ手で縛られた状態で横たわっていた。彼女は気を失っており、乱暴された痕跡は見当たらなかった。

 三浦が交際相手の状態を確認して安心していると、守谷は部屋の隅にあった机から灰色の工具箱を持って来てそれをSAT隊員の前に置いた。

 「お楽しみの時間だ。」そう言って、守谷が工具箱から金槌、マイナスドライバー、パイプレンチ、ポケットナイフを取り出して床に並べた。「ちなみに金槌とドライバーはセットになってるから、どっちか一つっていうのは無理だ。」

 「彼女は無関係だ!殺るなら俺だけにしろッ!!」三浦が怒鳴った。

 「それはダメだ。」守谷はあっさりと三浦の訴えを拒否した。「三須はお前たちを消したがってる。それにお前が死んだら、彼女が悲しむだろ?でも、二人とも死ねば…共に楽だろ?」不気味な笑みを浮かべながら、守谷は床に広げた道具を等間隔に離して並べ直す。

 「恭子は無関係だ。彼女は俺の潜入捜査を知らないんだッ!!」

 「どうだかねぇ~」と守谷。

 「信じろとは言わない。だが、もうすぐ仲間がここにやってくるぞ。」三浦はこの場を切り抜けるために嘘をついた。「お前たちの携帯はもうハッキング済みだから、すぐにここを突き止めて突入して来るぞ!」


 これを聞くと額に浅い切り傷を負った守谷は笑みを消し、三浦から視線を逸らして道具箱を置いていた机の方を見る。

 「お前ら…」

 守谷が呼ぶまで三浦は他者の存在に気付けなかった。三浦を囲むように三人の男たちが暗闇の中に隠れており、彼らは鋭い目つきで三浦と高橋を見つめていた。

 「武田は上の連中に荷物をまとめるように言え。後の2人はこの大ちゃんを別の場所に運んでもらう。」指示を下すと守谷は道具箱を置いていた机から赤黒く汚れたタオルを取って三浦の前で立ち止まった。

 「ちょっと失礼…」そう言うと、彼は三浦の腹部を蹴り飛ばし、これが引き金となって激痛と呼吸困難がSAT隊員を襲った。そして、その際に三浦の口が大きく開き、間を置かずに守谷は潜入捜査官の口にタオルを深く押し込み、吐き出されないようにジーンズのポケットに収めていた短いパラシュート・コードで固定した。

 「女はどうするつもりです?」武田が尋ねた。

 「彼女はここに残る。」守谷が床に置いていたポケットナイフを取り上げて言った。

 三浦は必死に体を動かして、目の前にいる男がしようとしていることを止めようとした。

 「分かってるって…」そう言って、守谷は気を失っている高橋恭子の髪を掴んで持ち上げた。頭皮に走った激痛で高橋が目を覚まし、数メートル前で縛られている恋人を見て驚愕した。

 三浦は何度も体を動かして起き上がろうとした。それを不快に思った武田がSAT隊員の頭に右膝を乗せて床に押し付け、三浦の動きを抑えた。

 「だ、大ちゃん…?」

 それが彼女の最後の言葉になった。

 守谷は深くナイフの刃を高橋の首に差し込み、三浦の前でゆっくりと水平に移動させた。刃が移動する際におびただしい量の血が飛び散り、それは三浦と武田にも届いた。

 高橋恭子は想像を絶する痛みに震え、助けを求めて声を出そうとするも、出るのは息を吐く音だけであった。彼女が死ぬ前には見た物は首から飛び出る血と声にならない絶叫を上げて暴れ回る三浦、彼を抑える男であった。彼女の血は気管に進入し、それは肺を満たそうとしていた。呼吸ができない苦しみが込み上げ、その苦しみが癒える前に彼女は息絶えた。

 SAT隊員は涙を流しながら叫んでいた。しかし、彼の声はタオルによって塞がれている。

 高橋の死を確認すると守谷は彼女の髪から手を離し、ナイフを床に放り投げた。

 「三須に電話だな…」

 何事も無かったかのように守谷と武田は仲間二人を残してその場を後にし、三浦は咽び泣きながら恋人の亡骸を見ることしかできなかった。









 ステンレスの台に横たわっていたのは明らかに菊地夫妻の娘であった。娘の詩織は眠っている様に見えたが、肌の色は青白くなっていて生気が見られない。

 顔を覆っていた白い布が捲られて愛する娘の顔が見えると、信弘は込み上げてくる感情を抑えることができなかった。涙が両目に溜まって視界がかすみ、呼吸が乱れて唇が震え、両脚で立つのもやっとの状況だった。

 菊池信弘から連絡を受けた警察は、通報の12分前に起きた交通事故の被害者と菊地の娘の特徴が似ていたので信弘に同行を求めたのだ。

 娘の詩織は母がうたた寝している間に家を抜け出し、適当な建物の屋上から飛び降りようとしていた。彼女は自分が両親に迷惑をかけていることに胸を痛めており、いずれ自分が両親を死に追いやってしまうと思って自殺を決意したのだ。

 “私がいなくなれば…”

 しかし、菊池詩織はその道中で脇見運転をしていた男性の車に轢かれ、その際に頭部を強打して死亡してしまった。

 娘の訃報を受けた妻の清子は泣き崩れ、息子の優介は言葉を失った。それでも家族の死を受け入れられない二人は死体が安置されている警察署へ行き、そこで蝉の抜け殻のようになっていた菊地信弘を見つけた。残された家族は亡くなった詩織の死体と向き合い、そして、締め付けられるような痛みが胸を襲った。

 この悲しみが癒え始めたのは、事件から3年後のことであった。その間、菊池夫妻は生気を失ったようだった。何をしていても娘のことを思い出し、その度に泣き出してしまった。両親を気遣う息子の優介はできるだけ実家に顔を出すようにしていたが、あまり助けになっていなかった。

 娘の喪失から菊池信弘は事件を起こしたグループを恨み、彼らに関する報道を追い続けた。しかし、彼らの報道は年々減少し、世間から忘れられようとしていた。

 前代未聞の化学兵器によるテロ攻撃を受けて小田完治が対テロ機関の草案を作っていた頃、菊池信弘の怒りは政府へと向けられた。

 “娘を死に追いやった奴らはまだ生きてる…なのに、何で政府は何もしない!!”

 信弘は娘の死を無駄にしたくなかった。彼は政府と警察に『正義の執行』を求めた。しかし、当時の議会は「もう二度と同じことは起らない」と高を括って、今までと変わらない日常に戻ろうとしていた。

 “もっと大きな攻撃が起きれば、人々の目が覚めるかもしれない…そうすれば、もう二度と私たち家族と同じ悲しみ持つ人々は生まれない…”

 この危険な考えが菊池信弘の思考を支配し、結果的に彼自身がテロリストとなって国を変えようという考えに辿り着いた。そして、菊池の計画はもう準備を終えており、後は実行するだけの状態にあった。









 三浦を運ぶよう指示された2人の中に剛田がいた。守谷はこのような事態を引き起こした彼にSAT隊員を始末させる役割を与えた。

 咽び泣いている三浦の横に歩み寄ると、剛田は憎悪を抱きながら、仲間だと信じていた男の左腕を引いて起き上がらせた。恋人の死で焦燥し切っている三浦は腕を引かれても、高橋恭子の亡骸から目が離せなかった。

 「お前のせいで俺まで裏切り者扱いだ…」剛田が悪態ついた。

 しかし、三浦はまだ恋人の死体を見つめている。彼女の恐怖と激痛によって引きつる顔が痛ましくて形容し難い苦しみがSAT隊員の胸を襲った。

 「何とか言ったらどうだ?」絶望の淵にいる三浦の顔を覗きこんで剛田が言った。「って言っても、この状態じゃ無理か…」

 「おい!早くしろよ。」ドアの付近で待機していたもう一人の男が急かした。

 「ちょっと待てくれよ。」そう言うと、剛田はSAT隊員の口を塞いでいた縄とタオルを取った。「少しだけ話させてくれ。」

 「早くしろよ…」仲間のわがままに呆れながら男は言った。

 剛田が再び三浦の顔を覗き込む。「お前のせいだ。お前のせいで―」

 いくら目の前で喋られても、その言葉は三浦の耳には届いていなかった。しかし、自分の視界に入って来た男の顔は認識できていた。そして、その顔を見続けていると、恋人を失った悲しみが守谷たちに対する憎悪へ変化した。

 「あのクソ女がそんなに大事だったのか?どうせだったら、あの女を犯せばよか―」

 挑発の言葉を言い終える直前に三浦は剛田の喉にかぶりつき、大きく頭を振って相手の喉から顔を離した。突然のことに剛田は固まり、そして、喉の辺りから痛みが広まり、混乱して喉を両手で抑える。

 間を置かずに三浦はかじり取った肉片をパニックに陥っている剛田の顔面に吹きかけ、畳みかけるように剛田の鼻に頭突きを喰らわせた。喉から飛び出る血とそれが引き起こす呼吸困難、そして、想像を絶する激痛で剛田の意識は朦朧し、両手を喉で抑えながら地面に崩れ落ち、絶命した。

 剛田が死ぬ30秒前、ドア付近で待機していた仲間の一人が三浦に蹴りかかった。彼は剛田が噛みつかれるところを目撃して急いで駆け寄ったが、SAT隊員との距離を詰める間に彼の仲間は肉片を顔面に吹きかけられて頭突きを受けていた。

 「この野郎ッ!」男が立ちあがろうとしていた三浦の右横腹にローキックを入れた。

 口元が血で真っ赤に染まっていたSAT隊員は左肩から床に転び、その直後に背中を蹴られた。しかし、彼は痛みを感じていなかった。大量のアドレナリンによって感覚が鈍っているのだ。

 男が再び蹴りを入れようとした時、三浦が左肩を軸に左右の足で床を交互に蹴り飛ばして後方へ回転した。そして、その弾みを利用してSAT隊員は踵落としをするために右足を上げていた敵の左脚を蹴り飛ばして転ばせた。

 突然のことに受け身が取れず、男は後方に転んで後頭部を強打した。男が激痛に呻く。

 相手の隙を見逃すほど三浦は甘くなかった。彼は慎重に立ち上がると、後頭部の痛みに苦しんでいる男の股間に右踵を落した。そして、男が悲鳴を上げようとした時、SAT隊員は死ぬまで男の顔面を右踵で何度も踏みつけた。

 男の死を確認すると三浦は再び血の海に横たわる高橋恭子を見た。彼の目から再び涙が溢れ出し、呼吸が乱れ始めた。SAT隊員は彼女の亡骸の近くにあったナイフを手探りで取り上げると、両手の自由を奪っていた縄を切った。苦悶の表情を浮かべる恋人の死体を抱きしめて三浦は咽び泣いた。

 「剛田、倉田!早く手伝えよ!!」

 ドアの向こう側から声が聞こえてきた。声は上から来ているように思え、三浦は自分が地下室にいると推測した。

 「ちょっと行ってくる…」そう言うと、三浦は高橋の瞼を閉じさせ、血の海から別の場所に彼女の死体を移動させた。

 SAT隊員は床に転がっていた工具から金槌を拾い上げると、それをベルトバックルの辺りに斜めにして差し込んだ。そして、次にマイナスドライバーを手に取った。ドアの前まで移動すると三浦は再び高橋恭子の亡骸を見た。

 「すぐ戻るよ…」












 「久しぶりだな。」そう言いながら小田完治が椅子に腰かけた。

 「3年振りくらいかな?」丸縁眼鏡をかけた菊池信弘が応えた。「それより少し痩せたんじゃないか?」

 「これでも6キロは太ったんだぞ。それよりお前から連絡してくるなんて珍しいな。」小田がウェイトレスからメニューを受け取る。

 「忙しいところ申し訳ないね。」

 「忙しいのはお互い様だろう。それで、何があったんだ?」現職議員はメニューに書かれていたウィスキーをウェイトレスに見えるよう指差し、ウェイトレスはメモを取ると静かに立ち去った。

 「まぁ、ちょっとな…」菊池が言葉を濁した。

 すると、小田は思い出したように目を見開いて笑い出した。これには菊地も驚いた。

 「お前もあの法案に反対なのか?」

 「あの法案?」

 「メディアの言う共謀罪さ。」

 大学教授はその法案についてある程度の知識は持っていた。もし、この法案が正式なものとなれば、菊池たちは処罰の対象になる。

 「実際はどうなんだ?危険なのか?」と菊地。

 「あれは形式的なものだ。破防法でもやる気になれば、テロリスト予備軍を捕まえることはできる。それに別件逮捕で芋づる式に組織犯罪を取り締まることだってできるんだ。やる気になれば、政府はなんでもできる。ただ、やらないだけさ。今のところ、何の利益にもならないからな…」

 ウェイトレスが小田のウィスキーを持ってきた。一礼をしてウェイトレスが去ると菊地が表情を強張らせた。小田は友人が何か深刻なことを話す気だと思い、テーブルに両肘をついて男の話しを聞く体勢に入った。

 「相談があるんだ。」菊地が声のトーンを落とす。「この国を変えようと思う…」

 小田は友人が冗談を言ったと思って笑い出した。「学生の頃から何にも変わってないな!」

 大学教授は表情を変えずに小田の顔を見つめ続けた。

 「お、おい。本気なのか?」

 「冗談だと思うか?この国は腐敗している。助けを求める人を助けず、私腹を肥やす人間ばかりだ。」

 「中には良い人もいるぞ。」小田が付け足した。

 「しかし、下衆が目立つ。人々は目覚めなければならない。未来のために…」

 「しかしだな…そんなことを言っても…」

 「だが、私にそんな力はない。だからお前の力を貸して欲しいんだ。」

 小田はウィスキーの入ったグラスを持ち上げると、無言のまま茶色い液体を見つめた。

 “娘を失ってから狂ったと聞いていたが…本当だったのか…”

 「どうなんだ?協力してくれるのか?」菊池信弘が小田から返事を引き出そうと尋ねた。

 「どのように協力すればいいんだ?」小田が一気にウィスキーを飲み干した。

 「ありがとう。頼れるのはお前だけなんだ…計画はもうできている。まずは―」

 小田は友人の話しに耳を傾けながら、これから自分がすべきことを考えていた。そして、大学教授が喋り終えた頃、小田完治も自分の考えをまとめた。











 携帯電話の着信音で西野は目を覚ました。彼は菊池信弘の著書『岐路に立つ』を読んでいる最中に眠りに落ちてしまったのだ。

 潜入捜査官はゆっくりと起き上がって、テーブル上で振動しながら機械音を鳴り響かせる携帯電話を取った。電話は西野の連絡係からだった。

 「どうしましたか?」欠伸を堪えながら西野が言う。

 「もう一人の潜入捜査官に会ったよな?」連絡係である『大原』の声には鬼気迫るものがあった。「あの後にもう一度会ったか?」

 「い、いいえ…」電話越しに感じる大原の迫力に西野は押されていた。

 「アイツから何か聞いてないか?何でもいいんだ。どんな些細な事でも構わない。」

 「と言っても、あれ以降、彼とは会ってませんし…その時も特に変な様子はなかったです。」三浦との会話を思い返しながら潜入捜査官が答えた。

 「本当か!?」


 「は、はい…」

 「そうか…」大原の声には落胆の響きが含まれていた。
 
 「何かあったんですか?」西野は三浦に何かが起きたと思い、気になって尋ねた。

 「連絡が取れなくなった。もしかすると、捕まったかもしれない…」

 これを聞いて西野は眼球を押し潰されたパオロのことを思い出した。

 “彼もあの外人みたいに…”










 ドアを開けると三浦は階段を2段飛ばしで駆け上がった。

 あと2歩で階段を上がり切ろうとした時、踊り場のドアが開いて顎髭を生やした男が現れた。男はマイナスドライバーを片手に持つ血だらけの三浦を見ると、危機感を抱いて咄嗟に右押し蹴りを放った。

 三浦は首を左に傾けて蹴りを回避すると、前進しながら男の右脚の下を潜り抜けるようにしてマイナスドライバーを持った右手を突き出した。工具の先端が男の股間に突き刺さり、男が悲鳴を上げる。構わずにSAT隊員は右肩で男の脚を押し上げながら前進し、顎髭男をドアに叩きつけ、間髪入れずに左肘を相手の右側頭部に入れ、そして、マイナスドライバーで男の喉を突いた。遅い仲間の様子を見に来ただけの男は床に滑り落ち、悶え苦しんだ末に息絶えた。

 SAT隊員がドア枠を通り抜けると、仲間の死を目撃して唖然とする童顔の男が見えた。この男に戦う意思はなかったが、三浦にとって相手の気持ちはどうでも良かった。

 恐怖に震える童顔の男が助けを呼ぼうと口を開くと、その口を塞ぐように三浦は男の口に向けてドライバーを突き出した。口蓋垂(注:のどちんこ)にマイナスドライバーが刺さり、童顔の男は思うように声を上げることができなかった。

 素早く三浦はドライバーを抜き取り、左手を相手の右側頭部に添えて壁に叩きつける。それは一度では終わらず、男が床に崩れ落ちようとしているにも関わらず三浦はそれを追うように相手の頭を壁に勢い良く叩きつけた。

 2人目の相手を無力化の完了後、左側にあったからドアから男が飛び出してきてSAT隊員にタックルした。タックルの後に男はドライバーを持つ三浦の右腕を掴んで壁に押し付ける。彼はマイナスドライバーが一番の脅威だと認識し、それを抑えるのが最優先だと判断した。

 しかし、三浦は道具にばかり頼るような人間ではなかった。彼はタックルしてきた男の股間を左膝で蹴り上げ、相手が怯むと前進しながら左拳を男の顔面に三度叩き込み、ドライバーを相手の右胸に刺した。刺された男は呻き、SAT隊員から離れようと三浦を両手で突き飛ばす。

 後ろに押された三浦はその弾みでドライバーから手を離してしまった。3人も連続で刺し続け、その時に付着した血で手が滑ったのだ。再び距離を詰めようと彼が動くと、右側から別の男が現れて三浦を左へ突き飛ばした。虚を突かれたSAT隊員は転び、急いで体勢を立て直そうと動く。

 彼を突き飛ばした赤縁眼鏡が特徴的な男は、これを好機と見てマウントポジションを取ろうと倒れた三浦に飛び掛かった。

 しかし、その時にはもう三浦の体勢は整っていた。SAT隊員は飛び掛かってくる男の股間に右足を叩き込み、男は激痛に顔を歪めながら三浦の上に落ちてきた。両手で突き飛ばすように三浦は男を左側へ押し退けると、ダウンした状態で相手を追うように両脚を左側へ回し、赤縁メガネをかけた男の顔面を2度踏みつけた。

 一度の蹴りによってプラスチック製のレンズ割れて男の目に刺さり、二度目の蹴りで鼻の骨が折れると同時に後頭部を背後にあった壁に強打した。断続的に訪れる激痛に男は悲鳴を上げた。 

 三浦は相手の息の根を止めようと再び蹴りを入れようと脚を持ち上げる。すると、SAT隊員の右横腹に衝撃が訪れた。彼にドライバーで胸を刺された男が仲間を助けるために三浦に蹴りを入れたのだ。再び男が蹴りを入れようとした時、急いで三浦は倒れた状態で左へ回転して立ち上がろうとする。

 マイナスドライバーがまだ胸に刺さっている男は逃げたSAT隊員を追いかけ、四つん這いになって立ち上がろうとする彼の腹部を蹴り上げた。

 「死ね!死ね!」三浦の腹部を蹴り上げながら男が叫んだ。

 疲労のため、三浦は三度も蹴りを受けていた。しかし、彼はすぐに呼吸を整えて4度目の蹴りが腹部を襲う直前にそれを左腕で防いで押し返した。防御を終えると、SAT隊員は素早く片膝をついて上体を起こしながらベルトに挟めていた金槌を右手で取った。

 男が再び右蹴りを放とうとした時、三浦は相手の左足首を金槌で殴り、殴られた男は激痛に悲鳴を上げて足首を庇おうと身を屈めた。そして、その瞬間に三浦は先ほど放った一振りの勢いを利用して金槌を左から右へ水平に振った。意図した訳ではなかったが、男は金槌の釘抜き部分で側頭部を殴られ、先端が深く頭に突き刺さった。

 耳朶を震わせる男の悲鳴が廊下に響いたが、三浦は表情一つ変えずに男と一緒に金槌を手前に引き寄せ、相手の首筋へ拳を振り落した。衝撃の強さで金槌が男の頭から離れ、肉の塊となった男の体は静かに床へ落ちて行った。

 三浦が視線を上げて次の獲物を探した。廊下の先には鉄パイプや金属バットを持った男5人が震えながら血だらけのSAT隊員を見つめている。

 「お前らは下がってろ。」男たちを掻き分けて武田衛が前に出てきた。「誰も手を出すなよ…」

 そう言うと、武田が金槌を持つ三浦の動きに警戒しながら前進し、それに応じるようにSAT隊員も歩き出した。

 距離を詰めながら武田は上着の下に隠していた特殊警棒を取り出し、振り下ろして展開させた。











 震えるほどの怒りを堪えながら、三須は守谷からの報告に耳を傾けていた。

 「警察は俺たちのことを調べていたのか?」冷静な声を装って三須が問い掛けた。

 「高橋って野郎はそう言ってた。」守谷は敢えて三浦が暴れ回っていることを仲間に伝えなかった。「どうする?」

 「計画を早める。」

 意外な返答に守谷は驚いた。

 「先生と話したのか?」

 「これから話す。先生は例の議員とお話し中だ…」今後のことを考えながら三須が言った。「ソイツを…高橋という男を“屠殺場”に連れて来い。」

 「分かった。」

 「それと…小林も“屠殺場”に呼んでくれ。」

 「アイツも消すのか?」

 「いや、彼には試験を受けてもらう。」











 三浦が先に動いた。彼は素早く金槌を振り上げ、武田の頭に向けて振り下ろす。

 素早く武田は特殊警棒で三浦の攻撃を弾き、カンッと金属同士が激しく接触する音が廊下に響く。金槌を防ぐなり武田衛は警棒を左から右へ水平に振ったが、それは空を切っただけであった。

 相手の動きからSAT隊員は身を屈めて武田の一振りを回避し、警棒が頭上を通り過ぎると金槌で武田の左横腹を殴った。そして、彼は素早く立ち上がりながら、左アッパーを相手の顎に叩き込んだ。

 攻撃の速さと激しさに武田衛は圧倒され、バツ印を描くように特殊警棒を振り回しながら後退する。最初の振りは三浦の左腕を捕えたが、最後の一振りは距離が開いたために空を切るだけで終わった。後退したまでは良かったが、右足で三浦が倒した男の一人を踏んで武田はバランスを崩しそうになった。

 目の前にいる敵が隙を見せると三浦は眼光を鋭くさせて武田に接近した。右手の中で金槌の柄を回して釘抜き部分を下へ向け、SAT隊員はバランスを崩そうになっている武田の左肩へ金槌の釘抜き部を振り下ろした。

 鋭く尖った金属部分が武田衛の肩に深く突き刺さり、武田が激痛に歯を食いしばる。彼は素早く警棒を振り上げて三浦の頭に向けて振り下ろす。しかし、それは簡単に塞がれた。

 SAT隊員は右手を手前に引いて金槌と一緒に武田を引き寄せながら、敵が振り下ろしてきた特殊警棒を持つ右腕を左腕でブロックして三浦は相手の鼻頭に頭突きを喰らわせた。その際に金槌が武田の肩から離れて血飛沫が飛んだ。

 鼻を潰されて武田は意識が遠退きそうになったが、どうにか踏みとどまり、塞がれていた右腕を手前に引いて三浦の左太腿を特殊警棒で殴った。

 左脚に走った激痛でSAT隊員の体が左に少し傾いた。彼は警棒による追撃を恐れ、金槌で攻撃を仕掛ける。しかし、この攻撃が放たれる前に武田が三浦の上着を掴んで手前に引き、彼は素早く相手の首筋に左手をかけた。SAT隊員を抱きかかえるような姿勢を取ると、武田は特殊警棒の底部で相手の後頭部に殴りかかる。

 警棒が三浦に接触する寸前、SAT隊員は武田衛に掴まれた状態で右腕を振って金槌で敵の後頭部を殴り、左手で相手を突き飛ばす。悶絶する武田を見るなり、三浦はすかさず金槌を振り上げて襲い掛かった。

 武田は金槌が自分の頭を襲うのを防ぐために左手で三浦の右手首を捕え、それと同時に特殊警棒の柄でSAT隊員の額を打つ。そして、一番の脅威を排除するため、武田衛は警棒で相手の右腕を殴った。

 額と右腕に強烈な痛みが走り、三浦の右手から金槌が離れて床に大きな音を立てて落ちた。激痛に目を細めてしまったが、彼は武田が警棒を振り上げるのを確認することができた。

 “終わりだッ!”

 武田衛が止めを刺そうとした時、SAT隊員が相手の頭と右腕の間へ左腕を伸ばし、それが振り下ろされた警棒の軌道を外側へ逸らした。そして、彼は武田の右腕を左脇で挟み、左手で相手の二の腕を掴んでしっかりと固定する。目の前にいる敵が反撃に出る前にSAT隊員は捕らえた腕を引いて距離を縮め、頭突きを喰らわれた。

 二度の鼻に対する攻撃で武田は流石に崩れ落ちそうになり、掴んでいた三浦の右手首から手を離して後退する。しかし、まだ右腕を固定されているので逃げられない。

 十分攻撃したと思った三浦は特殊警棒を奪おうと、二の腕を掴んでいた左手を手首へ移動させて固定し、右手で相手の武器を奪おうとした。

 「うらぁ!」戦意を取り戻した武田が左押し蹴りを放った。

 三浦は攻撃を警戒して後退し、その際に左腕で武田が持っていた特殊警棒を弾いて床に落とした。彼は落ちた武器へ手を伸ばそうとしたが、再び武田の蹴りが飛んできたので諦めた。

 二度目の右押し蹴りが来ると三浦は左へ動いて回避し、そのまま素早く前進して武田の背後に回り込むと右腕を相手の首に巻き付けた。体力の限界に差し掛かっていたSAT隊員は、これで戦いを終わらせようと思っていた。

 首を圧迫されて呼吸が苦しくなり、武田の顔が次第に赤くなった。彼はこの状況から逃げ出すために右手で圧迫している三浦の腕を抑え、そして、左肘を後ろにいる相手に向けて何度も放った。その内の3打がSAT隊員の左脇腹に命中し、彼の右腕から少し力が抜ける。

 “今だッ!”

 武田は自分を苦しめていた相手の右腕を首から引き剥がし、一歩前出ると素早く振り向きながら右拳を水平に振って三浦に殴り掛かった。

 だが、痛みに耐えながらSAT隊員はすかさず対応に出た。両腕で武田の右腕を抑え、右手で相手の手首を掴み、左掌底を武田の肘に叩き込んだ。鈍い音と同時に武田衛の腕が外側へ曲がり、彼の悲鳴が廊下に響いた。三浦は間を置かずに相手の後頭部に左手を添え、勢い良く壁に叩きつけた。武田衛は壁に長い血の線を描きながら床に崩れ落ちる。

 蓄積されていた疲労がどっと押し寄せ、三浦はその場で膝をついた。

 「随分、暴れたなぁ~」

 SAT隊員の背後から声が聞こえてきた。彼が振り向くと、そこには恋人の命を奪った男がいた。

 雄叫びを上げながら三浦が守谷に向かった。守谷は左足を突き出して立ち上がろうとしていた三浦の胸を蹴り飛ばして転ばし、相手が起き上がる前に彼はSAT隊員の顔を蹴り飛ばした。

 「武田を病院に連れ行け。残りはコイツを“屠殺場”に運べ。」

 そう言い残して守谷がその場を立ち去ると、彼の仲間たちが三浦を袋叩きにした。










 レストランで友人の話しに耳を傾けていた時、小田完治はできるだけ早く公安警察に菊地信弘が計画していることを話そうと考えていた。しかし、レストランを後にした今、彼は新たな選択肢を見出した。

 “アイツの言い分にも一理ある。”

 読書灯の明かりしかない部屋で小田はアームチェアに腰掛けている。

 “しかし、通報すべき事案だ。だが、アイツの計画が成功すれば、私の提案している対テロ機関が実現するかもしれない…”

 小田完治は自身の考えが許されるものではないと思っているが、それでも彼はこれを好機と捉えていた。

 “敢えて見逃すべきか…いや、もし、既に公安が奴の動きを追っていたら?”

 現職議員の額に大粒の汗が浮かび上がってきた。

 “となると、今日のことも見られていた?通報しなければ怪しまれるな…”

 胸に引っ掛かるものを感じながら、小田は固定電話の受話器を持ち上げた。

 “待てよ…”小田が受話器を戻した。“計画はまだ先のことだ。それに友人の冗談だと言えば済むかもしれない。いずれにせよ、明日にしよう。”

 小田は読書灯の明かりを消して書斎を後にすると寝室に向かった。










 「こっちだ。皆がお前を待っている。」建物に入るなり、守谷が西野を呼んだ。

 突然の予期せぬ相手からの連絡に西野は怯えていたが、黙って男の後を追って廊下を歩き出した。三浦の失踪を聞いていたので潜入捜査官は、この呼び出しが少なくとも三浦関連だと思っている。そして、自分の正体も知られたかもしれないと恐怖した。

 「何があったんだ?」男の横に並んで西野が尋ねた。

 「ちょっと問題が起きただけだ。」

 “やっぱり、例の捜査官か…”

 「大丈夫。すぐ終わるさ…」

 額に小さな切り傷を持つ守谷は廊下の突き当りにあるドアを開けて西野に入るように促した。部屋の中には男たちが輪を描くように並んでおり、ドアが開くと数人が西野たちを見た。

 「どうした?」ドアを開けて待っている守谷が心配そうに問いかけた。

 「何でもない。」そう言って西野は部屋の中に足を踏み入れた。

 部屋は狭い上に薄暗く、肌寒い場所であった。倉庫だろうと西野は思った。とても人が集まる場所ではない。

 「こっちだ。」輪を描いて並んでいる男の一人が西野に向かって言った。

 華奢な体型の西野は輪を描いている男たちを脇に寄せて輪の中に進む。恐怖が全身に走り、西野は体が震えていることに気付いた。輪の中心へ辿り着いた時、西野の中で広がっていた恐怖が消え始めた。彼の目の前には布袋を頭から被せられ、両手足を縛られて跪いている男がいる。

 「コイツは誰だ?」西野は誰ともなしに尋ねた。

 「ネズミだよ。」背後から声が聞こえてきた。西野が振り返ると守谷がいる。

 「ネズミ?」

 「そう。つい数時間前だよ。コイツの野郎…」守谷が跪いている男を指差す。「警察に俺たちの情報を流していやがった!!」

 これを聞いた西野は心臓が縮まるような感覚を得た。その後、彼の心臓は緊張によって激しく動き始めた。

 「お前も知っているはずだ…」額に小さな傷を持つ男が跪いている男の布袋を剥ぎ取った。彼は三浦の一件から西野にも疑いの目を向けていたので、敢えて鎌をかけてみたのだ。

 守谷のいう通り西野はその男を知っていた。顔中血だらけになってもいても、殴られて顔中が腫れ上がっていても潜入捜査官はその男が誰かすぐに分かった。今、この部屋にいる誰もよりも彼はその男のことを知っている。しかし、西野は一言も発しなかった。

 “あれほど電話を使うなと言っただろうが!!”変わり果てた男の姿を見た西野は苛立ちを覚えた。彼は携帯電話が原因で三浦の正体が暴かれたと思った。

 「皆で考えたんだ…ここはお前がやるべきだと…」西野の前に鉄パイプが差し出され、彼は目の前で跪いている同じ潜入捜査官を見ながらそれを手に取った。

 「助けて…」輪の中央で跪いているSAT隊員がか細い声で言う。

 「裏切りに者のくせに命乞いをするのか?」西野を部屋まで案内した守谷が鼻で笑った。「小林…できるだけ早く頼むよ。」男は西野の肩を軽く叩くと一歩下がった。

 しかし、西野にはできなかった。

 「小林…お前、この裏切り者に同情しているのか?コイツはクズだ!コイツは俺たちの変革の邪魔をしようとしたんだぞ!」額に傷を持つ男が西野の背中に向かって叫んだ。「やるんだ!これはこの国のためだ!やらなきゃ、俺たちがやられるんだ!」

 三人を囲むように並んでいる男たちが「殺せ」と叫び始める。

 “許してくれ!”

 西野は歯を食いしばると、鉄パイプを振り上げてそれを跪いている男に向けて振り下ろした。衝撃の強さに殴られた三浦は頭から床に落ち、西野は苦痛に呻く仲間を見ることしかできない。

 「まだ生きてるぞ…」守谷が西野に向けて言う。「死ぬまでやれよ。」

 恐怖に震える西野は横目で守谷を見た。右手に持つ鉄パイプが重く感じられた。

 “コイツを殺せば…”

 「どうした?ここを、もう一回だ…」守谷が倒れている三浦の後頭部を指差す。

 「俺には…できな―」

 西野が口を開くと三浦の体がビクンと動いて顔を西野に向けた。

 「や…やれよ…」SAT隊員が消え入りそうな声で言った。

 “何を…何をバカなことを…”と西野は思った。

 「ってことだ。小林、早くやれ!」痺れを切らした守谷が怒鳴る。

 この時、吐き気が込み上げて潜入捜査官が咳き込み、鉄パイプを床に落とした。喉まで出かかっている異物に我慢できず、西野は急いでその場を後にしてトイレへ走った。

 「情けない。まぁ、殴ったってことは…『白』かもな…」

 そう呟きながら守谷は、ジーンズの後ろポケットに突っ込んでいた小さく畳んでいた黒いパラシュート・コードを取り出した。長さは1メートル30センチ程だった。

 額に切り傷を持つ守谷が三浦の髪を掴んで引き起こし、SAT隊員の顔を覗き込んだ。

 「どうなってる?」三須が守谷の横に並んだ。

 「コイツはかなり頑固だ。でも、俺たちの居場所を掴んでるっていうのは嘘だな。」

 「それで小林は?」

 「この野郎を殴ったら、気持ち悪くなってトイレに走ってたぜ。」

 三須は薄ら笑いを浮かべている守谷から視線を倒れている三浦に移す。

 「小林の様子を見に行く。お前はコイツを始末しろ。」

 「あいよ。」守谷がパラシュート・コードを伸ばし、それを三浦の首に巻き付ける。

 「それから…」部屋を出ようとしていた三須が振り返った。「決行日が変更になった。」

 「いつだ?」

 「明日の夜だ。」

 「わかった…」

 三須が去るのを見ると、守谷は三浦に笑みを向けた。「何か言い残すことは?」

 「必ず…必ず…お前たちをぶっ殺してやるッ!」血の混ざった唾を吐きながらSAT隊員が憎悪をこめて言った。

 「それは残念だ…」

 守谷は三浦の背中を右足で押しながら、SAT隊員の首に巻き付けられた縄を強く後ろへ引いた。頸部が圧迫されて呼吸ができなくなった三浦はもがいた。

 しかし、両手足を縛れているため、全く抵抗になっていなかった。次第に彼の体から力が抜け、視界に靄がかかってきた。三浦は自分の無力さに苛立ちを覚えた。無力であったから、恋人も失い、テロ攻撃も防げないと思っている。

 その時、彼の前に高橋恭子が現れた。彼女は何も言わずに優しく微笑んでいる。突然の幻にも三浦は驚かなかった。意識が薄れつつあったので、彼女の姿を見ると何故か三浦は穏やかな気持ちになれた。

 “恭子…”

 そして、完全な闇が訪れ、三浦大樹は息絶えた。















 <ご愛読ありがとうございました。ハヤオ・エンデバーの新作にご期待ください!>
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13-4



 ボート置き場に男の悲鳴が響き渡った。

 パオロは想像を絶する激痛に悲鳴を上げ、眼球を潰した男の手首を掴んで抵抗を試みた。しかし、三須は親指を奥深くパオロの眼窩に突っ込み、途中で悲鳴を煩わしく思ったのか、右拳をフィリピン人の喉に叩き込んで喉仏を潰した。喉を潰されたパオロはパンクしたタイヤのように空気の漏れ出る音しか出せなくなった。

 一方、目の前で2つの残虐行為を目撃したフィリピン人は顔を引きつらせ、自分も同じ目に遭うと思った彼は意識が遠退くのを感じた。守谷も武田も三須の行動には驚き、多少は動揺してしまった。
 
 「こんなもんか…」そう言うと、三須は血で汚れた手を瀕死に陥っているパオロの服で拭う。「あとは…」まだ手に付着する血に不快感を持つ三須が残りのフィリピン人を見た。

 外国人は体をビクンと動かして驚き、首を何度も横に振った。助けを求めたのだ。その時、彼の頭に強い衝撃が訪れた。背後にいた守谷が助けを求めたフィリピン人を殴り、殴られた外国人は地面に崩れ落ちた。

 「あとは頼むよ。終電に乗り遅れる…」そう言い残して三須はボート置き場から出て行く。

 「りょーかい!」仲間の方を見ずに守谷が先ほど殴りつけたフィリピン人の後頭部を再び強く殴って返事した。








 最初はゆっくりと静かに移動し、ある程度まで距離が開くと西野と三浦は全速力でボート置き場から離れた。

 単眼鏡越しに見た残虐行為に二人の潜入捜査官は恐怖で震え上がっていた。簡単な潜入捜査だと思っていた分、三須たちが見せた残忍さは想像を絶するものであった。

 “捕まれば殺される…”

 この考えが二人の思考を支配し、尾行の有無も確認せずに駅の手前まで走って移動してしまった。慌てて西野と三浦は周囲に目を配り、安全を確認すると安堵してその場にしゃがみ込んだ。

 “情けねぇ…”そう西野は思った。彼は捕まえるべきテロリストの残虐行為を目にして恐怖し、最後まで監視せずに逃げ出してしまった自分に嫌悪感を憶えた。“このままじゃ、奴らを止められない…”

 「ちょっと…」三浦が素早く立ち上がって西野の肩を引いた。

 何事かと西野が三浦の顔を見上げる。潜入中のSAT隊員は駅の方に顔を向けており、西野も同じ方向を見るとそこには駅に近づく三須の姿があった。西野は急いで立ち上がって三浦と同じように壁の窪みに身を寄せた。

 「見られたか?」西野が尋ねる。

 「いや、気付いた様子はなかったですよ…」

 距離はあったが、三浦は携帯電話を取り出して三須の姿をカメラに収めた。

 「ちょっといいか?」と西野。

 「はい?」

 「アンタが例の潜入捜査官なんだろ?」自分同様、顔に恐怖を浮かべる三浦を見て西野は思い切って尋ねた。

 三浦は少し考えた。“この人がおそらく『例の捜査官』だと思う。けど、身元を明かすべきか?”

 「もし、そうならどうします?」

 「協力を求める。」西野は三浦の双眸を見つめ、相手の真意を探ろうした。

 「違えば、逮捕ですか?」

 尋ねられた西野は頭を小さく縦に振った。

 “もし、本物の潜入捜査官なら、この人は真面目すぎる…”SAT隊員は答えに困って視線を再び駅へ向ける。

 「そうですよ…あなたと同じ潜入捜査官です。」

 三浦は正直に答えたが、これが正しいのかどうか分からなかった。

 「そうか…」西野の口角が少し上がった。

 “やっと仲間に会えた…”元制服警官はそう思っていた。

 「どうです?連絡先でも交換しませんか?」三浦は念のために西野の連絡先を交換し、本物の潜入捜査官であるか確認したかった。

 「いや、それはやめておこう。俺と君のためにも…俺たちの繋がりが見つかれば後々厄介だ。電話を使うのは命取りになるかもしれないだろ?」

 「そうですね…」潜入中のSAT隊員は心の中で西野の用心深さに感心すると同時に先手を打たれた様な不快感を抱いた。

 “この人が『潜入捜査官を演じているテロリスト』だったら、俺は終わりだ…”

 「じゃ、せめてお名前だけでも教えてもらえませんか?」

 「俺は西野―いや、小林健だ。」

 気を許したせいで西野は思わず本名を口にしてしまった。これは三浦にとって思わぬ収穫であり、すぐにでも連絡役の山中に確認しようと思った。

 「僕は高橋直人です。帰りは電車ですか?」

 「そ、そうだ。」本名を口にしたことを今になって西野は後悔していた。

 「じゃ、それぞれ少し時間を置いてから駅に行きますか…『小林さん』は三須って人に顔が知られてるから、僕から先に駅へ向かいます。それでは…」

 そう言って、三浦は西野の前から歩き去った。彼は小林と名乗った潜入捜査官の視界から外れると同時に携帯電話を取り出して連絡役に電話した。もし、西野がテロリストならこの場で捕まえようと思った。もっともな理由を付けて先に駅へ向かったのは、西野を待ち伏せして仕留めるためであり、彼を気遣った訳ではなかった。

 「どうした?」山中が電話に出た。

 「『例の潜入捜査官』らしき人物と遭遇しました。その人物の名前を教えてもらえませんか?」三浦は焦っていたので早口で言った。

 「会ったのか?アイツに?」明らかに連絡役は驚いていた。

 「そうです。その人の偽名は小林健ですか?」

 しばらく沈黙が続き、ようやく「そうだ」と山中が答えた。

 「その人は眼鏡をかけた華奢な体型の人ですか?」名前だけの確認で納得できなかった三浦は確証を得るために再び連絡役に尋ねた。

 「そうだ。」

 「本名は西野ですか?」

 「そこまで聞いたのか?」連絡役は驚きを隠せなかった。

 「向こうがうっかり漏らしたんです。西野という男なんですか?」

 「ったく…そうだよ。」

 これを聞いてようやく三浦は安堵した。

 「ありがとうございます。詳細は明日報告します。」

 「って、おい!」

 山中にはまだ聞きたいことがあったが、三浦は一方的に通話を終了させて電車に乗り込んだ。








 6人一部屋の病室に簡易酸素マスクを付けてベッドに横たわる菊地家の娘がいた。

 彼女は事件発生時、化学物質が散布された車両から4つ離れた車両内におり、誰かが「毒ガスだぁー!!」と叫ぶのを聞いて周りの人々に押されるようにして停車駅で降りた。出口に向かう際に菊池詩織は倒れて嘔吐する人や呼吸困難に陥って四つん這いになる人、全身を痙攣させて苦しむ人を目撃した。あまりの恐怖に彼女は逃げる人々の背中を必死に追った。

 外に出るとタクシーを拾って、通っている短期大学へ急いだ。駅からほんの数分先にある学校だったが、胸が苦しかったので彼女はタクシーを使う事にした。目的地に着くと、菊池詩織は精算を済ませてタクシーを降りた。その時、ちょうど自転車で登校してきた友人の山沢典子に出会って一緒に校舎へ入ろうすると、詩織は意識を失って崩れ落ちた。

 「詩織…」母の清子が意識不明の娘の手を取って呼びかける。「どうして、こんなことに…」
 
 娘の姿を見て菊池信弘は胸が苦しくなった。それは息子の優介も同じであった。

 ふと優介の視界に若い女性看護師の姿が入り、彼は小走りでその看護師に近づく。

 「すみません。担当の先生とお話しがしたいんですが…」

 すると、看護師は困った顔を浮かべた。「すみませんが、今は無理です。後ほど、状況が落ち着いたら先生に聞いてみます。」

 「わ、わかりました…」

 菊地一家は娘の状態がよく分からなかった。娘の友人も詳しくは知らず、途中でアルバイトがあると言って帰って行った。彼らにできることはただ待つことであった。

 テーブルに乗せていた携帯電話が震えた。妻とテレビを見ていた菊地はこの音で何度も思い出す『あの光景』から目覚めた。

 「もしもし?」菊池信弘が電話に応える。

 「三須です。会ってお話ししたいことがあります。都合の良い日はありますか?」

 「明後日の15時はどうだろう?」

 「分かりました。」








 西野と三浦は殺された3人のフィリピン人に関する報道を探したが、全く見つからなかった。二人の連絡役も調査を始め、現場に出向いて捜査するも証拠の発見には至らなかった。ゆえに三浦の連絡役である山中は精密な調査を行うため、公安部に補充要員と機器を要請した。

 その頃、西野は三須に呼び出された。突然のことに潜入捜査官は驚くと同時に命の危機を感じた。彼はあの夜に起こったことを今でも鮮明に憶えており、失敗すれば自分もあのように殺されるかもしれないと思っている。

 学内のカフェテリアで三須は笑みを浮かべて西野を待っていた。その笑みはボート置き場でパオロの眼球を潰す直前に見せた表情に似ており、潜入捜査官は恐怖に顔を強張らせた。

 “駅で見られてたのか?”

 西野は周囲に視線を配り、自分を監視する人物の有無を確認した。しかし、人数が多すぎて判別できない。この状況は西野にとって良いとも悪いとも言えない状況であった。

 良い点があるとすれば、三須がここで西野を襲う可能性が低いということ。もし、別の場所で西野を始末しようとすれば、移動中に反撃の機会ができる。悪い点は、この場に三須の協力者がいても、彼または彼女たちの正体が分からないこと。相手に正体が知られているのに、自分が何も知らないのは非常に不利な状況である。

 「気分が悪いのかい?」三須が強張った西野の表情を見て尋ねた。

 「いや、大丈夫ですよ…」椅子に腰掛けて潜入捜査官が言う。「今日はどうしたんですか?」

 問い掛けられた三須は一度視線をテーブルに落とし、数秒間の沈黙の後に再び西野の目を見た。この沈黙は西野にとって居心地が悪く、目の前に座る男が昨夜のことを話すのではないかと思って怯えていた。

 「色々と考えたんだ…」大学院生が口を開いた。「昨日からずっとね…」

 “やるしかないか…”次第に高鳴る心臓が西野の冷静さを奪いつつあった。

 「小林くんは菊池信弘先生の講義を受けてるかい?」笑顔を浮かべたまま三須が尋ねた。

 簡単な問い掛けであったが、西野は固まってしまった。想像していた内容と異なっていたからである。

 「いえ…確か、後期の…講義だった…気がします。」あまりの緊張に言葉を詰まらせながら潜入捜査官が言った。

 「そうか…じゃ、先生の本を読んだことは?」

 西野は首を横に振って「ないです」と答えた。

 「そっか…菊池先生は『岐路に立つ』という本を最近書かれてね。その本の中で先生は日本の現状について警鐘を鳴らし、このままでは国の在り方が変わると警告してるんだ。」三須は西野の様子を見ながら話しを進めた。「実は菊池先生がある運動を起こそうとしているんだ。この国に住む全ての人々の目を覚まさせる様な大きなことを…」

 “コイツは俺を『仲間』にしようとしてる?”西野は大学院生の話しを聞きながら思った。

 「本当に大規模な物になる予定でね。できれば、君にも参加して欲しんだ。もちろん、無理強いはしないよ。」

 こう言いながらも、三須は絶対に西野が仲間になるという自信を思っていた。ゆえに彼は二人のテーブルから離れたカウンター席に守谷と小熊を置き、西野を観察させている。

 「それは…なんというか…ヤバい運動なんですか?」と西野。

 「捉え方によると思う。でも、小林くん…君にとって、これは『ヤバい運動』ではないと思うよ。他の人たちはそう思うかもしれない。しかし、歴史が証明するように、偉大な変革の始まりは常に『異常なこと』だと思われるが、後にそれが世界を大きく変えるんだ。異端と思われるのは、人々が『今の尺度』で見てるからさ。後世の世代は、僕らの運動を称賛する。絶対に…」

 「何で俺なんですか?」西野は率直に尋ねた。

 潜入しなければならないことは分かっているが、西野は三須が自分を選んだ理由を純粋に知りたかった。

 小さく左に首を傾げて三須はこう言った。「君は僕に似てるんだ…それが理由かな…」

 “似てる…?”西野は驚くと同時に恐怖した。

 「どうする?君の意思だけでも聞きたい。」

 テーブルを見つめて西野は考えた。“似てるはずがない…そんなわけないッ!!”

 「小林くん?」と三須。

 西野が視線を大学院生に戻す。

 「返事を聞かせてくれないか?」

 「参加したいです。」








 「それで?」

 西野が去った後で守谷と小熊が三須の前に腰掛けて守谷が訊いた。

 「参加すると言ってくれたよ。彼は僕たちと同じ志を持っているからね…」三須は先ほどまで浮かべていた笑みを消して言った。「君らの方はどうなんだ?」

 「私の方は2人リクルートできた。」小熊が口を開きかけていた守谷を遮って言う。彼女は長い黒髪を束ねて左肩から垂らしており、薄化粧であまり目立たないようにしている。

 「また色目を使ったのか?」話しを遮られた守谷が茶化した。彼はあまり小熊が好きではない。

 彼女は鋭い視線を隣に座る男に向け、挑発を受けた守谷が睨み返す。それを見た三須は咳払いをして注意を集めようとするも、二人は聞く耳を持っていなかった。

 “ピリピリしてるな…”

 「仲間内で争う暇はない。それ以上するなら、“屠殺場”でやってくれ…」静かに三須が睨み合う二人の仲間に言った。

 守谷が視線だけ三須に向け「“屠殺場”か…」と呟いた。

 「そこまでする気はないわ。」小熊が向かい側に座る三須の方を向く。

 「なら、もうやめるんだ。それで守谷の方はどうなんだ?」大学院生が尋ねた。

 尋ねられた男は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、何度か画面に触れるとそれをテーブルの上に置いた。三須と小熊がそれに目を向け、画面に映る男の写真を確認した。

 「彼は?」と小熊。

 「剛田が連れてきた男だ。名前は『高橋 直人』。」守谷が情報を付け足した。「見込みがあると思い、武田に尾行させてる。」

 「引き入れる予定なのか?」三須が訊いた。

 「あぁ…その予定だ。」テーブルに置いた携帯電話に守谷が手を伸ばす。「まぁ、それはコイツ次第だが…」そう言って、彼は画面に表示されていた三浦の写真を削除して胸ポケットに携帯電話を戻した。








 尾行の存在には気付いていたが、三浦はそれを振り切ろうとはしなかった。その理由は、尾行者が三須や守谷と行動を共にしている武田衛であったからである。加えて、もし武田を振り切ろうとすれば怪しまれると三浦は思った。

 “昨日の件か?それとも別件?”

 潜入中のSAT隊員が自宅アパートの敷地内に入ろうとした時、塀の内側から誰かが飛び出してきた。三浦は素早く対応しようとしたが、相手の正体を知って驚愕した。

 「だぁーいちゃん」高橋恭子が三浦に抱きついた。

 突然のことにSAT隊員は言葉を失い、これが夢であることを祈った。

 「驚いた?」恋人の顔を見上げながら高橋恭子が言う。

 「どうやって?」やっと三浦が言葉を発した。「何でここに?」

 「iCouldを使って来たの。研修先が京都なんて羨ましいなぁ~」

 “私用の携帯をアパートに置いてたから、それを追ってここに?”SAT隊員は自身の安全管理の乏しさと恋人の軽率な行動に苛立ちを覚えた。

 その時、三浦は自分を尾行していた武田の存在を思い出して周囲を見渡した。人影はない。彼は急いで交際相手を塀の内側へ連れて行き、再び周辺に武田または自分を監視する人物がいないか探した。

 「大ちゃん、どうしたの?」と高橋。

 「ホテルとか、新幹線の予約は?」

 「してないよ。大ちゃんの所に泊まる予定だったし…」

 “クソッ!クソッ!!”

 「ねぇ、大丈夫?何かあったの?」

 “大アリだ。クソッ!尾行を巻くべきだった。見られたかもしれない。いや、もしかしたら俺が家に入るのを見て帰―”

 「もしかして大ちゃん、怒ってる?勝手に来たから…」三浦の表情を見て高橋恭子は心配になってきた。

 「いや、ちょっと忙しくてね…」

 “冷静になれ…”

 「こっちに来て。」SAT隊員が交際相手の手を引いて自分の部屋へ向かう。

 部屋に入るなり、三浦は土足で家に上がって隠していた私用の携帯電話を取り出した。

 「何か変だよ、大ちゃん…」恋人の異変にたじろぎながら高橋が言う。

 “恭子だけでも逃がそう…”

 「大丈夫。大丈夫だから…」交際相手を抱き寄せて三浦がやさしく言った。「これから駅に行く。東京に帰ろう。」

 「大ちゃん、怒ってる?」三浦の両腕の中で彼女は安心感を得ていたが、心配になって尋ねた。

 「怒ってないよ。ただ、恭子のことが心配なんだ…」








 胸ポケットの携帯電話が震え、守谷が画面を確認する。三浦を尾行していた武田からメールが届いていた。メールには向かい合う三浦大樹と高橋恭子の写真が添付されており、写真の下に文章が添えられていた。

 「この女は高橋の交際相手だと思われます。しかし、女は彼を『大ちゃん』と呼んでました。女も監視しますか?

 “これは、これは…”

 守谷は思わぬ収穫に喜んだ。そして、次のように返信した。

 「その二人から目を離すな。

 「いいかな?」三須がスマートフォンに目を奪われている守谷に問い掛けた。

 「あぁ…」

 「じゃ、自己紹介を頼むよ。」三須が隣に座る西野に促した。

 潜入捜査官の前には守谷と小熊が座っている。西野が三須たちの考えている計画に参加する事を決めたので、大学院生は西野を信頼する仲間に紹介する事に決めたのだ。

 「小林健です。よろしくお願いします。」西野が一礼して言った。

 「小熊です。よろしく。」

 「守谷だ。」

 「一応…」それぞれの名前を言い終えた所で三須が話し始めた。「彼らと僕がメインで運動を指揮してる。それだけは知ってもらいたかった。」

 「それで俺は何をすれば?」

 「時が来たら教えてるさ…」と守谷。「時が来ればな…」








 深夜の菊池家で悲鳴が木霊し、老夫婦は飛び上がって娘の寝室へ急いだ。

 あの事件から2年の月日が経過した。菊池詩織は化学物質の影響をあまり受けておらず、意識を失ったのは微量の物質を吸引したことによる眩暈が原因だと診断された。病院には5ヶ月ほど入院し、その後、彼女は退院できるまでに回復した。

 しかし、後遺症はまだ残っていた。目のかすみ、体のだるさ、微熱、そして、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が見られ、菊池詩織は夜になると事件発生に見た光景を思い出してパニックに陥ることがあった。ゆえに老夫婦は娘を京都へ連れて帰り、彼女がパニックに陥って悲鳴を上げる度に菊池夫妻は娘を抱き寄せて宥めた。

 「大丈夫。大丈夫だから…」

 しかし、菊池詩織の状況は一向に回復せず、次第に菊池夫妻の精神も蝕み始めた。これに加えて菊池家の経済状況も圧迫されつつあった。事件後の補償はスズメの涙程度であり、ほとんどの医療費は自己負担だった。先の見えない状況に菊池信弘と妻の清子は精神的に参って体重を落として行き、睡眠も満足に取れていなかった。
 
 ある日、寝不足に悩まされていた清子は少し休もうとソファーで横になった。先程までパニックに陥っていた娘を寝かせたばかりだったので、彼女は疲れ切っていた。もう10分もすれば、夫の信弘が帰って来るのでそれまでの間だけでも眠ろうとしたのだ。

 「帰ったよ。」

 玄関から聞こえてきた夫の声を聞いて清子が起き上がって信弘を出迎えた。

 「お帰りなさい。」

 「詩織の様子を?」

 「さっき眠ったところよ。」

 「そうか…」信弘が清子の肩に手を乗せる。「少しは休んだかい?」

 「えぇ…」

 「晩御飯は出前にしよう。君は少し横になった方が良い。詩織に何かあれば、私がなんとかするよ。」

 「ありがと。」

 菊池信弘は娘の様子を見に2階の寝室へ向かい、妻の清子はリビングのソファーへ戻った。階段を上がり切ると、信弘は娘の寝室のドアが開いていることに気付いた。

 “変だな…”

 不思議に思いながら寝室の中を見ると、彼の心拍数が急激に上がった。部屋に愛娘がいないのだ。








 尾行を巻くために三浦は4回タクシーを乗り換えた。乗り換える前は何度も人が大勢集まる場所に入り、別の出口を使って出ると違うタクシーを拾う。これを繰り返し、怪しい人物の有無を確認した。また、移動の最中に潜入捜査中に使っていた携帯電話を歩行中の男性のポケットに滑り込ませた。電話のGPSで追われることを警戒しての事であり、時間稼ぎにはなるだろう、と三浦は思った。

 何度も背後を気にする恋人の様子を心配そうに見守る高橋恭子は何も言わずに三浦の左手を握る。質問したい事だらけであったが、彼女は敢えて口を開かなかった。

 「疲れてない?」少し歩くペースを落として三浦が高橋に尋ねる。

 「少し…」

 「もうすぐだから我慢して。」

 尾行を巻いたと確信を得た三浦は京都駅へ急ぎ、できるだけ早く恋人を安全な場所に逃がそうとした。

 “ここまで来れば、もう―”

 高橋恭子の手を引きながら駅構内に入った瞬間、三浦は周囲に目を配る剛田の姿を見つけた。

 “アイツら…”

 SAT隊員は素早く踵返して駅を後にする。

 「どうしたの?」と高橋。

 「ちょっと予定を変えよう。」

 そう言うと、三浦は私用のスマートフォンを取り出して連絡役の山中に電話した。

 「どうした?」山中はすぐ電話に出た。

 「今すぐ会えませんか?」客待ちをしていたタクシーに交際相手と共に乗り込んで三浦が言った。

 「何かあったのか?」

 「いつもの場所で会えますか?」連絡役の質問を無視して潜入中のSAT隊員が尋ねた。

 「可能だが…」

 「すぐに来てください!」

 三浦は一方的に電話を切って、タクシーの運転手に駅から少し離れたレストランへ行くように言う。

 「大ちゃん…」高橋恭子が三浦の手を握る。「ゴメンね…」

 「何で?どうしたの?」

 「私のせい?私が来たから…」

 「恭子は悪くないよ。悪いのは俺の方さ。だから、心配しないで…」三浦が恋人の手をやさしく握り返す。

 今度は3回タクシーを乗り換えて尾行の確認をし、連絡場所として使っている運送会社から40メートル離れた場所でタクシーから降りた。

 「どこに行くの?」高橋恭子が尋ねた。

 「上司の所だよ。安全に逃げるには助けが必要かもしれない…」

 「逃げる?どういうこと?」

 「後で説明するから…」

 “西野って人もいる。俺はもう降りるしかない…”

 運送会社まであと10メートルに迫り、三浦は山中が車で来ていることを祈った。そして、5メートルと迫った時、三浦は運送会社の門に立つ男の姿を見た。

 “嘘だろ…”

 門の前に立つ男は守谷であった。三浦はその場で立ち止まり、それに釣られて高橋恭子も立ち止まる。

 「走るよ…」

 そう言って、SAT隊員が来た道へ戻ろうと高橋の手を引く。そして、後ろを振り向いた時、三浦は12メートルほど離れた場所で仁王立ちして二人を待ち受ける武田衛を見つけた。

 徒ならぬ状況に高橋恭子は怯えて交際相手の左腕にしがみ付き、三浦の顔を見上げる。彼は額に大量の汗を浮かべ、歯を食いしばっていた。

 「大ちゃん…?」

 恋人からの問い掛けは三浦の耳に届いていなかった。彼はこの場から逃げ出すことしか考えていない。高鳴る鼓動を感じながら三浦は守谷と武田との距離をもう一度確認する。襲撃者たちはゆっくりと三浦たちに迫っていた。運の悪い事に彼らのいる道は一本道で両端は高い塀がある。飛び越えられないこともないが、高橋がヒール靴を履いているので素早く移動するのは難しく、着地の際に足首を捻れば捕まる可能性が高まる。

 SAT隊員は左腕にしがみ付く交際相手を見た。この時、彼女と目が合って胸が締め付けられそうになった。

 「ごめん。」三浦が言った。そして、彼は右手を彼女の頬に添えた。「恭子に会えて本当に良かった…」

 「どうしたの?」高橋自身も分からなかったが、胸が苦しくなり、涙が込み上げて来た。

 「ちゃんと声にして言ったことなかったけど…愛してるよ。」

 「今日の大ちゃん…変だよ…」

 「そうかな?でも、言いたかったんだ…」

 守谷と武田が7メートルに迫る。

 「ちょっと走るよ。走り出したら、僕から少し離れるんだ。」落ち着いた口調で三浦が恋人に言った。「もし…僕に何か起きても走り続けるんだ。いいね?」

 「どういうこと?あの人たちは誰?」

 「ちょっとした知り合いだよ。いいかい?走るよ…」

 戸惑いながらも高橋恭子が頷いた。それを見て三浦は彼女に微笑みかけ、再び襲撃者たちとの距離を確認する。残り約5メートル。

 (どんな陣形にも弱点はある。そこを見極め、全力で突け。)

 SAT隊員の頭に中島の声が甦ってきた。

 “ここで終わりみたいっす、先輩…”

 三浦は恋人の手を引いて走り出した。彼らの向かう方向には武田衛がいる。潜入中のSATは守谷よりも武田の方が弱いと見た。本能的に彼は守谷の威圧感と自信に脅威を感じ、それに劣る武田衛が『陣形の弱点』と判断したのだ。

 標的が動き出すと守谷が後を追って走り、武田は身構えて三浦を迎え撃とうとした。

 恋人の手を引いて走る三浦と武田の距離が2メートルに迫り、武田衛はSAT隊員の動きを止めようと前押し蹴りの構えを取る。それを見て三浦は瞬時に高橋から手を離し、武田が蹴りを出す直前に敵の右斜め前へ踏み出す。そして、武田の右押し蹴りが放たれると同時に三浦は右ストレートを襲撃者の右頬に叩き込み、続いて左のローキックを武田の左膝裏に入れた。

 三浦が攻撃する間、高橋恭子は走り続けた。そう恋人が言ったからだ。

 攻撃を受けてバランスを崩した武田衛は体勢を立て直そうとするも、その前に三浦に背中を押されて近づいてくる守谷と衝突しそうになった。守谷は仲間を支えようとはせず、逆に左へ退かせて逃げるSAT隊員とその交際相手の後を追う。

 逃げる二人であったが、高橋のヒール靴がその邪魔をした。長時間の徒歩も加わり、彼女は疲れていた。彼らと守谷の距離は縮まり、交差点に達する前に捕まりそうであった。

 “やっぱりダメか…”

 三浦は立ち止まって守谷に向き合った。襲撃者は走ってきた勢いを使ってSAT隊員に殴り掛かってきた。

 「大ちゃん!」それに気づいた高橋恭子が立ち止まって叫んだ。

 SAT隊員は守谷がリズミカルに繰り出してきた左右の拳を後退しながら弾き飛ばし、左拳を相手の顔面目がけて突き出した。しかし、守谷は頭を横に傾けて回避し、左フックを三浦の腹部に入れる。手応えを感じた男はSAT隊員を追い込もうと素早く次の攻撃に出た。まずは右アッパーで三浦の顎を捕えようと放つ。だが、危険を察知してSAT隊員が後退したので、軽く顎に触れるだけで済んだ。次に守谷は左ストレートを出し、すぐにでも右拳を繰り出す準備を取る。

 一方、突き飛ばされて転んだ武田衛は三浦と守谷の戦いに目を奪われた。しかし、彼は同じくその戦いを見守る高橋恭子の存在を見つけて本来の目的を思い出した。武田は素早く立ち上がると高橋の所へ走った。

 守谷の左ストレートが来ると同時に三浦は相手の左斜め横へ移動し、守谷が付き出した左腕の下を通して右掌底を敵の下顎に叩き込んだ。そして、SAT隊員は左肘を相手の側頭部へ向けて振り下ろした。この時の唯一の誤算は守谷が体の向きを変え、繰り出した左肘が相手の額をかすめたことであった。狙い通り命中していれば、逃げる時間が稼げたかもしれなかった。肘が守谷の額をかすめたことによって、彼の額に小さな切り傷ができた。これが引き金となって守谷の攻撃の勢いが増した。

 右フックが三浦の左側頭部に向かって繰り出され、彼が急いで防御するもその際に使用した左腕に強い痺れが訪れた。守谷が次の攻撃を繰り出そうとした時、武田衛が二人の横を走り抜け、三浦は恋人が上手く逃げ切れたのか気になって敵から目を逸らしてしまった。

 “バカめ…”

 守谷は絶好のチャンスを逃さず、左肘を三浦の側頭部に勢い良く叩き込んだ。この攻撃を受ける直前、SAT隊員は数メートル離れた場所で震えながらこちらを見つめる高橋恭子を見た。

 「逃げ―」

 守谷の肘が三浦の言葉を遮り、その衝撃の強さにSAT隊員は膝から地面に崩れ落ちた。急いで立ち上がろうとするも、守谷が右ローキックを三浦の顔面に叩き込む。その激痛と衝撃から三浦は背中から倒れ、この際に高橋恭子の悲鳴を聞いた。

 “きょ、恭子…”

 立ち上がれと体に命令を出すも、SAT隊員の体は思うように動かない。

 「残念でした…」そう言って、守谷は三浦の頭を蹴り飛ばした。

 意識が薄れる中、三浦は必死に霞む視界を鮮明にしようと努力した。高橋恭子が助けを求めて恋人の名を呼んでいても、視界の靄は広がり、体に力は入らない。

 “助けに…行くから…”

 しかし、三浦の努力は虚しく闇が彼の視界を包み込んだ。

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13-3





 「神原教授は道州制の採用を強く主張している。」

 教室内にいる生徒たちの顔を見回しながら、もうすぐ50歳を迎える寺島教授が授業を進める。しかし、大半の生徒たちはあまり興味が無い様子で机の上に広げた教科書を見ていた。

 「彼はかなり前から中央集権国家に批判的であり―」

 教授にとって、学生が興味津々であるかどうかは関係ない。ゆえに彼は話しを続けた。

 この講義は三年生向けに行なわれている演習(「ゼミ」または「ゼミナール」とも言う)であり、少人数で議論を行って理解を深めることを目的としている。生徒たちはこの演習を「寺島ゼミ」と呼び、地方政治に興味がある学生の間で人気が高い。

 『小林 健』として京都大学に在籍している西野はこの寺島ゼミを履修して他の生徒と同じように学び、そして、同時に学内の動きを注視していた。しかし、今のところテロ攻撃に繋がるような情報は一切得られていなかった。この状況に西野は苛立ち、もっと積極的に動くべきかどうか考えていた。

 “攻撃は明日起きるかもしれない。”

 そう考えると居ても立ってもいられなくなった。しかし、焦りは禁物である。もし、テロリストに潜入捜査が気付かれれば、時期を早める可能性もある。または警戒してテロリストが行動の秘匿性を高めるかもしれない。

 「小林くん、何か言いたそうな顔だね。」寺島教授が険しい顔をしていた西野に発言を促した。

 突然名前を呼ばれたため、西野は混乱した。

 「中央集権と地方分権のことだよ…」西野の隣にいた女子学生が小声で教えてくれた。

 「えーと…」潜入捜査官は同級生の助言に感謝し、就寝前に予習した内容を思い出しながら自分の考えを述べ始める。「個人的には地方政府にもっと権限を委譲すべきだと思います。」

 「何故?」思わぬ議論の始まりに教授は興味を示した。

 「中央政府の思考はパンク寸前で、地方に目をかける余裕はないです。いくら地方政府が中央の支援を求めても、昨今の日本は首都のことしか考えていないので援助は期待できないです。このような状態を打破するには、地方政府の裁量権を拡大し、それに加えて今より強い権限を地方に与えるべきだと思います。」

 寺島教授は腕を組んで天井を見た。「しかし、腐敗して目も当てられない地方政府もある。権限を拡大すれば、汚職の規模が拡大すると思わないかね?」

 「中央政府の無駄遣いに比べれば小さいものだと思いますが…」と西野。

 「確かにそうだが、それでも汚職を助長する危険性がある。」

 「でも、それは政治家の問題であって、統治機能の問題ではないです。それに中央政府が汚職を容認しているから、地方政府も同じく腐敗するのでは?模範となるべき人々が腐敗していたら、それを見る人々も腐敗するはずです。」

 しばらく西野の目を見つめてから、寺島がこう言った。

 「面白い。でもね、小林くん…逆もあり得るんだよ。地方の腐敗が中央に伝染するかもしれない。でも、面白い考えだよ。他に意見のある人はいるかな?」

 授業が終わって西野が教室を後にしようとした時、細身の男子学生が歩み寄ってきた。その学生に気付くと、潜入捜査官は近づいてきた男性の方を向いた。

 「さっきの話し、面白かったよ。」細身の男が話しかけてきた。

 「ありがとう。まぁ、先生には相手にされなかったけど…」そう言って西野は俯いた。

 「寺島先生はいつもあんな感じだよ。」

 「でも、俺はまだ勉強不足だし…」

 「そう思えることが大切だよ。この学校には勉強する必要性なんてないと思ってる学生もいる。」

 西野はこの男子学生の言葉に励まされ、もっと自信を持つべきだと思った。彼は教授に率直な意見を述べ、それが正しいことだと信じて疑っていない。

 「確か、小林くんだよね?」と細身の男が訊いた。

 「そうです。失礼ですが、あなたは?」

 「申し遅れたね。僕は三須。大学院の2年生で寺島先生のTA(ティーチング・アシスタントの略。教授の補助業務を行う大学院院生のこと)をやってるんだ。よろしく。」

 三須が西野に右手を差し出し、潜入捜査官はその手を握った。







 西野より先に潜入していた三浦は講義ではなく、課外活動を情報収集の拠点にしていた。学生の行動を知るには、彼らが主体となる課外活動に加わるのが早道だと三浦は連絡役に報告しているが、実際は学業に興味がなかったので、楽しそうな課外活動に目を向けたのだ。

 入学から1週間後、三浦は手始めに課外活動の説明会に足を運んでみた。この説明会は野外に長テーブルを並べて行なわれるものであり、気軽に先輩学生と触れ合うことができる。

 “何のサークルがいいかな?”

 説明会の入り口で配布されていた課外活動団体一覧に目を通しながら三浦は考えた。

 “運動系もいいけど、下手な癖が出ると面倒だし…そうなると、芸術系?”

 目星しい団体を探していると、三浦の目に見慣れた本の表紙が飛び込んできた。『壬生義士伝』。彼の好きな時代小説の一つである。その本の隣には歴史に関する本が数冊並べられており、小説は三浦が見つけた上下巻セットの壬生義士伝だけであった。

 それらの本が並べられている団体の長テーブル前面には『歴史研究会』と書かれた大きな紙が貼られていた。本に釣られて三浦が長テーブルの反対側に腰掛ける眼鏡をかけた三人組に近づく。

 「君は歴史が好きかい?」中央の席に座る色白の男が三浦を確認するなり尋ねた。男は青縁眼鏡をかけており、肌寒い日であるにも関わらず青いアロハシャツを着ていた。

 「興味はあります。」とSAT隊員。

 「どの時代?」右端の席にいる太った男が言った。彼は太い黒縁眼鏡をかけており、中央の男とは対照的に厚手の上着を着ていた。

 「江戸…いや、幕末ですかね?」

 三浦がそう言うと、小太りの男は鼻で笑った。左端に座っていた縁なし眼鏡をかけた男は黙って新入生の顔を見ている。

 SAT隊員が適当な理由を言って去ろうとした時、アロハシャツの男が咳払いをした。

 「このサークルは月に一度冊子を出しているんだ。いわゆる『研究成果』を出さないといけない掟があるのさ。そのための資料代として月3千円まで出る。」

 「いいですね。」三浦はその活動費で趣味の本が買えるかもしれないと淡い期待を抱いた。

 「冊子に投稿する内容は自由だし、興味があるならここに来てくれ。」アロハシャツの男が歴史研究会に関することが書かれた小さな紙を手渡した。

 三浦はその用紙を受け取ると笑顔を浮かべて去って行った。

 「あいつ、来ますかね?」小太りの男が離れて行く三浦の背を見て言う。

 「来るさ…」同じく新入生の背中を見ながらアロハシャツの男が呟く。「きっと来る…」






 混沌。

 娘が搬送された病院で菊地一家を待ち受けていたのは人の群れであった。

 事件発生から10時間は経過していたが、病院は彼らのような親族や友人の身を案じている者、警察や報道関係者で埋め尽くされていた。

 両親を待たせて菊地家の長男である『優介』は、人々の間を縫うように進んで受付へ向かう。しかし、受付は押し寄せる人々と電話の応対で忙しく、優介がいくら叫んでも彼の声は届かなかった。

 「詩織のお母さん?」

 長い髪を後ろで束ねた浅黒い肌の女性が長男を見守っていた初老の夫婦に声をかけた。菊池信弘とその妻・清子が女性の方を向く。

 「詩織のお母さんですよね?」再び女性が言う。

 清子が首を縦に振る。彼女は何となくその女性の顔に見覚えがあった。

 「来たんですね!詩織は4階にいます!!今はまだ―」

 「失礼ですが、どちら様ですか?」信弘が女性の会話を遮る。

 「電話した『山沢』です。」

 「あぁ、あなたでしたか…」

 「そんなことより、詩織の病室に案内します!」

 それを聞くと、菊池信弘は長男を呼び戻して娘の友人の後を追った。

 「先生?」三須の声が大学教授の回想を中断させた。「大丈夫ですか?」

 「あぁ…」窓の外に広がる景色を眺めたまま、菊地は向かい側の席に座る学生に向かって答えた。

 「もし、体調が優れないであれば―」

 「問題ない。」はっきりと菊地は言った。「それで今日の用件は?」

 二人は大学生近くのカフェで会っていた。学生の多い賑やかな場所であるため、常連客以外はあまり来ない。

 「寺島ゼミに面白い学生がいました。」

 「『良い学生』なのかい?」

 「昔の私に似ています…」口角を上げて三須が言う。「一応、守谷たちに調べてもらいましたが、問題はないようです。」

 「そうか…しかし、あまり時間がない。できるだけ早く『信頼できる学生』を集めて、あのマニュアルを学んでもらわないと…」

 「その件につきましては、今いるメンバーで対処します。補充人員には別の仕事をしてもらう予定です。」三須が思わせぶりな笑みを浮かべる。

 「つまり?」

 「磁石になってもらうんです。」








 ドアは開いていたが、礼儀として三浦はノックして「すみません」と言った。

 「どうぞ!」

 部屋の奥から返事があったので、三浦は室内へ入る。中には説明会にいた3人がおり、彼らは本を熟読していた。

 「失礼しまーす?」先輩たちの様子を伺いながら潜入捜査中のSAT隊員が言う。

 「元気かい、高橋くん?」左端にいた赤いアロハシャツ姿の『干場 義則』が尋ねた。彼はこの歴史研究会の代表であり、また、その設立者でもあった。

 「はい、元気です。」

 色々と考えた末に三浦はこのサークルに入ることにした。最初の数日は後悔しかなかったが、2週間程経って彼は自分の判断が正しかったと実感した。このサークルに所属する人々は歴史よりも学内の動きについて並々ならぬ関心があるのだ。その会話の中には噂話も含まれていたが、稀に三浦が求めている情報も含まれていた。

 「経済学部に剛田っていう野郎がいるんですけどぉ~」

 説明会にいた小太りの男が沈黙を破った。名前は『木内 和哉』といい、経済学部の2年生であった。

 「何かされた?」と干場。

 「その彼に惚れたんじゃ?」部屋の隅で本を読んでいた文学部3年生の『照井 明人』が茶化した。説明会の時は無口であったが、彼は人が少ない所で喋る事が多かった。

 「僕はそっち系じゃないですよ!」木内が声を大にして否定した。「いやぁ~大した話しじゃないんですけど…」

 「どんな話しなんですか?」興味のない振りをして三浦が尋ねる。

 「その剛田って奴、レンタカーまで借りて大量の肥料を買い込んでんだよ。」唯一、興味を示した後輩に向かって木内が言った。

 「ガーデニングに目覚めたんじゃね?」照井がコーラを飲んで言った。「もうすぐ時期じゃん。」

 「でも、10キロの肥料を5袋も買いますか?それにアイツ、寮生活ですし、その肥料は寮に持って帰らないんですよ。どっかに横流しでもしてるんですかね?」

 「河川敷で農園をやってるのかもしれない。最近、増えてるらしいし…」読書に疲れたのか、干場が本から顔を上げて首を左右に回す。

 「通報した方がいいですかね?」と木内。

 「いや、いらないでしょ。」干場が腕時計で時間を確認しながら言う。

 「そうですよね…」そう言って、木内は読書に戻った。

 干場と照井はあまり興味を示していなかったが、三浦は興味津々だった。

 “『アンホ』かな?こりゃ、本命っぽい…”







 「ねぇ、聞いてるの?」

 そう言われて、西野が携帯電話から顔を上げた。「聞いてるよ。」

 「ホントに?」向かい側に座る吉崎美由紀が目を細めて西野を凝視する。

 「ホントだよ。あれだろ?職場の―」

 「やっぱり聞いてないじゃん!」

 西野は困った顔をして携帯電話をテーブルの上に置いた。「ごめん。聞いてなかった…」

 「警察官になってから史くん変わったよね。」

 「そうかな?」

 「うん。」美由紀がカフェオレの入ったグラスを持ち上げる。「なんていうか、大人になったよ。」

 「実感がないけど…」

 「おじさんになったって言われる良いでしょ?」

 美由紀が悪戯な笑みを浮かべ、西野もつられて笑みが顔に広がった。

 何かが弾けるような音が聞こえた。そして、西野がその音の正体を突き止めようとした瞬間、喫茶店にいた人々が凄まじい勢いで吹き飛ばされた。そこで西野の意識が途絶える。

 どれくらいの時が経過したのか、西野が目を覚ますと破壊された喫茶店と壁一面を染める血が見えた。あまりの光景に西野は吐き気を催したが、すぐに交際相手のことを思い出して周囲に目を配る。そして、彼は変わり果てた愛しい女性の姿を見つけた。

 凄惨な現場を目撃するなり、西野はベッドの上で飛び上がった。心拍数が異常に高く、全身汗だくになっている。

 “夢…?”

 潜入捜査官は自分の居場所が分かると、安心したのかベッドから下り、水を求めてキッチンに向かった。

 「夢か…」

 悪夢の中とは言え、西野は美由紀の姿を見られて嬉しかった。その一方でテロへの恐怖も増幅した。

 「本当に…俺でいいのか…?」

 陽の光がカーテンの隙間から差し込み、朝の訪れをテロに怯える西野に伝えた。彼は身支度を整えて大学へ行く準備をする。今日の講義は休みだったが、寺島ゼミで話し掛けてきた三須に誘われたので西野は学校に向かった。

 大学のカフェテリアに着くと、三須が手を振って西野に居場所を知らせる。

 「元気かい?もしかして、忙しかったかな?」約2週間前に少し話した程度であるにも関わらず、三須は長年の友人に会ったような満面の笑みを浮かべて西野を出迎えた。

 「いいえ、今日は講義がなかったので…」

 「そっか…ところで、何か注文する?」

 「いえ、大丈夫です。」

 あの夢を見てから西野は何も口にしていなかった。というよりも、したくなかったのだ。

 「話しが変わるけど、寺島ゼミはどう?」西野の反応に不安を抱きながら、三須が話題を変える。

 「とても興味深いですが、納得できない点もあります。そう言えば、先週のゼミに来ませんでしたよね?」

 「ちょっと用事があって…」大学院生はやんわりと西野の質問を流す。「僕は小林くんの考えに共感してるよ。実は僕も寺島先生と君みたいに話した事があるんだ。同じことを別の講義とかでもやって少し思ったんだ。今の日本は…まるで植物状態だ…」

 「植物状態?」西野は戸惑った。

 「そうだよ。意思決定は他人任せ。経済も自力では活性化できない。多くの人々が前の世代の貴重な資産を食い潰している。残念だけど、今の日本は正常に機能していない。君がゼミで言ったように…この国は腐敗してるよ。」

 「なるほど…」初めて似た意見を持つ人物と出会えて西野は驚くと同時に嬉しかった。

 「君は僕の説をどう思う?」

 「植物状態という表現は新鮮で興味深いと思います。でも、まだ完全な植物状態ではないと思います。まぁ、近い状態にあるかもしれませんが…」

 西野の率直な意見に三須は喜んだ。「かもしれない。または僕たちの知らぬ内に植物状態になってるのかもしれない。」

 「もしそうなら、すぐにでも体制を建て直す必要があるのでは?」

 「その通り…でも、どうすれば良いのだろう?」三須の顔から笑みが消えた。

 「どうすればって…選挙と言っても、候補者と有権者によっては失敗するでしょうし…他の手段かぁ…」

 西野は真剣に考えを巡らせたが、選挙以外の良い案など思い浮かばなかった。『クーデター』や『革命』と言った言葉が脳裏を過ったが、西野は非現実だと思ってその考えを捨てた。

 “やっぱり息絶えるのを見守るしかないのか?”

 「小林くん…」目の前で考え込む西野を見かねた三須が口を開いた。「院生と学部生を集めて毎週金曜日に勉強会をやってるんだけど、来ないかい?」

 「えっ?」

 「勉強会に参加しないかい?一緒に答えを探そうよ。この国を良くする方法を…」







 歴史研究会に顔を出した後、三浦は大学から7キロほど離れた場所にある運送会社に足を運んだ。苦学生という設定なので、潜入中のSAT隊員は夜に運送会社で荷物の仕分け作業のアルバイトをしなければならないのだ。厄介な設定ではあるが、この運送会社に連絡役がいるので辞めることはできない。それに辞めれば辞めたで偽IDの設定が崩れる。

 “テロ計画を阻止するまでの辛抱だ。”

 そう自分に言い聞かせて三浦は仕事場である倉庫に入る。そう思うだけで気が楽になり、また、潜入捜査後に待つ恋人との再会に胸を躍らせた。

 作業の途中でトイレに行くと、小便器のところに連絡役の『山中』という男がいた。

 「お疲れ様です。」三浦が連絡役の隣にある小便器の前に立つ。

 「例の剛田っていうのはどうなった?」正面の壁を見つめながら山中が尋ねる。

 「なかなかフレンドリーですよ。」

 歴史研究会で聞いた話しを元に三浦は学内の個人情報にアクセスし、経済学部2年の『剛田 政雄』を見つけて4日ほど行動確認を行なった。大量に農薬を買うなどの極端な行動は見られなかったが、図書館や教室に暗号で書かれたメモ紙やUSBメモリーを隠し、その数時間後に別の誰かがそれらを回収するのを三浦は確認している。

 後日、潜入中のSAT隊員は剛田の『落し物』を回収した人物たちを盗撮して連絡係に渡し、彼らが別の学部に所属する学生であることが明らかになった。そして、剛田たちの人脈が分かり始めたところで三浦は剛田に接近した。

 「3日前の講義で隣に並んだ際に話し掛けたら、親切に提出期限間際のレポートについて教えてくれました。その次の日も偶然を装って接近して話したんですよ。」

 「今度は何だ?また、宿題についてか?」

 「そんなワンパターンじゃないですよ!試験です。試験!」

 「それで?」スラックスのジッパーを上げて山中が先を促す。

 「なんか勉強会に誘われましたよ。他の学部の学生も集まってテスト情報の交換とかしてるらしいです…」

 「なるほどぉ~」山中は西野の連絡役を務めている同僚から似たようなことを聞いていたので、手を加えるべきだと思っていた三浦の手法を見守ることにした。

 「実はな…」山中が便器から離れて手洗い場へ向かいながら言う。「もう一人、潜入捜査中の警察官がいる。お前と彼のためにも、誰とは言わないが…」

 「同じ大学ですか?」

 「いや、別の場所だ。彼も勉強会なるものに呼ばれてるそうだ…」手洗いを終えた山中がトイレのドア前で立ち止まる。「まぁ、なんというか…あまり気張るなよ。何かあれば、もう一人いるんだし…自分の身を第一に考えて行動しろよ。」

 「分かりました。」

 「頼んだぞ。」そう言うと、山中はトイレを後にした。

 そして、仕事が終わると三浦は急いで帰宅した。

 “また怒られるな…”

 アパートに着くなり、SAT隊員は盗聴器や仕掛けカメラの有無を確認し、安全を確保するとキッチンマット下の床板を一枚取り外す。そこにはジップロックに入ったスマートフォンがあった。急いで電源を入れ、起動するのを待つ。

 “早く、早く…”

 暗証番号を入力する画面が表示されると、三浦はすぐに4桁の数字を打ち込んでロックを解除する。次にSkypeのアプリを起動して交際相手に電話した。

 「遅くなってゴメンッ!!」通話が始まるなり三浦が謝った。

 「もぉ、遅すぎぃー」受話口から高橋恭子の声が聞こえてきた。「大ちゃん、浮気してるんじゃない?」

 「浮気する暇が欲しいくらい忙しいって…」最近、三浦はこの手の質問に疲れていた。彼は彼女ほど魅力的な女性はいないと思っており、この女性となら幸せな家庭を築いて行けると信じている。

 「ねぇ、研修っていつ終わるの?」

 「まだ分からないけど…意外と早く終わるかも…」

 テロリストと思われる学生たちの動きが掴みかけていたので、三浦はもう少しで潜入捜査が終わるだろうと推測していた。

 「早くって?来月とか?」高橋が嬉しそうに尋ねてきた。

 「そんなに早くないと思うなぁ~。最長で半年…最短で3ヶ月くらい?」

 「まだまだ先じゃん…」受話口から聞こえてきた女性の声には落胆の響きがあった。「会いに行っちゃダメ?」

 「今は無理だよ。もう少しの辛抱さ…もう少しで会えるから…」

 「それじゃ浮気しないで頑張ってね!」浮気の部分を強調して高橋恭子が言う。

 「わかってるって…」








 西野と三浦はほぼ同時期に「勉強会」へ誘われたが、二人が同じ場所に集まることはなかった。この勉強会は複数存在しており、西野は三須が主体の京都大学グループへ、そして、三浦は小熊という女性が取り仕切る立命館大学グループへ参加した。

 主に有名大学の学生を集めて行われる勉強会では、実際に提出課題や試験のため対策を行い、さらにそれぞれの専門分野に関することを議論する場を提供している。全ては三須と小熊が考えた人材確保のための手段であった。

 二人の潜入捜査官は勉強会に潜入できれば、テロ計画の情報が掴めると思っていた。しかし、三須たちはそこまで愚かではなかった。期待していた二人の捜査官を裏切るように3週間の月日が流れ、西野と三浦は次第に苛立ってきた。

 “ハズレか?”

 捜査官たちの連絡役も焦り、捜査の方針転換について考え始めていた。それでも西野と三浦は辛抱強く手掛かりを探し求め、その結果、不審な動きを見つけた。

 勉強会を終えて帰ろうとした時、西野は薄暗い階段の踊り場で電話する三須を目撃した。幸いな事に三須は窓の外を見ていたので潜入捜査官の姿を見ていない。足音を押し殺して身を隠すと、西野は耳を澄ませた。

 「今夜?急だな…」

 “何かの取引か?”三須の声しか聞こえないので西野に会話の全容が掴めない。

 「今度こそ大丈夫だろうな?」

 「問題ないと思うぜ。」三須の問いに守谷が答える。

 「金の準備はできてるが、もしものことを考えて対策も練った…」

 「というと?」

 「そろそろアイツも消そう。下手に動かれたら厄介だろ?」

 “確かに…”と三須は思った。“その時期かもしれないな…”

 「俺たち二人で?」三須が尋ねる。

 「いや、もう一人…信用できる奴を連れて行く。」

 「誰だ?」

 「それは会ってからのお楽しみにしようぜ。」

 三須は鼻で笑い、そして、何も言わずに電話を切った。西野は急いでその場を後にすると、携帯電話を取り出して既にハッキングした三須の携帯電話の履歴を確認した。

 “守谷?”履歴に表示された名前を見て西野は心の中で読みあげた。“取り敢えず、三須の動きを追うか…”







 顔が知られているため、西野は細心の注意を払って尾行した。

 三須は約1時間半かけて隣の滋賀県まで行き、JR湖西線のおごと温泉駅で降りて琵琶湖の方へ歩き出した。潜入捜査官が25メートル程距離を開けて三須の後を追うも、対象者は途中でタクシーを拾って移動し始めた。

 “クソッ…”西野もタクシーを拾う。

 「どちらへ?」と運転手。

 潜入捜査官は携帯電話の画面を見て、三須が近くにあるボート置き場で止まったことを確認する。

 「ここに行ってもらえませんか?」西野が携帯電話の画面を運転手に見せる。

 「えーと、マリーナですね…」目的地を確認すると白髪頭の運転手がタクシーを走らせた。

 西野はボート置き場の50メートル手前で運転手に停車するよう言い、会計を済ませると三須の行方を追った。三須はボート置き場の敷地内におり、西野はできるだけ離れた位置で対象者を監視することにした。

 三須から20メートル程離れた大型ボートの陰を監視位置に決めた時、背後から物音が聞こえた。急いで振り返ろうとしたが、その前に腕が西野の首に巻き付き、続いて口を塞がれて後方へ引き倒された。

 “見つかった!!?”

 必死に抵抗しようと動くも、西野を抑える人物の力が強すぎてビクともしない。

 「静かにして下さい。見つかってしまいますよ…」西野を抑える男が言った。

 “誰だ?”

 「手を離しますけど、暴れないでください。」三浦は静かに西野から手を離した。

 「お前は?」SAT隊員の方を向いて西野が尋ねる。

 「同業者ですよ。そう言えば、分かってもらえると思いますが?」三浦は目の前にいる男が『もう一人の潜入捜査官』だと思いながらも、警戒して身元を明かさなかった。

 「そうか…お前も三須の監督役か?」西野も敢えて身元を伏せ、三須の仲間である振りをした。

 「いいえ、僕は守谷の監督役です。」

 “守谷…三須の通話履歴にあった名前だ。コイツが例の警官なのか?”

 「質問させ―」

 西野が三浦に問いかけようとした時、潜入捜査中のSAT隊員が右手の人差し指を三須がいる方へ向けた。これを見て西野は質問を後回しにして、三須たちの行動を監視することにした。









 静まり返った夜の琵琶湖を見つめていると、背後に迫る足音を聞いた。三須はゆっくりと振り返って近づいてくる人物を見た。

 「やぁ!」白い歯を見せてフィリピン人のパオロが言った。

 「用件は?」三須は世間話抜きで本題に入ろうした。

 「商品が入ったから呼んだのさ。いつもの彼はいないのかい?」パオロがリュックサックを肩から下ろして守谷のことを尋ねた。

 「彼は別の仕事で忙しいんだ。」

 「そうかい…」

 「それで約束の物は?」三須がパオロとの距離を縮める。

 「兄さんもせっかちだねぇ~」そう言いながら、フィリピン人は鞄から横30センチ、縦10センチ程の木箱を慎重に取り出した。「ちゃんとしたグレネードだよ。お金は?」

 「あるよ。」大学院生は上着の内ポケットから膨らんだ封筒を取り出した。

 封筒を見るなり、パオロが口笛を吹いた。それは大金の入った封筒に向けたものではなく、誰かに合図を送るような高い音だった。

 “コイツとの取引も終わりだ…”フィリピン人は大金が入っている封筒を奪い、目の前にいる若い日本人を殺そうと計画していた。そのために仲間を二人連れてきた。先ほどの口笛はその二人を呼ぶための合図だった。“もう一人の男がいないのは残念だが、コイツを消せばあの守谷とかいう野郎も怯えるだろう…”

 しかし、パオロの仲間は現れなかった。彼がもう一度口笛を吹こうとした時、三須が笑い出した。フィリピン人は急に怖くなって周囲を見渡した。

 “アイツらは何所に―”

 そして、パオロは二人の仲間を見つけた。だが、二人とも口に猿轡を噛まされた上に両手を後ろで縛られた状態であり、守谷と見た事ないもう一人の男に背中を押されて三須とパオロの所に近づいてくる。パオロは唖然として捕えられた仲間を見つめ、次第に込み上げてくる恐怖によって両脚が震えた。

 「こうなるとは思わなかったよ…」三須がパオロの肩を背後から軽く叩く。フィリピン人は驚き、振り返りながら地面に座り込んでしまった。「残念だよ…」

 守谷ともう一人の男が捕まえた二人のフィリピン人をパオロの横まで連れて行くと座らせた。

 「彼が例の助っ人かい?」三須が守谷の横に立つ男を見て尋ねた。

 「そうだ…」と守谷。

 「初めまして。武田衛です。」鉄パイプを持つ男が三須に一礼する。

 彼らはまるで拘束している外国人の存在を無視するかのように話していた。

 「それはさて置き…」三須がやっとフィリピン人たちの方を向く。

 「頼むよ!彼らはただの護衛だ!アンタの連れみたいなもんだよ!!」パオロが叫ぶ。

 「うるさい奴だ。」守谷が武田の持っていた鉄パイプを取り上げ、自分が捕まえたフィリピン人の後頭部を殴った。殴られた男は呻きながら前のめりに倒れ、それを見て守谷は殴った男の前へ移動する。

 「調子はどうだい?」守谷がパオロに笑みを送る。

 「やめてく―」

 パオロの訴えは虚しく、守谷は同じ男の頭を何度も鉄パイプで殴った。男の体は殴られる度に震え、その後、数秒間激しく体を痙攣させて動かなくなった。

 それを見た二人のフィリピン人は失禁し、体を震わせて守谷の動きを注視する。返り血を浴びた守谷は真っ赤に染まった鉄パイプを振り上げ、パイプに付着していた血と肉片がパオロの顔と胸に飛んだ。パオロは逃げようとするも、体が動かず、ただ震えることしかできない。

 「分かってくれたかい?」三須が怯えるパオロに問いかける。「僕たちは正式な取引を望んでいたのに…君は裏切った…」

 パオロが喋ろうとするとも、口から出てくるのは言葉ではなく判別不能な音であった。 

 「落ち着くんだ。」と三須。「何が言いたいんだい?」

 「ゆ、ゆ、ゆ、許してくれ!お…俺、俺には、小さい娘がいる!!殺さないでくれッ!!!」どうにかパオロが声を出して助けを求めた。

 武田は守谷と三須の様子を伺っていた。初めて参加した密会に彼は興奮しており、憧れの二人がどのようにしてこの問題を解決するのか知りたかった。

 三須が一歩踏み出してパオロの両頬に手を添える。「許すよ…」

 これを聞いてフィリピン人は救われたと思い、笑顔を浮かべて胸を撫で下ろした。彼は両頬にやさしく手を置く三須が神の使いの様に見え、この男に逆らうべきではないと肝に銘じた。

 “これで終わり?”武田は失望した。“全員殺すと思ってたのに…”

 「ありがとう!ありがとう!!」パオロが涙を流しながら三須に感謝する。

 これを受けて三須はフィリピン人に笑みを送った。そして、彼は親指でフィリピン人の眼球を押し潰した。

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返報 13-2 [返報]

13-2



 自宅に近い公園のベンチで西野は考えていた。
 “地域の安全を守ることもできないのに、テロ攻撃なんて阻止できるはずがない…”
 小さい頃からスーパーヒーローに憧れていた西野は、刑事になって人々を悪者から救いたいと思っていた。大学を卒業して一般企業に就職しても、その夢が変わることはなかった。ゆえに彼は退職して警察官になった。しかし、西野の理想は崩れ去ろうとしている。
 上司は職務怠慢で積極的に犯罪を取り締まろうとはしない。西野は何度か未然に防げそうな犯罪を目の当たりにしてきたが、上司は「気にし過ぎだ」と言って目を逸らすことが多かった。また、西野が救おうと思っている人々は制服姿の彼を見るなり、露骨に避けたり嫌悪感を見せたりした。中には好意的に接してくれる人もいるが、警察官に良い印象を持っていない人々が目について落ち込むこともあった。それでも西野は自分にできることをしようと努めてきた。
 “断ろう…”
 ベンチから立ち上がり、西野は自宅へ向かって歩き出した。
 「何者かがテロ攻撃を計画している。」
 頭にスーツ姿の男の声が甦ってきた。
 「我々はかなり大規模な物だと想定している。」
 「静岡の学生は氷山の一角だ。」
 一歩一歩踏み出す度に、西野は会議室でのやり取りを思い出した。
 「我々はコイツらを止めたい。そのためには君が必要なんだ。」
 人気のない通りで立ち止まって西野は深呼吸した。
 “捜査に協力したい…”
 そう思っていても、西野は警察官として働く内に自分が無力な存在だと感じ、自分では役に立てないと考えている。また、両親や交際中の女性のことも考えると、潜入捜査への協力は難しいと判断したのだ。
 彼は再び深呼吸した。
 「揺るぎ無い信念を持ち、人々を助けるために身を投げ出す…テロリストと戦うには必要なことだ。」
 スーツ姿の男の声が再び甦ってきた。頭を振って何度も浮かび上がってくる潜入捜査への興味を払い除けようとするも、そうする度に捜査協力への思いが強くなった。








 “これだけか…”
 机の上に広げた武器を見て守谷和章は思った。机にはマカロフ拳銃を模造した北朝鮮製の拳銃5丁、フィリピンで密造されたUZIそっくりの短機関銃1丁、AK―47をコピーした中国製の突撃銃2丁が並べられている。これらは全て“使用可能な銃”であり、“不良品”ではなかった。
 “三池の所に拳銃が3丁と突撃銃4丁。小熊の所に拳銃2丁と短機関銃2丁。増田の所には―”
 守谷が他の仲間が所有している“使用可能な武器”の数を思い起こしていると、ドアの開く音が聞こえた。彼はジーンズのポケットから折り畳みナイフを取り出して静かに刃を出す。
 足音は彼のいる部屋へ真っ直ぐ近づいてくる。守谷は足音から侵入者が一人と推測し、忍び足でドア脇に移動して相手の様子を伺う。1LDKのアパートなので、玄関から真っ直ぐ歩いて来れば守谷のいる部屋に辿り着ける。
 侵入者は守谷のいる部屋の前で止まった。その後、息を押し殺して相手の動きを待つ守谷は拳銃の撃鉄を落す音を聞き、心臓が縮み上がるような思いを感じた。
 “公安!!?”
 「出て来いよ。守谷、お前だろ?」
 この声を聞いて隠れていた男は素早く飛び出して侵入者の姿を確認する。すると、細身の若い男が拳銃の引き金を絞った。パスッという音と遊底が後退して金属が擦れる音が室内に響き、小さな白い球が守谷の胸に命中した。
 「本物なら死んでるぞ…」三須が玩具の拳銃を床に向ける。
 気の長くない守谷は仲間の冗談に怒って額に青筋を浮かべた。「ふざけるな!」
 「そう怒るなよ。良い報せが入ったんだ。」
 「武器か?」間髪入れずに怒気をこめて守谷が尋ねる。
 「いや、例のマニュアルだよ。」
 「C-1のか?」
 「その通り。あとは君のいう武器だよ…君が購入者を殺し過ぎたから、例のフィリピン人はビビッてるみたいだよ。ヤクザを怒らしたって思い込んでる。」
 守谷はナイフを仕舞って笑みを浮かべた。「たった7人しか殺してないのにか?」
 「7人もだよ、守谷。」三須の声には微かに怒気が込められていた。「結構な数だ。これ以上の欠員は困る。」
 「足が付かないようにしてるだけだ。それにアイツらは警察にマークされていた。いずれにせよ、慎重な奴を仲間にしないとダメだ。」台所へ行って守谷は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。「でないと…計画が破綻する。」
 「わかってる。」壁に背を預けて三須が消え入りそうな声で言う。
 「先生はどうした?」
 「息子さんに会うと言ってたよ。」
 「例のバカ息子か?」
 「そうだよ。」そう応えると、三須も冷蔵庫から水を取り出した。
 「大丈夫なのか?勘付かれて通報でもされたら…」水を飲む仲間を横目に守谷が訊く。
 「心配ないさ…」飲み終えると三須はペットボトルのキャップを閉める。「何かあれば、消えてもらうから…」
 それを聞いて守谷は口元を緩めた。“人の事をあーだこーだ言うが、コイツの方が狂ってる。”








 自宅で荷物をまとめているとインターホンが鳴り、三浦大樹は作業を中断して玄関へ走って覗き穴で訪問者の姿を確認する。ドアの前には大きな白いビニール袋を持った女性が立っていた。
 「早く開けてよぉ~」と女性が言う。
 「ちょっと待った!」三浦は急いで開錠し、ドアを開けて交際相手を室内に招き入れた。
 「もう荷造りしてるの?」食品の入ったビニール袋を床に置くなり、交際相手の高橋恭子が半ば呆れ気味に言った。三浦の部屋は元から質素な部屋であったが、今はベッドとテレビ、それに8つの段ボールしかない。
 「準備だよ。準備。」彼女の買って来た食品入りのビニール袋を持ち上げてSAT隊員は台所に置いた。
 「まだ10日もあるじゃん!」
 「もしかしたら、早まるかもしれないんだ…」
 「早まったら、帰りも早くなる?」
 「それは分からない。」食料品を袋から出して三浦が言う。
 三浦は彼女の恭子に潜入捜査とは言わず、長期の『研修』と言っている。荷造りについては、研修が1年ほど伸びる可能性があるので、現在借りている部屋を引き上げて研修が終わるまで荷物を実家に預けるためだと説明した。
 「その研修が終わったら、私の両親に会ってくれる?」彼の隣に並んで恭子が訊く。
 「そのつもりだよ。」台所に左手をついてSAT隊員は右隣にいる彼女の方へ体を向ける。「『娘さんを僕に下さいっ!』って言いに行かないと…」
 「父が断ったら?」交際相手を見上げて恭子が悪戯な笑みを浮かべる。
 「駆け落ちでもする?」大樹も同様の笑みを浮かべた。
 「できるかなぁ?」再び悪戯な笑みを浮かべて彼女が言う。
 「できなけりゃ、何度でもお父さんにお願いするだけさ。」
 二人は互いの目を見つめて微笑み合い、そして、唇を重ねた。
 「そうだ!」恭子の方から唇を離す。「充電器使わせて。もうすぐ電源が切れそうなの。」彼女は思い出したように上着のポケットから携帯電話を取り出して三浦に見せる。
 「いつもの場所にあるよ。俺のも充電中だから―」
 SAT隊員が喋っている途中にも関わらず、恭子は小走りでリビングへ行ってまだ充電中の大樹の携帯電話からコードを抜き、自分の携帯電話の差し口に差し込んだ。いつものことなので、三浦は首を横に振りながら食品をビニール袋から出す作業を続けた。
 一方、恭子はメールチェックの振りをして三浦の携帯電話のロックを解き、事前に用意していた新しいiCloudのアカウントを交際相手の電子端末に登録した。
 “悪い気もするけど…”そう思いながらも彼女は大樹の携帯電話を元の位置に戻した。








 シャッターを切る音が室内に響いた。
 “可哀想な野郎だ…” 空きテナントに2階から向かい側の1階にある喫茶店の様子を伺う男は溜め息をついた。
 男の監視対象者は有り難いことに窓際に交際相手と座っており、店に入って監視する必要性がなくなった。また、監視対象者は安全の配慮に欠けていたので、古典的な手法ではあるが、Bluetoothを利用した強制ペアリングによるハッキングが成功し、リアルタイムでの盗聴に成功していた。
 「調子はどうです?」銀縁眼鏡をかけた男が缶コーヒーを窓枠に置く。
 突然のことに驚いて監視者はカメラから顔を上げ、相手を確認するなり再び監視対象者の方へ向いた。
 「脅かすなよ、藤木。」
 「いつも気配を出すように努めてるんですけど…」と苦笑いを浮かべて藤木が言う。「それで斉藤さん…例の彼はどうなんです?」
 「どうやら係長の目に狂いはなかったようだ。」
 「そうですか…じゃ、決まりですね。」単眼鏡をポケットから取り出し、藤木は喫茶店にいる監視対象を見た。








 「何で?」女性の目には今にも溢れ出そうな程の涙が溜まっている。
 尋ねられても西野は押し黙ってテーブルの上にあるコーヒカップを見つめることしかできない。
 「ねぇ、何で?どうして?」
 西野の交際相手である吉崎美由紀は「別れたい」と告げられて混乱した。込み上げてくる涙と嗚咽を堪えながら、彼女は愛する男性からの残酷な言葉の理由を探ろうとしているのだ。しかし、西野は別れを告げてから一言も発していない。
 しばらく二人の間で沈黙が続く。
 別れは美由紀にとっても辛い事だが、それは西野も同じであった。できる事なら彼も彼女と一緒にいたかった。それに西野は美由紀との結婚も視野に入れていた。しかし、潜入捜査へ協力を決意した彼は彼女と別れる道を選んだ。
 愛する人だから、幸せになって欲しい。例え、それが身勝手な決断だとしても、彼はこれが一番だと思ったのだ。別れれば、彼女を潜入捜査に巻き込む恐れを無くし、自分が捜査中に亡くなったとしても、彼女の悲しみは小さくなる。
 「他に好きな人ができたの?」と美由紀。
 尋ねられても西野は何も言わずに下唇を噛んだ。
 “そんな人はいない…”
 「どうして黙ってるの?」
 「ごめん…」
 店を出ようと、西野が美由紀の隣を通り過ぎようとした時に右手を彼女に掴まれた。
 「答えてよ…」彼女の声は震えており、手を掴んだ時に目に溜まっていた涙がこぼれ落ちてスカートに小さな染みを作った。
 手に彼女の温もりを感じて西野は「まだやり直せる」と思った。彼は美由紀の手を握り返し、正直に話そうと体を彼女へ向けようと動く。しかし、これから行う仕事の事が脳裏を過ると、それは無理だと考え直した。
 西野は右手の力を名残惜しそうに抜き、彼女の手を振り解く。この時、美由紀は心臓を締め付けられるような苦しみを感じ、顔をくしゃくしゃにして嗚咽を堪える。今すぐにでも彼女を抱きしめて真実を告げたかった。西野の目も潤んでおり、胸の奥から込み上げてくる悲しみのせいで咽び泣きそうになった。
 「ごめん…」そう言い残して、西野は喫茶店を後にした。
 彼女との距離が開く度に抑えていた感情が強くなり、次第に堪えられなくなって涙が溢れ出た。西野はそれを見られないように下を向いて歩く。そして、彼は真っ直ぐ警察署へ向かった。
 同じ会議室で昨日と同じ色のスーツを着た男が待っていた。
 「答えは?」公安部から来た男は喫茶店を監視していた部下からの報告を受けていたので、答えを知っていたが、敢えて西野に尋ねてみる事にした。
 「協力させて下さい。」








 そのニュースを見た時、菊池の顔は蒼白となった。彼の妻はパニックに陥り、テレビの前に座り込んでその状況を見つめていた。
 1995年3月20日。
 携帯端末と通話料料金が安くなったこともあって携帯電話の普及率が70%に達する勢いの頃であったが、菊池家の長女である詩織はまだ携帯電話を持っていなかった。ゆえに現在のような安否確認は不可能であった。娘の両親はただただテレビの画面を見ながら、娘の無事を祈る事しかできなかった。
 テレビ画面にはヘリコプターから撮影される映像が流れている。事件発生から5時間経った今でも地下鉄の出入り口の周りにはブルーシートが敷かれており、その上に横たわる人々と彼らを保護する救急隊員、警察官たちの姿があった。そして、彼らを囲うように複数の警察、消防、救急車両が赤色灯を回転した状態で停車されている。
 その時、固定電話が鳴った。着信音を聞くなり、テレビに噛り付いていた菊地の妻が飛び上がって受話器を持ち上げた。
 「詩織!?」通話の相手が娘だと思った彼女は電話に出るなり娘の名を叫んだ。
 しかし、電話の主が別人だと分かった途端に抱いていた期待が泡となって消えた。
 妻の身を案じた菊地は妻から受話器を取って電話に出る。「もしもし?」
 「父さん?ニュース見てる?」受話口から息子の声が聞こえてきた。
 「見てる…」
 「詩織から連絡は?あいつ、いつもこの時間の地下鉄を使ってるだろ?」
 「あぁ…」父の声は力なく、消え入りそうであった。
 「今から家に帰る。皆で東京に行こう。」
 「そうだな…」
 「父さんも母さんも気をしっかり持ってよ!」
 「あぁ…」
 菊池は受話器を元の場所に戻した。そして、妻に東京へ行こうと言おうとした時、再び電話が鳴った。
 彼が受話器を持ち上げようとした途端、インターホンの音で菊地信弘は現実に引き戻された。
 “またあの夢か…”
 彼の心臓は異常に高鳴っており、目頭も熱くなっていた。再びインターホンが鳴る。初老の大学教授はゆっくりと椅子から立ち上がり、玄関へと急ぐ。彼がドアを開けると、満面の笑みを浮かべた息子が立っていた。
 「ただいま。」
 「おぉ…」
 「父さん、寝てた?」
 「ちょっとな…」
 菊池は息子が両親の身を案じて度々訪問していることを感謝していたが、それと同時に彼は息子の親切心に胸を痛めていた。
 “もうすぐ全てが変わる…その時、息子は私を赦してくれるだろうか?”








 潜入捜査に協力することになった西野は7日後に警察の名簿から記録を完全に抹消された。万が一、警察の記録が漏洩することがあれば、西野の命を危険に晒してしまう恐れが出るからだ。
 表向き警察官を辞めた西野は公安警察の元で訓練を受け、その期間は4ヶ月に及んだ。
訓練の内容は暗号の作り方とその解読法、尾行の仕方と確認、そして、これから成り切らなければならない人物の設定を憶える事であった。西野に与えられた偽IDは小林 健、28歳。小林と言う人物は京都大学法学部で2年学ぶも、学費が払えなくなって休学し、ようやく今年復学した学生という設定であった。
 既に接近戦や武器類の訓練は警察学校で行われていたので、戦闘訓練は不要だと公安部は判断を下した。また、公安部は早期に西野を現地に送りたいと考えていた。その理由として、彼らが想定するテロ攻撃の時期が不明であり、それに加えて「資産」として送り込んでいた人員が忽然と姿を消すことが2度も続いたからである。姿を消した二人は武器の購入に関わっており、公安部が武器購入の首謀者を捕まえようとした矢先に連絡が途絶えたのだ。
 西野はまだ公安部の意図を理解しておらず、彼は「テロ攻撃を止めたい」という思いで訓練に臨んでいた。彼は決して選ばれたことに自惚れている訳ではなく、かつて抱いた理想を実現させうようと強く思っている。
 一方、三浦大樹は西野よりも先に京都へ向かうことになっていた。彼も西野同様に偽のID「高橋 直人」をもらい、立命館大学へ入学する手配がされている。三浦の場合、見た目が若いので現役生として大学に送り込むよう公安部が決めた。
 羽田空港の国内線ロビーで搭乗案内を待つ三浦はキオスクで購入した時代小説を読んでいた。彼は祖父の影響で時代劇が好きになり、後に池波正太郎の『剣客商売』や浅田次郎の『壬生義士伝』の虜になった。今は鳥羽亮の『八丁堀吟味帳』の新作を読んでいる。
 「よいしょっと…」三浦の右隣に男が腰掛けた。
 気にせず小説にのめり込んでいると、隣の男がワザとらしい咳払いをして三浦の注意を引く。煩わしく思った若いSAT隊員が視線を横に移して男の姿を確認する。そこには見覚えのある顔があった。
 「先輩?」三浦が驚いて顔を上げる。
 「相変わらず鈍いな。」中島が笑みを浮かべて言った。
 「ど、どうしてここに?」先輩の出現に三浦は動揺した。
 「見送りに来たんだよ。」
 「でも、講義は?」
 「今日はなかったのさ。」中島は嘘をついた。彼は弟のように可愛がっている後輩を見送るため、体調不良を偽って空港にやってきたのだ。
 「あ、ありがとうございます。」
 「それはそうと…」先輩SAT隊員が遠くを見つめた。「今回の仕事が終わったら、将来の嫁さんを連れてウチに遊びに来いよ。チビ達もお前に会いたがってるし…」
 これを聞いて三浦の顔に笑みが広がった。「喜んで!」
 その時、三浦が乗る飛行機の搭乗案内のアナウンスが始まり、人々がぞろぞろと搭乗口へ並び出した。
 「じゃ、オイラはそろそろ行くよ。知り合いに見られたら、仮病がバレるし…」中島は三浦を見ずに席から立ち上がる。何故か、恥ずかしさが彼の心に込み上げて来たのだ。
 「またな…」そう言い残すと、先輩SAT隊員は人混みの中に消えて行った。

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返報 13-1 [返報]

 「帰れ。」
 中島の声には何の感情も込められていなかったが、藤木は危険を察知してベンチから立ち上がった。
 「最後に一つだけ…復讐なんて考えないでくださいよ。」
 銀縁眼鏡の男がベンチから離れようとした時、背後から殺気を感じた。
 “勘弁してくれよ…”藤木は肩越しに中島を見る。SAT隊員は元公安の男を黙って見つめていた。
 「復讐?」中島が藤木の背中に向けて言った。
 「そうですよ。」藤木は敢えて振り返らずに答えた。「あなたはもう“あの事件”に関わる必要はない。」
 「俺は公安じゃないから、お前の言っていることが分からねぇよ。」
 背後に感じる殺気によって藤木の背中は冷や汗で濡れ、両脚も震えていた。
 “ここまで威圧するかよ!”
 数メートル離れた場所で待機していた藤木の同僚も中島の殺気を感じて身震いし、ホルスターに収められていた銃に手をかけたほどであった。
 「中島さんに…」藤木がハンカチで額に浮かんでいた冷や汗を拭って振り返った。「中島さんに話さなければならないことがあります。」


















13-1






 多くの人が行き交う地下街で悲鳴が上がった。
 女性からハンドバッグを奪った若い男は人々の間を縫うようにして進み、地上へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がった。地上に出て数メートル走った男は現場から十分離れたと思い、上着の下に盗んだ鞄を隠して路地裏へ逃げ込もうとした。
 「待て!」背後から叫び声が聞こえてきた。
 男が振り向くと、追跡してくる制服姿の警察官を見つけた。
 “マジかよ!”
 窃盗犯は再び走り出した。制服警官は装備の付いたベルトを左手で抑えながら、逃走を図る犯人を追う。二人から遅れを取って40代初めの制服警官が階段を上がってきた。
 「ま、待てよ…」肩で息をする警官は声が届かないと分かっていても、先を走る後輩警官に向かって言った。
 若い後輩警官はオフィスビルが建ち並ぶ通りを走り、時々後ろを振り返りながら逃走する窃盗犯の後を追っている。犯人は通行人や車両と接触しそうになってよろけたが、上手くバランスを取って走り続けた。執行猶予中であるこの男は段々と脚に疲れを感じ、このままでは逮捕は免れないと思った。
 “捕まるなんてゴメンだ!!”
 そう判断した男は盗んだ鞄を地面に叩きつけるようにして投げ、警官がそれで追跡を諦めると推測した。しかし、制服警官は走りながら身を屈めて盗まれた鞄を拾い上げ、再び窃盗犯に目を戻す。
 “何なんだよ、アイツ!”
 警官の行動を目撃して窃盗犯は悪態ついた。そして、彼が顔を正面へ戻すと右から飛び出してきた車に轢かれ、その衝撃で地面に叩きつけられた。車を運転していたスーツ姿の女性が倒れた窃盗犯に走り寄ろうとした時、制服警官がそれを制して男の右手首に手錠を取り付けた。
 「13時34分。窃盗の現行犯で逮捕する。」警官が呼吸を整えて言う。
手錠をかけられた男は観念した様子で何も言わず、大人しく制服警官に誘導されて道端に座り込んだ。
 「西野!」先輩警官がやって来た。「お前は…やり過ぎだ…」息を切らしながら40代初めの制服警官が言う。
 「でも、バッグを取り戻せました。それに逮捕もできました。」と西野。
 「いっつもだが、お前との巡回は最悪だよ…」







 「本気でも構わないよ。」紺色のシャツにベージュのカーゴパンツ姿の中島が両手を肩の高さまで上げて言う。
 それを聞いてSATの訓練生は眼光を鋭くして、両手を中島と同じ高さまで上げる。二人の体格はさほど変わらないが、数センチ訓練生の方が高くて手足も長い。間合いで比較すれば、訓練生が優位である。また、中島は防具などを身に着けていないが、訓練生はグローブ、脛当て、ファウルカップを装備していた。
 「行きます!」訓練生が大声を張り上げた。
 これは中島を怯ませるための行為であり、彼は一定の効果を生むと思っていた。しかし、訓練生が動き出そうとした時、中島は彼の股間を左足で蹴り上げた。本気ではなく、それにカップで股間は守られていたが、不快感と微かな痛みが訓練生の戦意を削ぐ。
 間を置かずに素早く中島は左手を訓練生の頭と右手の隙間に入れるように突き出し、その際に右肘を訓練生の顔面に叩き込む素振りを見せる。肘に気を取られた若いSAT訓練生は後退しようとするも、現役のSAT隊員はその前に突き出していた左腕を訓練生の右腕に巻き付け、さらにフェイントとして繰り出した肘の勢いを利用して右手を訓練生のうなじに添えて右膝を股間へと繰り出す。金的を恐れた訓練生の体は前のめりとなり、それを確認するなり中島は左足を軸にして90度回転しながら、訓練生を床へ倒すようにうなじを押す。訓練生は右腕を固定された状態で床に押し付けられ、肩に激しい痛みが走った。
 「相手に出るタイミングを教えるのは良くない。これが訓練であってもね…」他の訓練生たちに向かって中島が言う。
 訓練生たちの表情は引きつっており、自分も同じ目に遭うかと思うと憂鬱になった。それを悟った中島は笑みを浮かべ、拘束していた訓練生から手を離して立ち上がるのを助ける。
 「嫌がらせをしている訳じゃないんだよ。」と中島。「訓練の時についた癖は、必ず実戦にも出る。いくら気を付けていてもね…」
 全ての訓練生がこの説明に納得した訳ではなかったが、それでも新人教官の言葉を胸に留めることにした。
 「じゃ、次、行ってみようか…」
 これに訓練生たちは怯えた。
 ”勘弁してくれよ…”
 「行きます!」訓練生の最後尾から手が上がり、挙手した者が前に出て来た。
 その顔を見て中島は笑みを浮かべた。そして、前に出て来た男も満面の笑みを浮かべている。訓練生たちは見た事ない男の出現に驚き、それぞれ顔を見合わせる。
 「しかし、教官にお願いがあります。」前に出て来た男が言う。「一人で勝つ自信がないので、他の訓練生と組んで教官に挑んでも良いでしょうか?」
 「構わないよ。」中島はあっさりと応じた。「でも、君はもう訓練生じゃないだろ?」
 「つい懐かしくて…」
 「相変わらずだな、三浦…」人差し指で頬を描きながら近接戦闘の教官が言った。「あと5分しかないから、すぐ始めよう。」






 空のハンガーを掴んで制服の上着を掛けると西野は溜め息をついた。疲れからではなく、先輩からの説教が原因だった。彼の先輩はあまり犯人逮捕に積極的ではなく、追跡しても途中で諦める事が多い人物であった。事実、西野が署に戻ってくる前も、「過度な追跡は犠牲者を増やすだけだ」と言って、彼は部下の言葉に耳を貸そうとはしなかった。
 「どったの、西野ちゃん?」4つ隣のロッカーで着替えていた同期の熊谷が喋り掛けてきた。「溜め息なんてついてさぁ~。寿命が縮まっちゃうよ。」
 「何でもないよ。」と西野。
 「水臭いなぁ~。同期なんだし、困った時はお互い様じゃないかぁ。」
 「いつもと同じさ。村上先輩だよ。あの人とは話しが合わない…」白いポロシャツをロッカーから出して西野が言う。
 「村上さんはそういう人だろ?あまり気にすんなよ。そんなことより、最近の携帯ゲームのグラフィックって凄いよなぁ~。もうゲーム機なんていらなくなるかも。」
 西野は口元を緩めて熊谷の話しに耳を傾けた。
 「でも、課金制度は―」
 その時、更衣室のドアが開いて、西野が担当する交番の所長が入って来た。
 「西野、ちょっと来てくれ。」
 「あっ、はい。」
 「私服でも構わん。」
 「分かりました。」急いでポロシャツを着て、西野はロッカーのドアを閉める。
 「何やらかしたの?」と熊谷が小声で尋ねた。
 西野は小さく首を傾げ、更衣室のドアで待つ上司へ急いだ。






 ドアをノックする音を聞いて菊池信弘は読書を中断して顔を上げた。
 「どうぞ。」そう言って、丸縁眼鏡をかける菊池は上着の胸ポケットに入れていた栞を本に挟む。
 「失礼します。」ドアを開けて細身の若い男性が入って来た。
 菊池の研究室は大量の本、新聞、雑誌、書類で埋め尽くされており、それらは高く積まれて並べられている。若い男性は積み上げられた本と雑誌に触れないよう、慎重に教授の机へと続く細長い道を歩く。彼はこの教授の部屋に来る度に、大学付近にある埃臭い古本屋のことを思い出した。その古本屋もこの研究室のように本が通路脇に積まれていて、移動するのが難しい場所なのだ。
 「おぉ、三須君か…片付けようと思ってたんだけどね…」椅子から立ち上がると、初老の男は机の向かい側にある客人用のソファー上にあった雑誌と書類を床に放り投げる。「座ってくれ。」
 「すみません、先生。」肩掛け鞄を膝に置き、三須と言う名の学生は色褪せた二人掛けのソファーの端に腰を下ろす。
 「今日は何の用かな?」と菊地教授が話しを切り出した。
 「先週出された課題について質問があるんです。」そう言うと、学生は鞄からクリアファイルを取り出して菊池に手渡す。そして、次に彼はメモ帳とペンを取り出した。
 ファイルを受け取ると、菊池は胸ポケットからペンを取り、クリアファイルの中から4枚の紙を抜き取る。4枚中3枚は白紙であり、一番上にある紙には短い文章が書かれていた。
 『盗聴の心配はありませんか?』
 「やっぱり、レーニン主義について詳しく言及すべきですか?個人的にはマルクス・レーニン主義の説明があれば、20世紀のソ連における政治体制の説明はできると思うんですが…」三須は盗聴の可能性を考えて話しを続ける。
 菊池は学生の声に耳を傾けながら、手にした白紙の一枚の上でペンを走らせて紙を三須に見せる。
 『守谷たちが点検したが、それらしき物はなかった。』
 この教授も慎重であり、可能性が低くても筆談を止めようとはしなかった。
 「マルクス・レーニン主義はレーニン主義を踏襲してるから、できる限り触れて欲しい。『大粛清』のせいで残虐性ばかり注目されているが、注目して欲しいのは革命によって資本家の搾取を無くし、真の社会主義世界を樹立するというボルシェビキ指導部が持っていた理念についてなんだ。」
 『楠木がマニュアルを手に入れたと言ってます。』
 「やはり、革命の話が必要ですか?」メモ帳に書いた文を教授に三須が見せて言う。
 「ソ連の政治に革命は付き物だったからね。」
 『人手は?』
 菊地が紙に書き込んでそれを三須に見せる。
 『あと4人は欲しいです。現在26人います。』
 「そうですか…じゃ、先生が言った事を書けば、良い点がもらえるんですかね?」
 「そうだね~、取れるかもしれないね。」
 『できる限り、信用できる人間を集めてくれ。』
 そう紙に書くと、菊池は紙をファイルに戻して学生に返した。
 「頑張って書いてきます。」クリアファイルを受け取ると、三須はソファーから立ち上がった。
 「期待してるよ。」
 「はい。」




 ビールを飲み干すと、三浦大樹はジョッキを机に置いて左手で口元を拭う。
 「先輩って、悪魔的に強いですよね!」と正面に座る中島を見て後輩SAT隊員が言った。「5人で行ったのに、4発くらいしか入れられなかったし!」
 「お前が弱すぎるんだよ。」久々の再開に中島は笑みを浮かべる。
 「そんなことないですよ!これでも今の隊では強い方ですし!」
 「なら、お前んのトコは最弱の隊だな。」枝豆を口に放り込んで先輩SAT隊員が言う。
 「酷いっすよ、先輩。」三浦が口を窄める。
 ちょうど二人の横を女性店員が通り、三浦はビールの御代わりを頼むために呼び止めた。
 「先輩も頼みますか?」自分のビールを注文すると、三浦がメニューを指差して尋ねた。
 中島は首を横に振ってビールを飲む。注文を受けた店員は空いた三浦のジョッキを持って、その場から離れる。
 「そう言えば、交通課のあの子とはどうなんだ?」先輩SAT隊員が話題を変えた。
 これを聞いて三浦は口へ運んでいた唐揚げをテーブルに落とし、すぐにそれを箸で拾い上げる。露骨な反応であったが、それ程まで彼は動揺したのだ。
 「な、何の話しですか?」
 「この前、お前と交通課の恭子って子が手を継いでいるのを見たという奴がいてねぇ~」中島がニヤニヤしながら言う。「んで、気になったのさ。」
 飲酒で赤くなっていた顔を一層赤く染めて後輩SAT隊員は唐揚げを口に放り投げた。
 「付き合ってます。」噛み砕いた唐揚げを飲み込むと、小さな声で三浦が言った。
 「え?」中島はワザと聞き返した。
 「彼女と結婚を前提に付き合ってます!」三浦は情報を少し付け足して声を大にした。
 すると、10代と思われる男性アルバイト店員が三浦のビールを持ってきた。後輩SAT隊員は見ず知らずの人間にこの話しを聞かれて恥ずかしくなった。
 「おめでとう!!」中島が自分のビールジョッキを持ち上げる。
 「あ、ありがとうございます!」
 三浦もビールジョッキを持ち上げ、二人は互いのグラスを軽くぶつけてビールを飲む。
 去年まで同じ隊で活動していた二人はまるで兄弟の様に仲が良かった。事実、中島は三浦を弟の様に可愛がり、三浦は中島を兄の様に慕っていた。
 「実は…今日はお話しがあって、先輩を誘ったんです…」妙に改まって三浦が口を開いた。
 「まさか、結婚の仲人の依頼か?」中島は三浦をからかうのが好きで堪らなかった。それほどまで彼を気に入っているのだ。
 「いえ、違います…」
 真剣な顔になった後輩を見て中島は心配になった。「どうした?」
 「ちょっと…新しい仕事が入ったんです…」声を次第に小さくし、三浦は前傾姿勢になって会話を聞かれないようにする。「実は…」







 「潜入捜査……ですか?」西野がオウム返しに尋ねた。
 彼は警察署の2階端にある会議室にいる。その薄暗い室内には彼の他にスーツ姿の男がおり、彼らは長机を挟むように腰掛けていた。
 「そうだ。」40代半ばに見える男が身を乗り出して組んだ手を机の上に置く。「我々は君が適任だと思っている。」
 「何故ですか?」状況が呑み込めない西野はできるだけ情報を得ようとした。
 「西野史晃巡査部長。29歳。福井県出身。福井大学国際地域学部を卒業。その後、一般企業に就職するも学生時代に学んだ事を生かしたいと考えて福井県警に出願、そして、採用される。現在は東交番に配属されているね?」言い終えるとスーツ姿の男は身を引き、椅子の背もたれに寄り掛かった。
 「私の経歴と潜入捜査に何の関係があるんですか?」西野は混乱してきた。
 “公安の人か?”
 「今の環境に満足していないだろう?」とスーツの男。
 質問に質問で返されて西野は苛立ったが、男の言った事に間違いはない。
 「そんなことはありません。やりがいのある―」
 「そこじゃない。」男が西野の話しを遮る。「我々は君の才能を埋もれさせたくない。今の上司の怠惰な所に不満を持っているだろう?」
 心を突かれて西野の心拍数が上がった。”どうやって?”
 「3か月前、パナマ船籍の貨物船から4丁のライフルと500発の弾が見つかった。ニュースでは暴力団の仕業と言っていたが、実際は違う。」ここで男は喋るのを止めて西野の反応を見る。目の前にいる警官はまだ先ほど指摘された事に気を取られている様だった。
 “仕方ないな…”そう思いながら、スーツの男は話しを続ける事にした。
 「購入者は静岡に住む大学生だった。最初は単なる実銃マニアだと思っていた。ライフルは錆だらけのガラクタだったが、一応、その学生を逮捕するために彼の住むアパートに向かった。しかし、彼はナイフで自分の首を掻き切って自殺していた。その後、その他に実銃がないか室内を捜索したんだがね、彼は玩具の銃さえ持っていなかった。ウェブの履歴を見ても、その類の閲覧履歴は無かったし、不自然に消された様な痕跡もなかった。奇妙だと思わないかね?」スーツの男が笑みを浮かべて西野に尋ねる。
 「その学生は誰かに利用されていたのでは?失礼ですが、その話しは潜入捜査に関係があるんですか?それに僕と関係のない話しだと思うん―」
 「何者かがテロ攻撃を計画しているはずだ。我々はかなり大規模な物だと想定している。」
 西野は信じられないという表情を浮かべて真正面に座る男を見る。この反応から男は少なからず手応えを感じた。
 「静岡の学生は氷山の一角だ。彼と同じ様に武器を購入した学生を4人確認している。しかし、その後、4人とも行方不明となっている。いずれも京都を囲むようにして活動していた。標的が京都にあるのか、それともそこに首謀者がいるのか?」男は一度口を塞ぎ、眼光を鋭くして西野を見つめた。「我々はコイツらを止めたい。そのためには君が必要なんだ。」
 「だから、何故です?」真向かいに座る男の眼光に西野はたじろいだ。
 「君の性格だよ。揺るぎ無い信念を持ち、人々を助けるために身を投げ出す…テロリストと戦うには必要なことだ。」
 男は褒めたつもりであったが、西野は馬鹿にされている気分であった。
 「明日、またここに来る。」スーツ姿の男が椅子から立ち上がる。「その時までに返事を頼むよ。」
 そう言うと、スーツ姿の男は西野を部屋に残して去って行った。

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12-4

 

 

 

 喉を抑える広瀬の手当をしようと動いた西野であったが、既に手遅れである事を知っていた。何か喋ろうとする広瀬であるが、喉を被弾したために声を出す事ができず、喋ろうとする度に血を吐いて西野の顔に噴きかけてしまった。血を浴びても西野は怯まず、同僚の体を抱えて首を横に振る。

 「喋らなくてもいい…すぐに助けを呼ぶから…」そう言うと、西野は周囲を見渡して駆け寄ってくる小木と荒井を見つけた。「すぐに救急隊員を呼べ!まだ助かる!!」仲間を見るなり、彼は叫んだ。手遅れだと思っても、諦めたくないのだ。

 小木が携帯電話を取り出して救急車を要請し、荒井は念のために周囲の安全確保に動く。SAT隊員がテロリストの利用していた遮蔽物の陰へ回ると、床に倒れる4人のテロリストに4人のSPを見つけた。荒井が生死の確認へ動くと、倒れていた女性SPが起き上がった。

 「応援ですか?」と女性SP

 「そ、そうですよ…」狼狽えながら荒井は答えた。

 「議員は無事ですか?」

 「まだ分かりません。これから議員を捜索します。」

 「そうですか…」

 西野と小木が見守る中で広瀬は息絶えた。大きく目を見開き、座っていた首は糸の切れた人形のようにガクンと落ち、血に染まった両手はゆっくりと床へ滑って行った。

 仲間の死体を見て呆然とする小木であったが、西野は込み上げてくる嗚咽を抑えて、きつく瞼を閉じる。そして、目を開けると西野はゆっくりと丁寧に広瀬の目を閉じさせ、亡き同僚の防弾ベストに付いている予備弾倉とフラッシュバンを取った。

 「何やってんだ?」小木が不思議そうに尋ねる。

 「分かるだろ?逃げた奴らを追うんだ。」そう答えながら、西野は短機関銃に新しい弾倉を叩き込んだ。「お前はここで広瀬を見ててくれ。荒井よりもお前の方が救急隊員に上手く説明できるだろう。」

 「もういいだろう…俺たちは十分やったぜ。あとは他の連中に任せよう。」小木は広瀬の顔を見て言った。

 「まだ終わってない。」西野が立ち上がる。「まだだ…」そして、彼は本間を追うために走り出した。

 

 

 

佐藤はオフィス椅子の裏側に取り付けて置いた黒いビニール袋に包まれた弾倉を取った。次に中年の男は部屋の隅にあった長テーブルを部屋の中心まで運び、それを踏み台にして天井裏に隠していた布に包まれたライフルを手探りで見つけて慎重に下ろした。

テーブルにライフルを置くと、男は布を取り除いて中身を確認する。薄汚れた布の中から2つの四角い穴が開いている銃床と消音器の内蔵された銃身が特徴的なVSSが出てきた。佐藤はそれを別のテーブルの上に乗せ、弾倉を隠すのに使っていたオフィス椅子を倒し、それを踏み台として使ったテーブルの上に乗せる。

“さて…”心の中でそう呟きながら中年男は窓を開けた。冷たい風を顔に浴び、体を少し震わせると室内に目を戻す。

彼はヴィントレスの愛称を持つこの狙撃銃を持ち上げ、10発入りの弾倉を装填すると遊底を引いてテーブルの上に置いた椅子にライフルを据える。窓との距離は1メートル弱であり、容易には発見されない。佐藤はスコープを覗き込み、150メートル先にあるグランドホテルの搬入口にあるシャッターを確認する。シャッターの中心部分には大きな穴が開いており、スコープの倍率を下げるとシャッター前に乱雑に停車されている4台の車両が見えた。

“あと3分…”腕時計に一瞥を送って佐藤は思った。

 

 

 

 3人のテロリストに囲まれた小田完治とSPの真嶋は背後にあるバンに追いやられた。身を挺して議員を守ろうとする真嶋であったが、これも時間の問題だと思っている。テロリストの目的が議員の殺害であれば、すぐに真嶋諸共小田完治を射殺する。

一方、残り3人のテロリストは議員家族と民間の警備員たちを取り囲んでいた。警備員たちは真嶋同様に家族を囲って盾になろうとしている。

「時間もないし…」堀内が口を開く。「あまり待たせると、議員にも悪いでしょ?死ぬならストレスのない方がいい…」MP-5Kを持ち上げ、堀内は真嶋に銃口を向ける。

議員の死に様を見たいテロリストたちは一斉に堀内の動きを注視する。そして、戸田と言う名の警備員はこれが好機だと判断した。

堀内が笑みを浮かべて引き金を絞ろうとした時、戸田が左隣にいたテロリストのMAC-10短機関銃に掴みかかった。銃を掴むと同時に彼はテロリストの頭に頭突きを喰らわせ、相手が怯むのを確認するや否や、短機関銃をもぎ取ろうとはせずに銃口を堀内の方へ向けて引き金に指を入れて引いた。一瞬の出来事であったが、視界の隅で起こった事に気付いた真嶋は議員と共に床に伏せる。堀内は何事かと思ったが、銃声を聞き、そして、彼の左隣にいた仲間が被弾して倒れるのは見ると状況を把握した。

テロリストは姿勢を低くしながら振り向き、戸田の位置を確認すると2度引き金を引く。銃弾は警備員の左肩と胸に命中し、肩に命中した弾は貫通して戸田の背後にいたテロリストの顎を吹き飛ばした。被弾した警備員は背後の壁に寄り掛かり、顎が吹き飛んだ男は床に崩れ落ちた。

「面白い!」堀内は被弾した戸田に歩み寄る。「度胸がある。でも、状況が悪い…」そう言うと、MP-5Kを持つテロリストは議員家族の盾になっていた若い警備員の頭を撃ち抜いた。

それに激怒した戸田は堀内に襲い掛かろうとするも、堀内に蹴り飛ばされて壁に叩きつけられた。

「非力だ…」そして、堀内は別の警備員の頭を撃ち抜いた。「自分の愚かさに気付いたかな?」

「そこまでにしなさい!」本間が一人の仲間を従えて室内に入って来た。「私たちの目的は小田よ。」

「いいじゃないか…」と堀内。

「議員を殺して逃げる。これだけよ。」

「仕方ない…」

堀内は残念そうに小田議員と真嶋の方へ戻る。やれやれと溜め息をつき、本間は一緒に来た仲間と共に議員の所へ向かう。途中、何かが本間の踵に当たった。女テロリストが足元を見ると、そこには細長い筒状の物がある。

“なっ!!?”

 本間がそれを蹴り飛ばそうとした時、眩い光と爆音が室内を覆った。

 

 

 

西野の後を追うのは容易ではなかった。

銃撃戦に二度も遭遇したため、装備が減って身が軽くなって動きやすくなっても荒井は前を走る西野を追うのが辛かった。戦闘による痛みや疲労からではなく、走る道の光景の凄惨さにSAT隊員は耐えられないのだ。血と肉片で赤く染められた廊下、体の一部が破損した死体の数々、微かに意識のある怪我人の呻き声。全てが目を背けたくなる地獄絵図であった。

小木が大ホールに残ると言ったので、仕方なく荒井は西野の後を追っているが、実際は彼も小木と共に待機していたかった。

それを他所に西野は足を止めることなく走り続けている。彼を突き動かすモノは「復讐」であった。広瀬だけのためではなく、このテロ事件で亡くなった全捜査員と巻き込まれた人々のためである。西野は一人でこの事件を解決する気でいる。

血と死体を頼りに走り続けること1分、二人は搬入口へと繋がる長い廊下で2度の銃声を耳にした。急いで西野と荒井は音がした場所へ駆けつけ、ドア枠の横に並んで室内の様子を伺う。西野は2人のテロリストに囲まれる議員家族とその護衛、5人のテロリストと対峙するSP1人と小田完治を確認した。背後にいる荒井の方を向き、ネズミ取りの捜査官はテロリストの数と大まかな位置をハンドシグナルで伝える。SAT隊員は頷き、MP-5の銃床を右肩に押し付けた。

呼吸を整えながら閃光手榴弾を取り、西野はその安全を抜いて室内へ静かに転がした。手榴弾は吸い込まれるようにして部屋の中央へ転がり、それは女テロリストの踵に当たって止まった。そして、本間が足元を見ると同時にそれは爆発した。

閃光と爆音を確認するなり、西野と荒井は室内へ踏み込んだ。最初にネズミ取りの捜査官が目にしたのは二人のテロリストに囲まれる民間と警備員と小田議員の家族3名であった。彼は目視すると銃口と体を右へ向け、その際に室内の中心にいるテロリスト4名とSP、そして、小田完治の位置を確認した。その後、視線を完全に右へと移動させて脅威の有無を確認する。

異常なし。

2秒の間に脅威の数を理解すると、西野と荒井は姿勢を低くして右へ移動しながらテロリストに向けて発砲する。まだ、閃光手榴弾の影響で視力と聴力が回復していないテロリストたちはこの攻撃に混乱し、この間に撃ち殺されると思い、我武者羅に発砲を始めた。彼らにとって、視力と聴力が元に戻るまでの時間が永遠のように思えた。

閃光手榴弾の存在に気が付いた真嶋は爆発の直前に目を閉じていた。彼に手榴弾の種類を判別するだけの余裕はなく、それはただ単に爆発への恐怖に対する行動であった。しかし、それが結果的に彼へ危機を回避する機会を与える事になる。

爆音による耳鳴りでふらついたが、真嶋の視界は良好であった。彼は議員の手を引いて避難しようとするも、状況が掴めていない小田は腕を振って抵抗する。仕方なくSPは強引に議員の手を引き、大きな穴の開いたシャッターへと急ぐ。そして、シャッターの開閉ボタンを押す。巻取りシャフトが唸るような音を出してスラットを持ち上げる。スラットが60センチ程浮き上がると、彼は議員と共にその下を潜り抜けて外へ避難した。

テロリストの放った銃弾が西野と荒井の頭上を横切って壁に無数の穴を開けた。銃撃を受けても、二人は怯まずに発砲を続ける。銃撃戦が始まると、小田完治の妻と娘が悲鳴を上げ、息子はただ頭を抱えて蹲った。彼らを守る警備員たちは包み込むように警護対象たちを囲む。

西野は小田完治がいる場所に、荒井はその家族を囲むテロリストに向けて引き金を引き続けた。弾薬の節約と精密射撃のため、二人はフルオートでなくセミオートで撃っている。事実、弾の消費を最小限に抑えることはできているが、移動しているために正確な射撃は不可能であった。それでも西野と荒井はそれぞれ一人のテロリストを無力し、高く積まれた段ボール箱と黄色いプラスチック製の箱の陰に滑り込んだ。身を隠すなり、二人は再装填を始める。この頃になってやっと、テロリストたちの視力と聴力が回復した。

クソッ…本間は床に転がる仲間の死体を見て思った。彼女は素早く死んだ男からMAC-10をもぎ取ってバンの陰に身を潜める。

「おい!」

堀内が本間の右肩を引き、本間は鋭い視線を背後に向ける。

「小田がいない。」

女テロリストはそれを聞いて焦り、咄嗟に周囲を見渡した。しかし、小田とSPの姿はない。

「何所よ!!」本間が堀内を怒鳴りつける。

「シャッターを開けて逃げたんだろう。どうする?俺が追おうか?」堀内の言葉には余裕の色が見えた。しかし、本間にはない。

「うるさいッ!!」そう吐き捨てるなり、女テロリストは走り出した。

 

 

 

 

遮蔽物から出るなり、西野は外へ向かって走る本間と彼女を追う二人のテロリストを発見した。彼は短機関銃のセレクトレバーを単射から連射に切り替え、3人のテロリストの動きを追うようにMP-5Fを水平に振りながら引き金を絞る。しかし、銃弾が3人を捕える事はなく、西野は弾倉を一つ無駄にしてしまった。

クソッ!

議員の排除を最優先と考えて外へ出たテロリストを追うために西野は再装填ではなく、腰のホルスターから拳銃を取り出して走り出す。荒井も彼の後を追って動き出した。

その時、バンの陰から堀内が飛び出してきて、西野の拳銃を掴むとMP-5Kの銃口で捜査官の左手の甲を殴った。あまりの激痛に西野は左手を銃から離したが、拳銃はまだ右手で握られている。続けて堀内は短機関銃の銃口を西野の顔に向けた。素早くまだ痛む左手を伸ばして、西野はテロリストの短機関銃を掴んで間髪入れずに頭突きを堀内の鼻頭に喰らわせた。

「先に行けぇ!!」西野が背後で狼狽えていた荒井に向かって叫び、再び堀内の鼻頭に頭突きを入れた。SAT隊員はこの一言で我に返って3人のテロリストを追う。

二度の頭突きで鼻の骨が折れたテロリストは、西野の拳銃から手を離して一歩後退する。右手が自由になると、捜査官は銃口で折れた鼻から血を流す堀内の額を突く。激痛に堀内は短機関銃から手を離し、西野の右手首を掴むと勢い良く飛び掛かり、捜査官をシャッター横の壁に叩きつけた。そして、下から突き上げるように右肘を繰り出して西野の顎を殴る。反撃の機会を与えないようにテロリストはすぐさま右肘を西野の左側頭部に叩き込む。この素早い連打に西野は上手く反応ができず、また、そのダメージによって彼は拳銃を地面に落としてしまった。

堀内は中島にやられた事を真似しようと、西野の頭を背後の壁に叩きつけるために捜査官の体を手前に引いた。この瞬間を利用して西野は右膝で堀内の股間を蹴り飛ばし、体をくの字にして後退する男の頭を両手で掴んで右膝をテロリストの顔面に叩き込む。堀内は悲鳴を上げて後ろに倒れるように転び、血だらけの鼻を両手で抑える。捜査官は既に戦意を失っているテロリストの顔面を蹴り飛ばして追い打ちをかけ、堀内は耳朶を震わせるような悲鳴を室内に響かせた。

しかし、その悲鳴も束の間の事であった。テロリストの口は閃光手榴弾で塞がれ、西野はそれを掌底で深く堀内の口に押し込む。男の目に涙が溜まり、何かを言おうとしていたが、ネズミ取りの捜査官はそれを無視してフラッシュバンの安全ピンを引き抜いた。

 

 

 

乗り捨てられた車で埋め尽くされた狭い道を縫うように進む真嶋と小田完治の頭上を何かが通過した。真嶋は瞬時に銃弾だと気付いて議員と共に近くにあった車の陰に隠れる。二人はまだホテルの裏口から4メートルしか離れていない。

本間たちは急いで真嶋と小田に追いつこうと発砲しながら走ってくる。SPは拳銃を取り出すと、テロリストの足を止めるために弾倉が空になるまで引き金を絞った。発砲されて本間たちテロリストは姿勢を低くすると、付近の遮蔽物に身を隠す。

その間に真嶋は新しい弾倉を拳銃に叩き込む。この際に彼は背後から迫ってくるエンジン音を耳にする。そして、それに続いて何かが激突する凄まじい音が狭い路地に響く。何事かと振り返ると、SPは乗り捨てられた複数の車を押しのけながら迫ってくる黒い大型車両を見つけた。その車は後退しながら、他の車を突き飛ばして小田と真嶋に迫っていた。

新手!!?

咄嗟にSPはその車両に向けて発砲する。しかし、車は停車する事も速度を落とす事もしなかった。拳銃の遊底が後退して弾切れを真嶋に報せる。急いで彼が再装填しようとした時、車が彼らの1メートル先で車体を横にして停車した。焦るあまりSPは新しい弾倉を地面に落とし、急いでそれを拾おうと動く。二人の前で停車した車の運転席から短機関銃を抱えた男が現れ、素早く銃を構えると本間たちテロリストに向けて射撃を開始した。

仲間?!

真嶋が混乱していると、彼の隣に短機関銃を抱えたショートヘアーの女性が並ぶ。

「あの車を使って逃げてください!」新村が銃声に負けないよう大きな声で言った。

「アンタたちは何者だ?」と射撃を続ける野村と新村を交互に見て真嶋が尋ねる。

「増援です!いいから、早く!!」そう言うと、新村は車の陰から身を乗り出してテロリストに向けて発砲する。

「ありがとう…」

SPは議員を連れてSUVに乗り込もうとする。しかし、議員は抵抗した。

「家族がまだ―」

「まずは議員の安全確保です。それから―」

「何をしてる!?」再装填する野村が真嶋を怒鳴りつけた。「早く逃げろッ!!」

 

 

 

野村と新村の介入によって、本間たちは足止めされた。そして、この状態は佐藤にとって好機であった。静止物ほど撃ちやすい物はない。中年男はスコープの十字を本間の頭部に合せ、伸ばしていた人差し指を引き金に掛ける。

あとは合図を待つだけ…

撃鉄を下ろす音が背後から聞こえてきた。佐藤はため息をついて引き金から指を離し、狙撃銃から顔を離す。

「両手を挙げて、その大きな銃から離れてくれないかな?」背後にいる男が言う。「ゆっくりね…」

「どうして、ここだと?」両手を肩の高さまで挙げると佐藤が尋ねる。彼はゆっくりと振り返り、声の正体を確認した。部屋の入口にはだぶだぶの服を着た男が立っている。距離は2メートル弱。

「ネットで付近の建物を確認したんだ。それでここが一番いい場所だと思った…」中島が笑みを浮かべて言った。SAT隊員は腰の位置で拳銃を構えている。

「面白い…」そう言いながら、中年男は一歩、中島に近づく。

「申し訳ないけど、じっとして欲しい。手荒な真似はオイラの趣味じゃない。」

「本当かな?」佐藤はまた一歩踏み出す。距離は約1.5メートル。

これを見ても中島は笑みを崩さない。佐藤はその笑みが優越から来るモノでなく、SAT隊員の戦術だと見抜いた。相手の緊張を解して投降するように促すのが目的だ。

「本気だけど…アンタにその気は無いみたいだね。」

中島が佐藤の脚を撃とうと銃口を動かした瞬間、狙撃手がSAT隊員に飛び掛かった。

 

 

 

閃光手榴弾が爆発する直前に西野は拳銃を拾い上げて外に飛び出した。彼は出てすぐの場所にあった車の陰から射撃している荒井の隣に移動し、周囲の状況を確認する。異常なし。西野は急いで拳銃をホルスターに戻し、MP-5Fに新しい弾倉を叩き込む。

形勢は逆転した。3人のテロリストは挟まれ、あとは時間の問題であった。しかし、彼らは無駄死にする気など一切ない。

いた!本間は小田完治の姿を確認した。議員はSPに連れられて車に乗り込もうとしている。激しい銃撃を受けながらも、女テロリストは鞄の中からプラスチック爆弾と信管を取り出した。急いで爆薬に信管を差し込もうとするも、被弾した右腕が震えて上手く行かない。

こんな時にッ!!

衝撃が胸部を襲い、彼女は爆弾を地面に落として背後にあった車に叩きつけられた。荒井の発砲した弾が命中したのだ。これに気付いた本間の仲間2人が立ち上がって背後へ集中砲火するも、野村と新村が2人のテロリストを沈黙させた。

やっと現場に静寂が訪れた。本間は胸の痛みに耐えながら、爆弾を拾い上げようとする。しかし、その直前で西野が爆弾を取り上げた。女テロリストは歯を剥き出してネズミ取りの捜査官を睨み付ける。

「もう終わりだ…」と西野。

奇妙な音が聞こえた。ガスが漏れるような奇妙な音であった。西野が音源へ顔を向けた瞬間、彼と荒井の背後にあった車が爆発して2人は地面に叩きつけられた。

遠くから見ていた野村と新村は爆発の原因を目撃していた。

ロケット弾。

それはホテル裏口の正面にある一方通行の道から飛んできた。

2人の捜査官が急いで西野を助けようと走り出すなり、ロケット弾が飛んできた道から2台の白いバンが出現した。バンから重装備の男が10人降りてきて、野村と新村に向けて発砲する。野村は急いで新村を引っ張って近くの遮蔽物に身を隠す。

一体、何人いるんだ!?

爆発の影響で意識が朦朧する中、西野は迫ってくる10人の男たちを見た。彼らは本間たちと違って短機関銃ではなく、火力の強い自動小銃を所持して顔は目出し帽で隠されている。

急いで動こうとするも、全身に激痛が走って捜査官は再び地面に崩れ落ちた。周囲に目を配る。右斜め前方に車を背にうな垂れている本間、左隣には地面に叩きつけられた衝撃で頭から血を流す荒井。西野は激痛に耐えながら、右手をゆっくりと拳銃のホルスターへ伸ばす。人差し指が拳銃に触れ、急いで銃把を握る。銃を引き抜こうとした時、何者かが捜査官の手を掴んで拳銃をもぎ取った。

西野から銃を奪った男は隣にいた長身の仲間に手渡し、受け取った男はその銃口を気絶している本間に向けて2度発砲する。頭部と胸部を撃たれた女テロリストは呆気なく死亡した。

次は自分の番だと思った西野は目を閉じて死を覚悟した。しかし、本間を撃った長身の男は西野の拳銃を自分のベルトに挟めると、胸ぐらを掴んで西野を引き寄せる。

「久しぶりだな、小林…」そう言うと、長身の男が目出し帽を脱いで素顔を見せた。男の額には小さな切り傷がある。「それとも…西野と呼ぶべきかな?」

男の顔を見た西野は驚きを隠せなかった。

「も、守谷……?」

 

 

 

 

 

 

 

 ご愛読ありがとうございました!

また来年!! 

 


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